第四章 身を持ち崩した娘たち 八
どうも長いですね第四章
前半を別の章題に変えようかな
今更ですが、月牙の外見イメージは例の幕末の美女、陸奥亮子の洋装の横顔の写真です。
雪衣は石原さとみ
「翠玉小姐、そいつ知り合いなのか?」
月牙の刀から解放された青い目の天翔がためらいがちに訊ねてくる。「まさか、あんたの昔の?」
「ああ。昔の武術の師範だよ」
翠玉がずれた答えを返すなり、壁際に背を貼り付けて状況を注視していた四人の少年たちがヒっと喉を鳴らした。翠玉がそちらに目を向けて怒鳴る。
「おいお前ら、頭領に床几!」
「はいお頭! ただいますぐ!」
少年たちが外へ飛び出すなり、床几を二つと円卓と酒壺を運んでくる。翠玉はまず月牙を坐らせてから、マスケットを天翔に渡した。
「天翔、後ろに控えていろ」
「おう小姐」
「お頭だ、お頭。客人のいる場では立場を弁えろ」
月牙の初めて耳にする刺々しい口調で咎めながら自分も向かいに座って、一番小さい阿祥の差し出す平杯をとる。青い花の模様のある上等の青磁だ。翠玉はまず自分が一口すすってから両手で丁重に差し出してきた。
「どうぞ頭領。口つけちゃってすみません。まずは自分で毒見をするのがこの街の作法でして」
「あ、ああそうなの。ありがとう」
所在なく受け取って飲んでみると冷たい甘酒だった。
――そういえば、この子は甘い菓子が好きだったな。麗明が外に出ると必ず飴を買ってやっていた。
そう思った途端に怒りが湧いてきた。
「どうして黙って出ていった?」
「黙ってなんか行きませんよ。手紙は置いていったでしょ?」
「行き先ひとつ書かずに?」
月牙は立ち上がるなり平手で翠玉の頬を叩いた。天翔が食い殺しそうな眼つきで睨みつけてくる。月牙は構わず、翠玉の襟首を掴んで揺すった。
「麗明がどれだけ心配していたと思う!? 小蓮も桂花も、私も! お前たちが出ていってしまってから、皆がどれだけ心配していたと思うんだ!」
襟を放してゼイゼイと息をつく。
翠玉は叩かれた頬に手を当てて、呆気にとられたように目を見開いていた。
「頭領、心配していたんですか?」
「当たり前だろう! 九年も一緒に暮らしていたんだ。お前は大事な妹みたいなものだ。知らなかったのか?」
「そりゃ知っていますよ。知っていますけど、お前たちって、私だけじゃなくてあの子たちのことも?」
「当たり前だろう!」
月牙は掌で額を押さえて床几に坐りながら答えた。「若い娘があてもなく、生家に断りもなく出奔したら誰のことだって心配に決まっている。お前は私を何だと思っているんだ」
「だって、頭領はあの子たちがどんなに刀を持ちたがっても絶対に許さなかったでしょ? 私が婢の長屋にいると、けじめを弁えろって必ず叱りつけたでしょう!?」
「それはだって、典範で」
「あの子たちはね頭領、毎日まいにち他人の洗濯をしてご飯を運んで掃除をして暮らすのにうんざりしていたんですよ! 門さえ開いていたなら、ずっと逃げたいと思っていたんです。知らなかったでしょ、そんなこと!」
「それは――」
月牙が答えにつまると、天翔が口を挟んできた。
「なあ小姐、あんまりお兄さんを責めてやるなって」
「お兄さん?」
「あんたさ、長く会っていない身内はみんな豚みてえな連中だって言っていたけどさ、あんなの嘘じゃねえかよ」
天翔が口を尖らせていう。
「話を聞いた感じだと血は繋がっていないのかもしれないけどさ、ずっと一緒に暮らしていたんだろ? 勝手に出て行った婢のことまで心配してくれるなんて、立派な良いお兄さんじゃねえか」
「おい天翔、そのお兄さんってのは頭領のことか?」
「だから、血は繋がっていなくたってさ」
「あのなあ、私の武術の師範って言ったら、後宮の武芸妓官の頭領に決まっているだろ?」
「え、だってそっちも嘘っぱちだろ? 後宮ってのは男子禁――」
天翔が口籠り、何となく怖ろしそうな眼つきで月牙を眺めまわした。
何が言いたいかは何となく分かる。
「あ――天翔?」
月牙は深い諦めとともに、ぼろ布をほどいてちょっと首を伸ばしてやった。
「喉をよく見てくれ」
少年たちは喉をよく見て、半信半疑ながら一応納得してくれたようだった。
月牙は改めて訊ねた。
「それで翠玉、婢たちのことはさておき、お前自身の出奔の理由は、やはり駆け落ちだったのか?」
「――はい」
翠玉が頷いたきりうつむく。薄い耳朶が桜貝のように紅潮している。隣の天翔が肩を怒らせ、青い目を剣呑にとがらせて睨みつけてくる。
その目に真摯な憤怒を感じて、月牙は全身の力がどっと抜けていくような安堵を感じた。
――ああよかった。この天翔が相手だというなら、翠玉は騙されたわけじゃない。きっと本気の恋だ。
洛東河津で聞いたところでは、翠玉をかどわかした男は南蛮人という話だったが、たぶん天翔の法狼機風の外見が誤って伝わったのだろう。
――零落したとはいえ呉家は京の良家だ。この子たちが正面切って結ばれる方法なんかなかったに違いない。だから仕方なく駆け落ちを――
そこまで考えたところで矛盾に気付いた。
今しがたの会話からすると、天翔は翠玉が本当に後宮にいたとは全く信じていなかったようだ。
あのやり取りが演技とは思いづらい。
「ええと、相手はその天翔?」
「え、天翔?」
翠玉が鼻の痒い猫のような顔をした。「いやまさか、ありえませんって。こいつとはこっちに来てから知り合ったんですよ」
「じゃ、その前に誰かと?」
翠玉は口元を歪めて頷いた。
「ええ。ルーシャンって名乗っていました」
「タゴール人か?」
「名前で分かります?」
「まあ、なんとなくは。そのルーシャンというのは、話に聞く石竹団の頭目と同じ人物なのか?」
「まさか、カピタンは全然違います。ルーシャンとは同郷の知り合いではあったみたいだけど、初めからあいつを嫌っていました。だから、あいつを殺しても御咎めなしだったんだし」
「殺したって、お前が?」
月牙がぎょっとして訊ねると、天翔が顔をしかめた。
「小姐を誑かした男はな、小姐以外の女らを全員香波に売り飛ばして、大金抱えてタゴールへ密航しようとしたんだよ」
「それで、翠玉がその男を?」
「そういうこった。小姐はなあ、自分の男の生首をもってカピタンの根城に一人で来たんだぜ? こいつがこんな屑だとはてんで知らなかった、同郷人を殺した償いにあたしの首もくれてやるから、連れの女たちは御咎めなしにしてくれってさ。女だてらに大した任侠だってカピタンは大喜びでさ、俺ら若いのの面倒を見させることにしたんだ」
「よしな天翔、私はそんなにご立派な理由であいつを殺したわけじゃない。殺したいから殺したんだ。ただそれだけだよ」
翠玉が吐き捨てるように言い、杯を取って一息に中身を干す。月牙は応えに窮した。
「ええと、ああ、その――そもそも、そのルーシャンとかいうタゴール人とは何処でどうやって知り合ったんだ?」
「あいつは洛中で私を見かけたって言っていました。杏樹庭さまの護衛で、私も一度新梨花宮に行ったことがあったでしょう? あいつは私を見て、初めは綺麗な男の子だと思ったんだそうです。でも、羽矢のことを知って妓官だと分かって、そうしたらもう会いたくて堪らなくなって、私が顔を出すまでずっと門の外をうろついていたんだって」
翠玉はうつむいたままボソボソと話した。
月牙はこみあげてくる怒りを堪えながら、頭の中で情報を制止した。
――そのルーシャンとやらが、もし杏樹庭に毒物を持ち込んだ犯人だったとしたら、外砦門をひそかに開けさせることが目的だったはずだ。
もしそうだとしたら、その男はきっと門の外を常にうろうろしていたはずだ。そして選んでいたのだ。最も美しく、最も騙しやすそうに見えた翠玉を、市場で旨そうな鶏でも選ぶように――
――そいつは誰でもよかったのだ。若く美しく騙しやすそうなら、誰でもよかったのだ。
そう思うなり、月牙は全身の血がふつふつと湧きたつような怒りを感じた。
気を抜くと拳で卓を殴ってしまいそうだ。
掌に爪を食い込ませて必死に怒りを堪えていると、翠玉がクックと喉を鳴らしてた。
「ねえ、愕いたでしょ頭領? 私はねえ、私はもう人殺しなんです。一度は心底惚れたと思った情夫を殺して魚の餌にした本物の獏連女です。もう大きな顔をしてお天道様の下を歩ける身の上じゃないんですよ」
翠玉が顔を歪めて嗤った。
月牙は唐突に十六のときの翠玉の泣き顔を思い出した。
――ねえ月牙姉さん。この頃生家からちっとも手紙が来ないんです……
眦からポロポロと涙をこぼして翠玉は泣いていた。
泣いていてもこの子は美しかった。生絹に包まれた真珠みたいに清らかで美しかった。
あの子をこんな風にしたのは――
あの無邪気な翠玉を、こんな風にしてしまったのは――
「――翠玉」
月牙はどうにか声を絞り出した。
自分でも信じられないほどかすれ切った声だ。
翠玉がピクリと眉をあげる。
「なんです?」
「……よくやった」
「え?」
「よくやった。そう言ったんだ」
月牙は必死で自分自身に言い聞かせるような気持で告げた。認めてやることが正しいのか間違っているのか、そんなことは分からない。ただ何かを言ってやりたかった。
翠玉がぽかんと口を開いて月牙を見上げていた。
まるで九歳の子供のように無防備な顔だった。
その顔に勇気づけられて月牙は言葉を続けた。
「お前が殺した男は、間違いなく人間の屑だ。お前は正しいことをした。師範として誇りに思う」
「本当に、そう思うんですか?」
「ああ」
月牙は頷いてから、堪えきれない怒りに駆られて拳で卓子を叩いた。
「お前が殺していなかったら、私が殺していたよ!」
怒鳴るなり全身が熱くなった。卓を叩いた拳が痛い。
気まずさを堪えて顔をあげると、翠玉が大きな目をしきりと瞬かせていた。
「頭領――」
眦からポロポロと涙がこぼれる。
月牙は堪えきれずに歩み寄ると、正面から翠玉を抱きしめた。
「翠玉、翠玉、お前が生きていてよかった」




