第四章 身を持ち崩した娘たち 五
「――いったよ」
戸口から外の様子を窺っていた雪衣が告げると、隅の大きな壺から小蓮が現われ出た。
「ふう。いつ入っても壺の中は暑いですねえ」
「老李、いつも助かるよ」
「いえいえお気になさらず」
声のみ出演の老李が皿のひび割れを繕う手を止めもしないで応えると、向かい合って膠を練っていた老婆が興味津々の顔で訊ねてくる。
「それで判官さんや、ずいぶんいろいろ聞いていたけど、結局敵は何なのか分かりそうかい?」
「や、そっちは思い当たる節が多すぎてはっきりとは分からないのだけれど」
「ええ、雪衣さまそんなに敵が多いの!?」
「私じゃなくて桃果殿様の敵だよ。もしくは紅梅殿様。我々は馬だよ。将を射んと欲されて射られる可哀そうな馬の脚当たり。でも幸い、冤罪の概要は大体分かった。月たちもざっと頭に入れておいて」
「できるかぎりは」
「頑張ります」
「まず、新梨花宮で正后様が飲んでいる薬の包から莨菪根という毒が見つかったらしい。これは西域渡りの珍しい薬で、双樹下では滅多に手に入らない。まずいことに薬は胡文姫様が調えていったものだった。ここで桃梨花宮に疑いがかかった」
「なるほど。そのために竜騎兵が杏樹庭の探索を?」
「いや、捜したのは兵衛府らしい」
「すると、竜騎兵の策謀という線は」
「薄いね。私もそっちであってくれたらと願っていたんだけれど。ともかくも兵衛府が杏樹庭を探索して莨菪根を見つけた。西域渡りの珍しい毒をね。同じころ、我々が西域人の会所から桁違いの大金を引き出していたって流れだ」
「うわあ」
小蓮が顔を引きつらせる。「それだけ聞くと滅茶苦茶疑わしいですね」
「そう。誰が聞いたって滅茶苦茶疑わしい。誰かがそう見えるように証拠をでっちあげたんだ」
「兵衛府が本当はなかった毒をあったと偽ったってことですか?」
「それが最悪の予想だね。もう少しましな予想は、探索の前に誰かが杏樹庭に毒物を仕込んでいたって線だ。その場合、誰か内部の者の手引きがあったのかもしれない」
雪衣が沈鬱な声で告げる。
言外に云わんとしていることが月牙にはよく分かった。
柘榴庭の妓官は全員信じられるのか?
そう訊ねているのだ。
月牙は頭の中で忙しく出来事を時系列順に並べた。
正后様の懐妊が判明して胡文姫様が新宮へ通いだしたのは年の初め。
春先に胡文姫様の宿下がりがあって、初夏に翠玉の出奔があった。
直後に外砦門の警備が一時廃止されて、杏樹庭はつねに閂をかけておくようになった。
――翠玉は出奔する夜にも外砦門の閂は掛けていったはずだ。
閂をかけたうえで自分は露台から飛び降り、箙も弓もみな門前に残していったのだ。
あの子はそこまで無責任な職務放棄をしたわけではない。
しかし、もしその前に門を開けて男を導き入れていたら? 駆け落ちするほど思いつめる相手と忍び合っていたとしたら?
――もしかしたらあの子なのかもしれない。
思い至ると息が苦しくなった。
よほど酷い顔をしてしまったのか、間髪入れずに雪衣が訊ねてくる。
「何か心当たりが?」
「いや」
月牙は打ち消しかけたが、すぐに思い直した。
これほどの大事を前にしてまで他言無用の命令を厳守するのはどう考えても間違っている。
「呉翠玉を覚えている?」
「もちろんだよ。あの賑やかで綺麗な娘でしょう? つい先日生家に乞われて宿下がりをしたと聞いたけど。あの娘に何かあるの?」
「実は――」
翠玉の出奔と呉家の偽装を打ち明けると、雪衣は長いため息をついた。
「なるほどね――。それは、もしかしたら何か関わりがあるかもしれないね。月の予想通り、もし娘たちが洛東河津から南へ下ったなら、行き先は十中八九この海都だろう。捜してみるのも悪くはなさそうだ」
「捜すとしたらどこだと思う?」
「翠玉たちを連れていたのはタゴール人だったんだよね? 後ろ暗いところのあるタゴール人がこの街で一番に頼りそうな筋といったら――老太婆、この頃はどこなのかな?」
雪衣が訊ねるなり、老婆は待っていましたとばかりに即答した。
「浮街だね。間違いない。この頃の石竹団の大頭目はカピタンって呼ばれるタゴール人の
大男だそうだからね」
「その石竹団とは?」
「浮街の密航組織でございますよ」と、老李が答えてくれる。「なんでも、襟に石竹の花を飾って浮街へ赴きますと、どこからともなく見かけては声をかけてくるのとか」
「そうそう、お銭さえありゃ南や西へ行く船にこっそり乗せてくれるんだと」
「ほほう。興味深いね。そんな組織があるんだったら、場合によっちゃ本当に密航するのもありだな――小蓮、ちょっとひとっ走り行って木場門を見てきてくれないかな? 今は祭の飾りつけの真っただ中だからね。もしかしたら私の一族の誰かがいるかもしれないから」
「承りました」
小蓮は答えるなり髪をほどいてバサバサと乱し、衣の裾を袴から引っ張り出し、「ちょっと借りますね」と老李に断って黒い顔料を頬や腕や額に擦り付けてから、
「よし!」
と、満足そうに頷いて高床小屋を出て行った。
何処からどう見ても単なる浮浪児である。
「あの子は実に小回りが利くね」と、雪衣が目を細めて笑った。
小蓮はすぐに帰ってきた。
興奮のためか汚した頬が紅潮して、目がキラキラと輝いている。
「判官様、いらっしゃいましたよ。たぶんご一族です。お顔の感じからして」
「そうか。じゃあ早速――」
「いや、待って待って雪」
月牙は慌てて止めた。「その浮街というのは、何というかこう、わりあい荒んだ街区なんでしょう?」
「控えめな表現だね。まさにその通りだよ」
「なら、まずは私が偵察に行って、その石竹団とやらと接触してみるよ。状況も分からないままいきなり行くのは危なすぎる。もしも相手が多勢だった場合、私ひとりじゃ守り切れないかもしれない」
「頭領、一人ってどういう意味ですか?」と、小蓮が不服そうに口を尖らせた。




