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後宮生活困窮中   作者: 真魚
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第一章 ついにわれらは四名に 弐

――いやいや落ち着け蕎月牙。あの方はまがりなりにも当代の正后様。たとえどれほどわがままで、横暴で傲慢で手前勝手であろうと、いやしくも柘榴の妓官たるもの、内心であれ罵倒してはいけない。


 必死で自分に言い聞かせながら厠へ急ぐ。

 用を足してようやく一息つく。

手水鉢を見れば淀んだ水面に孑孑が浮かんでいた。

孑孑はまずい。非常にまずい。高温多湿の双樹下京洛地方では、夏季にはよく蚊が媒体する熱病が流行るのだ。

どれほど忙しかろうと、これは即刻掃除をさせねばならない。

月牙は長屋の戸板を叩いた。


「おい皆どうした。具合でも悪いのか?」


 呼ばわっても全く応えがない。

 頭領自ら呼ばわっても婢が出てこないなど前代未聞、驚天動地、平時なら決してありうべからざる事態だ。

 まさか早くも熱病だろうか?

 もしそうなら、大急ぎで薬師たちの住まう杏樹庭へ報せなければ。

「開けるぞ!」

 一声かけて扉を引こうとしたとき、背後から息せき切った声で呼ばれた。


「頭領たいへんだ!」


「どうした麗明、何をそんなに焦っているんだ?」

 声の主は柘榴庭の次官の宋麗明だった。

黒髪黒目が大半を占める双樹下人には珍しい栗色の髪をふさふさと垂らした、妓官にはきわめて珍しい肉感的な体つきをした女だ。

「翠玉がいないんだ!」

「いないって、外砦門に?」

「そうだ。今しがた門衛の交代のために外砦門へ行ったら、夜番のはずの翠玉がどこにもいなくて、外に箙と刀が置いてあった。そして扉にこの一本が突き刺さっていたんだ」

 麗明が白鷺の羽根矢を差し出してくる。

 矢文である。

 軸に細く折った白い紙片が結び付けてある。

 月牙はほどいて慎重に開いた。



 ――上申蕎月牙師範

 文の初めに丁寧な筆跡で記されている。

間違いなく翠玉の手だ。



「置手紙か?」

 麗明が心配そうに訊ねる。

月牙は昂ぶる心を宥めて頷いた。

「どうやら翠玉は自分で逃げたみたいだ。長屋の婢たちも一緒らしい」

「逃げたって、そんなまさか、あの子が」

 麗明がうろたえ切った声をあげる。月牙は眉をあげた。

「落ち着け。今門はどうなっている?」

「閂は掛かっている。初めからずっと掛かってはいたんだ。翠玉たちはどうやって出て行ったのだろう?」

「まず婢たちが出て、そのあとで翠玉が閂をかけて、あの子自身は露台から飛び降りたんだろう。ともかくすぐ戻れ。閂が掛かっていようといまいと、外砦門に妓官がいないのは典範に反する」

「分かった」

 そのとき、北側の方二丈からのんびり眠そうな声が響いた。



「頭領も麗明さまも、朝から何があったんですかあ?」

 見れば、最年少の妓官の孫小蓮が、ボサボサ頭を掻きながら階を下りてくるところだった。後から同室者の周桂花まで出てくる。しっかり者の桂花のほうは、もうきちんと髪を髷に結って箙まで背負っていた。

 月牙と麗明は顔を見合わせた。

 小蓮は十四で桂花は十七。外なら嫁入り間近の妙齢の娘たちだろうが、妓官としてはまだまだひよっ子だ。


 ――この子らに話していいものだろうか?


 月牙は一瞬だけ躊躇ったが、すぐに思い直した。年少だろうが何だろうが、この二人も柘榴の妓官だ。

「翠玉が逃げたようだ」

「え?」

 小蓮が目を見張った。桂花も絶句している。

「噓でしょそんな。まさか翠玉姉さんが」

「我々も信じたくはないのだが、このとおり置手紙があるからな」

月牙は必死で心を落ちつかせながら命じた。「みな、驚いている暇はないぞ。麗明は今すぐ外砦門へ戻れ。桂花と小蓮は長屋と方二丈すべてを検めろ。何であれ、官給品でなくなっている品があったら報せるように」

「ああ頭領」

「承った」

 麗明と桂花は即答したが、小蓮だけがうつむいたまま答えようとしない。月牙は心を鬼にしてもう一度命じた。

「小蓮。庭を検めろ」

「――じゃ、頭領は翠玉姉さんが泥棒したっていうんですか? 門を放って、官給品を盗んで逃げたって、そう言うんですか?」

 小蓮が顔を真っ赤にして食ってかかるなり、桂花が情け容赦なく後頭部を平手でたたいた。

「小蓮、頭領になんて口きく!」

「だって桂花姉さん!」

「だってじゃない。急ぐぞ。務めだ」

 仮借ない桂花が小柄な小蓮を引きずるようにして長屋へ入っていく。月牙は北の木戸を出て厩へ向かった。



 厩の五頭の馬たちはすべて残っていた。馬具もみな揃っている。隣り合う兵庫の鍵は月牙自身が常に携帯しているから、盗難は考えにくい。念のために開けて入ると、武具も衣装も何一つなくなっていなかった。桂花の報告では、庭からも何一つなくなった品はなかったという。

「長屋の鍋までみんなある。ないのは私物の平服だけだ」

「翠玉姉さんは洛中の生まれでしたよね? きっと寂しくなっちゃって生家に帰っただけですよね?」

「そうだな。きっとそうだ」

 月牙は心にもないことを言った。

「官給品が皆あってよかったよ。二人とも朝からよく務めた。ご苦労だが、柿樹庭から朝餉をもらってきてくれ。一人前の妓官にこんなことを頼んですまないね」

「かまいませんよう」と、小蓮が肩をそびやかす。無口な桂花は何も言わなかったが、さほど気を悪くしたようにも見えなかった。

 この頃の若い娘はあまり身分の差というものを気にしないのかもしれない。二十七の月牙は自分がどっと齢をとったように感じた。


 やがて運ばれてきた粥はとても薄かった。

 粥というより殆ど重湯だ。匙で掬うとぽたぽたと滴ってしまう。口に入れると米ではなく薄ぼんやりとした葛の味がした。

 体力仕事の外宮の妓官の食事として、いくらなんでもこれはあんまりである。月牙は古なじみの主計判官にあとで苦情を申し立てようと決めた。

 あら塩を添えた薄い粥とひと匙分の川海老の佃煮だけの食事はたちまち終わった。また若い妓官を使うのもためらわれ、自分で井戸端へ運んで椀を濯いでいると、後からやってきた桂花が顔をしかめてひったくった。

「頭領が婢の真似事なんか頼むからやめてくれ」

「じゃ、すまないけど頼むよ」

 任せると嬉しそうな顔をする。桂花は四年前、月牙が頭領職を引き継いだ直後に入った妓官で、月牙が初めて師範として一から鍛えた弟子だ。桂花が寄せてくる混じりけのない信頼と尊敬を感じるたび、月牙は自分が一回り大きくなったような昂揚を感じる。


 片づけを桂花に任せて房へ戻ると、月牙は寝台の下から書き物道具を収めた黒漆器の匣を引っ張り出した。螺鈿で蝶の意匠を嵌めた美しい匣は、四年前に頭領に任官したとき母方の一族から贈られた祝いの品だ。これも同じく贈りものの寧南産の最上級の墨をやけくそのように擦りながら、月牙は長いため息をついた。


「翠玉、なんでまた脱走なんて」

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