第四章 身を持ち崩した娘たち 九
「火長」には名前があります。
あとで出てきます。
翠玉はしばらく月牙の胸に顔をうずめて泣いていたが、じきに嗚咽を収めると、目元を擦りながら気恥ずかしそうに訊ねてきた。
「ところでその、今更なんですけど、頭領がこんなところにいるってことは、例のあの噂は本当だったんですか? あ、もちろん濡れ衣って意味ですけど」
「噂って、どういう噂になっているんだ?」
「武芸妓官三人が王太后様を殺して海都に逃げてきているって感じだな」と、天翔が横から答えると、壁際に置物みたいに並んでぐずぐず鼻をすすっていた少年たちの一人が付け加えた。
「俺たち、てっきり、小姐の嘘っぱちみてえな身の上話に尾ひれがついちまったんだとばかり思っていたんだけど。あんた本物の武芸妓官様なんだろ?」
「まあね。確かに本物だよ」
月牙はため息をついた。「その噂はごく一部しか正確じゃないね。逃げてきた妓官は二人、私と小蓮だ。それに紅梅殿の判官様もいらっしゃる」
「え、趙雪衣様が? 何で?」
「ああ――まあ、こっちも色々あってね。それから、私たちにかけられている冤罪は王太后様ではなく正后様の毒殺未遂だ」
「あの法狼機女の?」と、翠玉が嫌そうに顔をしかめる。「あの女なら、機会があったら私だってぜひ殺してやりたかったけど。なんで今更そんな濡れ衣がかかっちゃったんです? あの女はもうずっと前に宮を出て行っちゃったのに」
「背景を詳しく説明するのは私では無理だ。あとで判官様に聞いてくれ。ところで、ひとつ訊きたいんだが」
「何ですか?」
「そのマスケット、どうやって手に入れたんだ? 浮街では普通に商われているのか?」
「いえ、浮街でも滅多に手に入りません。ルーシャンが持っていたんです」
翠玉の答えは思いがけなかった。
月牙は眉をよせた。
「ええと、そのルーシャンというは、例の、お前を誑かしたタゴール人?」
「ええ」
「その男が、マスケットを持っていたのか?」
「ええ。――頭領、どうしたんですか?」
翠玉が訝しそうに訊ねてくる。
月牙は咄嗟に表情を取り繕った。
「いや、何でもないよ。それより、明日の昼から、誰かしばらく木場門の見張りをしていて貰えるかな? 私が明日の昼までに戻らなかったら、判官様と小蓮が門まで様子を見に来るはずなんだ」
「あの方輿なしでお出ましになれるんですか?」
「そこは全く大丈夫。判官様は割合健脚だよ。今は旅芸人に身をやつしている」
「旅芸人ですか。またずいぶん思い切った変装をなさったもんですねえ。蘭児たちなら小蓮の顔は分かるだろうけど、あの子たちじゃ何かあったときまだ戦えないだろうし――」
翠玉が顎に手をあてて考え込みながら、壁際に並んだ少年たちを一人ずつ眺めていく。
月牙は内心で舌を巻いた。
――大したものだ。なかなかどうして、一角のお頭ぶりじゃないか。
月牙のひそかな感慨にかまわず、翠玉は眉間にしわを寄せてしばらく考え込んでいたが、じきにポンと手を叩くと、右端の一番小柄な少年へと視線を向けた。
「阿祥、お前が行け。目当ての客人の人相風体、頭領からよく聞いて頭に叩き込んでおけよ?」
「おうお頭、任せてくれよ!」
チビの阿祥が胸を張って答えた。
お頭か、と月牙は微苦笑した。あの泣き虫の小さな翠玉が、ここではお頭と呼ばれているのか。
さて、翌日の夕方である。
祖霊祭を翌日に控えて、河津門には大量の旅芸人が押し寄せていた。
今まさに流行りの「逃亡妓官もの」を演じる女芸人も多いため、白い羽根矢も大流行りだ。宿駅の誰もが手形検めに忙しないなか、巡回中の武官二人が袋小路の突き当りで足止めを食らっていた。
念のため一応巡回路に組み込んでいる壺売りの老李の木戸越しに、ちんまりとした老婆から延々綿々たる愚痴を聞かされているのだ。
「全くねえ、聞いてくださいよお役人様、このあいだまでいたあの女、あれがうちの宿六の遠縁の姪でしてね、恥知らずにも父無し子と今の男まで連れて、ここのところずっと転がり込んでいたんですよ。皿の一つも洗わんと、庭先で下手糞な踊りばっかり踊っていてねえ全くもう」
「で、その女は何処に?」
「それがね、男がね、まずね、どっかに出て行っちまったんですよ」
「だから、女は、何処に?」
「女なんてものはお役人様、出ていった男を追いかけていくに決まっているでしょうが。まあ可哀相に子供まで連れてね、宿代の一銭も払わずにプイッと出て言っちまいましたよ、私はねえ、まだちょっとばかり疑っているんですよ、あの子の父親はうちの壺売りなんじゃないかとねえ……」
形ばかり庭先を吐きながら愚痴り続ける老婆の話はいつ果てるとも知れなかった。武官二人は謹聴し、折を見てようやく切り上げて巡回を再開した。
途中、赤い提燈を満載した木場門の近くに、どうも件の女らしい姿が見えた。
相も変わらず似合わない男装姿で、こってりと厚い化粧をし、背には羽根矢の箙まで背負って、予備なのか揃いの箙を背負ったチビの手を引いている。
「火長、あの女です。木場門ってことは、もしかしたら浮街へ向かっているんでしょうかね」
子明が不憫そうに言った。
火長はやるせなく頷いた。
「だろうな」
「男を追っているんでしょうかねえ」
武官二人は哀憐と軽侮の入り混じった表情で大小二つの背中を眺めた。
さて、件の二人組が木場門へ近づくと、門の外から元気のよい少年の呼び声が響いてきた。
「おーい母ちゃんと蓮々! こっちこっち! 矢の修理終わったかあ? いつまでも遊び回っているんじゃねえって父ちゃん御冠だぜ!?」
「ハイハイ今きますよ、全く忙しないねえ、あ、旦那衆、あたしゃ木場のモンでしてね、ちょっくら入らして貰ったんですよ、ハイごめんなさいね」
女がチビの手を引いてせかせかと門を出ていく。
遠目に眺めていた子明が首を傾げる。
「あれ、子供は二人、だったんですかね? 父ちゃんってのがあの色男? うーん、どうも人間関係が読めませんね」
「ま、読む必要もなかろう」と、火長は苦笑いした。「男と女の間にはきっといろいろあるんだろう。どうやら亭主のとこに戻るようだし、ここ数日で何があったにせよ、官の口出す筋じゃないさ。戻るぞ子明。今日は河津門の出入りが激しい。手はいくらあっても足りない」
「ハイハイ火長。我々も忙しないですねえ」
武官二人はそうして去っていった。




