第五章 謎解きは茶碗とともに
11月11日 章タイトルを変更しました
カピタンの根城は浮街を浮かべる大ため池の外、湿地帯のただなかの小島にあった。
月牙たちはこの根城で三日を過ごし、ちょうど祖霊祭の明けた中夏月中旬八日目の早朝、逆茂木の外の桟橋から小舟に乗り込むことになった。
服装は全員法狼機服である。月牙は例の緑の絹服。雪衣と小蓮は呉一派の根城で見繕った灰色と翠の格子縞のタゴール綿の法狼機服。内門筋のお大尽の奥方とお供の女中二人といった拵えである。
二丁櫓の小舟の舵をとるのはカピタン当人だ。他に翠玉と天翔も従う。
翠玉は男物の灰色の袍をまとい、顔に鍋墨を塗って、編み笠を目深にかぶって美貌を隠していた・
「よし、そろそろ引き潮だな。天翔、舫い綱をとけ」
カピタンが梶棒を握りながら命じる。綱がほどかれるなり、小舟は見えない水脈に乗って葦原のなかを滑り出した。
カピタンのかじ取りは巧みだった。
小舟は幾度も向きを変えながら、葦原のただなかを滞りなく抜けていった。
じきに視界が開けると、まばらに茂る葦の向こうに燦めく水面が見えた。真向いから潮風が吹き付けてくる。右手の遠くに石積みの堤防のようなものが見えた。
「ああ、海だね!」
雪衣が目を輝かせてカピタンを振り仰ぐ。
「ここは、大波止の南あたり?」
「おう」と、カピタンが頷く。「ここからぐるっと堤をめぐって北の河口に向かう。赤い花の蕾の旗の船を捜してくれや」
カピタンは優れた船頭だった。帆のない小舟を器用に操ってたちまち防波堤をめぐり、大波止の入り口を塞ぐ長い砂嘴を右手にして真北へと漕ぎ進んでいった。
するとじき行く手に黒っぽい帆船が見えた。
船尾と船首を高く造った三本帆柱の船だ。柱の頂に翻る白い四角い旗に、赤で花の蕾のような意匠が配されている。
「あの船かな?」
「みてえだな」
帆船は近づくと思ったより大きかった。舷側の高さがかなりある。艀が錨を下ろすなり船縁から声がかかる。
〈マダム、舟遊びですか?〉
「おい天翔、通訳しろ! 逃亡女官三人を捕らえた! 女たちは自分らが濡れ衣を着せられたといっている! 証拠のマスケットを持ってきたから領事に合わせてくれ!」
青い目の少年が緊張の面持ちで頷いて叫ぶ。
〈女捕らえた! マスケットある! 領事呼べ!〉
途端、船上から悲鳴があがった。
〈うわあ海賊だぁ!〉
〈マダム、人質になられたので!?〉
〈マスケットを持っているらしい! 皆うかつに動くな! ああマダム、今すぐ! 今すぐお助けしますから、どうぞそのまま落ち着いていらしてください! おい海賊、求めるのは身代金か?〉
〈言葉長い! 分からない!〉
〈銭いるか!?〉
〈いる!〉
〈なら待て! ――駄目だ、ろくに言葉が通じない。おいだれか、租界からル・メール少尉をお呼びしてこい!〉
左舷側から出されたロングボートがすさまじい速さで船着き場へと漕ぎ進んでいく。ややあって中甲板へと駆けつけてきたのは、青い上衣の前身頃に二列に金ボタンを並べた法狼機人の武官だった。
よく陽に焼けた赤銅色の膚の明るい空色の目。
口元に笑い皴の刻まれた感じのよい顔立ち。
どこかで見たことのある顔だ。
「――そなたは、南蛮天水渡りの通詞どのだったか?」
雪衣が心許なそうに呼ぶ。
通詞どのは――タゴール渡りのリュザンベール人であるアンリ・ル・メール少尉は、こちらも心許なそうな面持ちでつくづくと月牙を見つめていたが、じきに目を見開くなり、船縁から身を乗り出して叫んだ。
「なんと太太、御身であらせられたか! そこな海賊、求める銭は幾らじゃ!」
「幾らって、銀二〇〇両に決まっているだろう! 逃亡女官三人にそっちがかけた報奨金だろうが!」
「え、逃亡女官?」
「通詞どの! 頼む! 話を聞いてくれ! 我々は無実だ! 証を立てる品を持ってきたから領事に合わせて欲しい!」
雪衣が縋りつくように呼ばわる。ル・メール少尉は呆然とした表情のまま、水夫に命じて艀へと縄橋子を下ろさせた。
「太太、御身は何者なのじゃ?」
三人の女官が乗船すると、ル・メール少尉はまず月牙に訊ねた。月牙は背に負った箙から羽根矢を抜き取って答えた。
「私は武芸妓官だ。主命によって桃梨花宮の主計判官様をお守りしている」
説明しながらことさらに恭しく雪衣に頭を下げる。傍で見ていた身なりのいい船乗りが訝しそうに訊ねる。
〈ル・メール少尉、こちらのマダムはお知り合いなのですか?〉
〈え、あ、その――実は、ああそう、この方は、私の妻の御親戚でね!〉
〈御親戚?〉
〈そうそうそう。しかも非常にご身分の高い宮廷女官なんだ!〉
ル・メールが空色の目を泳がせながら応える。
〈あ、それから、海賊というのはどうやら誤解らしい〉
〈誤解?〉
〈そうだ。櫂を流されて困っていらしたところを、あのタゴール人水夫が助けてくれたんだそうだ――〉
ル・メールが言葉を切り、古風な双樹下語で月牙に頼む。
「太太、かの水夫に手を振ってくだされ。笑顔での」
「?」
月牙が言われるまま笑顔をこしらえて艀へと手を振る。カピタンが笑いながら手を振り返してくる。船乗りは納得顔で頷いた。
〈なんだ、そういうご事情でしたか! いやはや少尉、お騒がせしました。言葉が通じんというのはどうにもいけませんなあ。
〈お気になさるな船長。マダムは領事にご挨拶したいそうだ。ちょうどいいから私が陸までお送りしてしまうよ〉
〈ロングボートを使いますか?〉
〈いや、大恩人の水夫に頼もう。手間賃を弾んでやりたい〉
ル・メールが再び双樹下語で呼ばわる。
「そこな水夫、陸までわれらを送ってくれい!」