第五章 謎解きは茶碗とともに 二
艀にはル・メール自身も乗り込んだ。
カピタンの号令で天翔と翠玉が櫂を操る。編み笠をはねのけた翠玉の額に珠のような汗が浮かんで、頬から顎へと流れては鍋墨を洗い落としていった。
船着き場は石造りだった。すぐ前に三階屋ほどの高さの石壁がそびえたっている。緩く弧を描く石壁の真ん中にアーチ型の門が設けられていた。
六つの黒い鋲を打った木製の扉が閉ざされている。前にマスケットを手にした武官が五人も並んでいる。
艀が錨を下ろすなり、一人が足音高く駆け寄ってくる。
〈ル・メール少尉、ご無事でしたか! 人質になっていたマダムとは、そちらのサールーン人の?〉
〈ああ。みな安心してくれ。海賊というのは単なる誤解だったんだ〉
ル・メール少尉が先ほど船上でしたのと同じ説明を繰り返し、領事を呼んでくるようにと頼んだ。
ややあって門扉が内側から開いて、見慣れない服装の法狼機人が現れた。
すらりと背の高い男である。
裾の長い黒い上着とふくらみのある膝までの白い袴。
襟元にも白い布を巻き、縁に毛皮の折り返しのある黒い長靴を履き、赤みを帯びた褐色の柔らかそうな髪を黒天鵞絨の布でひとつに束ねている。
月牙はふと麗明の髪を思い出した。
「……あれが領事?」雪衣が小さく呟く。「また、ずいぶんと若そうだね」
法狼機の年齢がよく分からない月牙の目にも、その人物の姿はたしかに若々しく映った。
〈シャルダン領事!〉
少尉が呼びかける。
〈お呼びたてしてすみません、実は、こちらのマダムは、〉
〈ああ、少尉、話は聞いているよ。以前話してくれたあのマダム・ル・メールの御親戚だろう?〉
領事が笑って遮る。華やかな見た目よりも低く太い落ち着いた声をしている。
これも見た目にそぐわない荒っぽい大股で近づいてきた相手の顔に、月牙は目を奪われた。年齢と同じく、法狼機の美醜は月牙にはよく分からないのだが、それでもずいぶん整った顔立ちをしていると思ったのだ。
乳のように白い膚とやや頬骨の高い面長の輪郭。
けぶるような睫にぼかされた横長の眼窩にはめ込まれているのは真黒な天鵞絨のような眸だ。
領事はその眸をまず雪衣に向け、見定めるように細めてから、おもむろに月牙へと向き直った。
〈マダム、お噂はかねがね。あなたのようにお美しいお方をお迎え出来て光栄です〉
――珍しいな。こういう感じの優男が私より背が高いなんて。
妙に新鮮な気分で見上げる。すると領事がまた笑い、右足をおってすっと頭を低めてきた。柔らかな髪が揺れると、微かに甘い薔薇のような匂いがした。香でも焚き染めているのだろうか? 実に全く優男だ。小蓮がぽかんと口をあけてみている。
〈いらっしゃって早々の水難事故とはお気の毒でしたね。私はこのリュザンベール王国駐サールーン領事館を預かるラウル・シャルダンと申します〉
領事の口調は滑らかだった。
まるで初めから定められた台詞を諳んじているようだ。
ふと上からの視線を感じて振り仰げば、三階屋ほどもある石壁の上の胸壁のあいだに、白と薄紅色と水色、三つもの日傘が、季節外れの花のように並んでいるのが見えた。
「見られているみたいだね」
「ああ」雪衣が浅く頷く。「敵地って気がするね」
「太太は某の邸へ。水夫どもはしばし舟で待てと領事の仰せじゃ」
ル・メール少尉が通訳する。
月牙が降り、雪衣が降り、小蓮が立ち上がっても、翠玉は櫓に手をかけたまま微動だにしない。
「なあ翠玉よう――」
カピタンが腕を枕に船縁に寄り掛かったまま呼んだ。
「おめえ、行きたけりゃ行ってもいいぜ?」
「私が? 御冗談を」と、翠玉が喉を鳴らして嗤った。「私を何だと思っているんですか? 海都浮街に名高い情夫殺しの呉翠玉ですよ? ――頭領たちの冤罪を晴らすために証言が必要だっていうなら、もちろん行きはしますけれど」
「そういう事態にならないように、極力交渉するよ」と、雪衣が低く告げる。翠玉が気まずそうに眼を逸らしながら言う。
「判官様にも、本当に申し訳ありませんでした。どうぞ、ご無事に宮へお戻りになられるよう、陰ながら祈っております」
「ありがとう元・妓官。きっと大丈夫だよ」
「――翠玉姉さん、元気でね」
小蓮がかすれた声で告げる。翠玉は目を細め、腕を伸ばして頭を撫でた。
「あんたもね小蓮。麗明さまと桂花にもよろしく――本当のことを話したら麗明さまなんか卒倒しちゃうだろうから、みんな元気で御針子をしていたとか、そんな感じで伝えておいてね?」
「蘭児たちはともかく、翠玉姉さんが御針子? ちょっと無理がありすぎるんじゃないの?」
「失礼な。私だってこの頃祭り縫いくらいできるんだからね? あ、それから月牙姉さん」
翠玉はごく自然な口調で呼んだ。
「もし結局逃げるんだったらいつでも頼ってくださいね? 石竹団呉一派の名にかけて必ずお助けしますから」
胸を張ってそういう翠玉の声音は誇らしげだった。
「ありがとう。頼りにしているよ」
月牙はどうにかそれだけ答えた。
それ以上声を出してしまうと涙が出そうだった。
そのとき、門前から笑いを含んだ声が響いた。
〈マダムたちは水夫と別れのご挨拶かな? ずいぶん熱心だね〉
見れば、シャルダン領事が門前で腕を組んで笑顔を浮かべているのだった。
その顔はいかにも柔和だった。
柔和すぎて全く本心が読めない顔だ。




