第四章 身を持ち崩した娘たち 十三
長い第四章がようやくに終わります。
「ああん?」
大男が天翔の襟から手を放して顔を向けてくる。
「なんだ、あんたが、あ――」
「カピタン、武芸妓官だ」と、小男の俊永が小声で教える。
「おう、そうだそれ。武芸妓官ってやつか?」
「ああ。私は桃梨花宮外宮外砦門警衛の武芸妓官の頭領、世にいう柘榴庭だ。こちらのほうではどうか知らないが、柘榴庭の頭領といったら京洛ではそれなりに知られた名だ。どうだカピタン。このまま言い争っていたってらちがあかない。ひとつ、そのマスケットをかけて、この柘榴庭と正面から勝負をしてみないか?」
「へえ、正面から?」
カピタンが目を細める。翠玉と天翔がそろって顔色を変える。
「無茶だよ頭領、いくらあんただって!」
「ええ頭領、無理です! カピタンは強すぎる!」
「黙ってろ餓鬼ども。俺はこの頭領さんと話をしているんだよ」
男の目が上から下まで月牙を眺めまわした。
「へえ、これはまたなかなか」
低く滑らかな声で囁き、ニッと笑いを浮かべる。
その顔に浮かぶ愉悦と軽侮に、月牙は背筋がおののくような怒りと屈辱を感じた。
――男どもはいつもこうだ。嘲るのであれ褒めるのであれ、いつだって自分が値踏みするほうだと思っている。
そう思うなり柄を握る手が怒りで震えそうになった。
何も考えずに目の前の男に斬りかかってやりたい。だが、それではダメだ。
――落ち着け、落ち着け蕎月牙。こういう場合にはどうすればいい? どうすればいいと教わってきた?
必死で心を静めながら、十八の頃から繰り返し聞いた飛燕の言葉を思い出す。
――いいかお前たち、己の非力さを受け入れろ。受け入れた上で何をするべきかを考えるんだ。
頭の中で穏やかな飛燕の声がする。
月牙は心がすっと冷えていくのを感じた。
顔をあげてカピタンをみやる。
すると相手はまたにっと笑った。
「いいぜ頭領さん。やってやろうじゃねえか」
カピタンが低く囁いた。
睦言のような甘さと侮りを含んだ声だ。
「あんたが勝ったらマスケットは渡してやる。もし俺が勝ったときは――そうだな、あんたがここに残るってのはどうだ?」
「私を残してどうするんだ? 不出来な弟子に武術でも仕込みなおせと?」
「いいや、別嬪のお頭は翠玉一人で十分だ。あんたは俺の手元に置く。飽きるまで可愛がってやるよ」
「悪趣味だな。まさか男が好みなのか?」
「あんたはどこからどう見ても女だろうが。しかもよく見りゃ傾国だ。ちっとばかり年はいっているが、まだまだ十分見られる。その顔に上等の紅を挿させて、お后様みたいな絹の衣を着させてやるよ。悪くねえだろ?」
「冗談じゃない。そういう暮らしは飽き飽きなんだ」
「傾国らしい台詞じゃねえか。じゃ、勝負はなしか?」
「いいや、やるよ」
「勝てるつもりなのか?」
「当然だろう。そっちは負けるつもりなのか?」
「言ってくれるじゃねえか」カピタンが鼻を鳴らして半月刀の柄に手をかける。「いいぜ、相手をしてやる。正面からってことは、一対一でいいんだよなあ?」
引き抜かれた刃に赤い火が映る。
卓子の上の油火だ。
カピタンが右足を踏み出そうとした瞬間、月牙は前を向いたまま命じた。
「小蓮、燈心を斬れ!」
「はい頭領!」
答え同時に小柄な体が卓上へと跳ぶ。
抜き放たれた刃が横に動くなり、油火の燈心が切断され、室内が闇に沈んだ。間髪入れずに次の命令を放つ。
「反対側に降りろ! 翠玉、天翔、お前たちは動くな!」
「「はい頭領!」」
今度の返事は二重だった。
タンっと軽い音を立てて小蓮が着地する。月牙は同時に見えない卓上へと跳び、戸口のほうへと遠ざかっていく乱れた足音めがけて刀を投げた。
「――俊永!」
カピタンが声をあげる。
「小蓮、刀を貸せ!」
「はい頭領!」
暗がりのなかを刀が飛んでくる。
月牙は柄を握るなり、卓上から上へと垂直に跳び、カピタンの体があると思しきあたりへ刀を振り下ろした。
刃は肩を斬りつけたようだった。
見えない巨体が傾ぐ。月牙は卓子から飛び降り、傾きかけた背中を両足で踏んで地面へと叩きつけた。同時に、首と思しきあたりに刃先を突き付ける。
「小蓮、判官様を外へ!」
「はい頭領!」
「――いいや柘榴庭、逃げるつもりはないよ」
壁際から雪衣の声がする。
微かに笑いを含んだ声だ。
「せっかく王手をかけたんだ。もう少し有利な取引がしたい」
「判官様だったか? 大した肝の太さじゃねえか」
脚の下でカピタンの体が微かにうごめく。首を上向けているようだ。
「頭領さんも大したもんだ。そっちの小蓮もな。翠玉もそうだが、武芸妓官ってえのはみんなこういうやり口をするのか?」
「こういうとは?」
「一人をみんなで囲んだ曲芸みてえなだまし討ちだよ! 糞が! なにが正面勝負だ!」
「そうだよ。まさにそれが我々のやり口だ」
月牙は堂々と答えた。
「私はこの体格だ。どれだけ鍛えようと、お前みたいに恵まれた体格の男と一対一ではかなうはずがない。だから初めに言っただろう? この柘榴庭と勝負をしないかって」
「柘榴庭ってのは、あんたの名じゃねえのか?」
「違うよ。我々の名だ」
月牙は誇りを籠めて答えた。雪衣が愉快そうに声を立てて笑う。
「どうだカピタン。私たちの柘榴庭はなかなか大したものだろう?」
「そうだな。いっさい悪びれねえところが逆にすげえよ」
カピタンが鼻を鳴らす。
「で、判官様よ。俺とどういう取引がしてえんだ?」
「なに、大したことじゃないよ。まず、そなたの手で我々を租界に差し出して欲しい」
「はあ?」
「実は、我々は喜んで租界に行きたいんだよ。今の領事は信用できそうな人物だからね。訴えてこの忌々しい冤罪を晴らしたいんだ」
「好きに行って晴らせばいいじゃねえか」
「いや、ただ行くだけじゃダメなんだ。証拠品としてそのマスケットが欲しい」
「だから寄越せってか?」
「その通り」
「なあ判官様よう、俺の大事なマスケットをあんたに譲ってやって、こっちには何のいいことがあるんだ?」
「そうだな――」
雪衣が生真面目ぶった声で勿体をつけた。
「第一に、今ここで月に喉笛を掻っ切られなくてすむんじゃないかな?」
一拍の沈黙のあとで、カピタンが声を立てて笑った。
「いいぜ判官様、譲ってやる。ついでに俺の根城に来い。こんな魚臭えねぐらに置いておくには、あんたらは勿体ねえよ!」
「行ってやってもいいが、一つ約束してくれ」
「なんだ?」
「私の大事な柘榴庭には指一本触れないようにね?」
「雪、その発言は誤解を招くと思うよ?」
月牙は小声で窘めた。




