第四章 身を持ち崩した娘たち 一
西域商人の会堂は大波止門の近くにあった。
月牙はひそかに駱駝が繋がれていないかと期待していたが、入ってみれば、瓦屋根の三棟が中庭を囲むごく普通の双樹下風の建物だった。
手形の引き換えを待つあいだ、奥の板の間に通されて薫り高い茶と冷たいライチーを振舞われる。 じきに現金を収めた白木の箱を運んできたのは、ゆったりとした白い袍をまとって黒い円帽をかぶった初老の西域人だった。一見あっさりとした身なりに見えるが、帽には鶉の卵ほどもある碧玉が輝いている。
「主計判官様、お待たせしいたした」
「頭人どのか。じきじきにありがたい。急に大きな額面を引き出してすまなかった」
「なに、われらハルサーバーニーの誉れたるナセル・カーンの未亡人のためとあればな。この額となると彼の遺産のかなりの部分を占めるはずだ。どうか有意義に用いてもらいたい」
西域人はさらりと言った。
雪衣がしばらく考え込んでから訊ねる。
「頭人どの、そのナセル・カーンの未亡人とは、この春までわれらの宮に奉職していた薬師の頭領を差すのか?」
「そうだ」
「未亡人ということは、ご夫君はすでに?」
「ナセル・カーンか? はっきりとした生死は知らぬが、これほどの額が一度に動くとなれば、おそらくは遺産ではないかと思う」
「その方は、長く病んでいらしたのか?」
「長いかどうかは知らぬが、去年この海都に来たときには病んでいた。時折襲う激しい腹痛のために床でのたうち回るほど苦しんでいた。そのとき、京の新宮にきわめて優れた西域人の薬師が出入りしているという話を聞いて無理やりに出かけて行った。そして二十年前に分かれた相愛の相手と再会したらしい」
「つまり胡文姫様と?」
「夫人がこの地で何と名乗っていたかは知らぬ。ただ、あの男はすまないと言っていた。自分が故郷で死にたいと望んだばかりに、夫人にとって何より大切な務めを途中で投げ出させてしまったと。だからこれほどの遺産を残したのだろう」
頭人は憐れみと慈しみの入り混じった口調で話した。雪衣は静かに聞いていたが、じきに板床に両手をつくと深々と頭を低めた。
「頭人どの。ご同郷のお方の赤心を謹んでお受け取りいたす」
なるほどそういう事情だったのかと月牙は納得した。
胡文姫が再会した昔馴染みの薬種商人どのは、その時点でもう死の床にあったのだ。
手形の引き換えはことなく済んだが、三人はすぐには帰路にはつかなかった。
「月や小蓮の技量を疑うわけではないんだけどね、この額の現金を抱えて乗り合い舟を使うのは心許ない。趙家と取引のある商人の船が三日後に出るというから、そちらに便乗させてもらうことにしたよ。待つあいだに租界を見ておきたいし」
「法狼機人の居住区を? 危なすぎるんじゃないかな」
「大丈夫だって。この世でもっとも信頼でいる護衛を二人もつれているんだから」
判官様の御心はどうあっても変わらないようだった。
困った月牙は、趙家でもっとも常識のありそうな奥方に相談した。すると一笑に付された。
「大丈夫ですよ妓官さま。法狼機人も獣ではないのですから。租界に踏みこんだだけで頭から喰われたりはしません」
「しかし太太、雪衣様は先日、河津門の近くの市場で法狼機人ともめ事を起こしているのです」
「ああ、それなら服装を変えていきなさい。大丈夫です。法狼機人に私たちの顔の区別は殆どついていませんからね」
そう言った一瞬だけ、奥方の顔に隠しきれない嫌悪の情がよぎった。
翌日である。
月牙は趙家の婢に思いもかけない衣装を着つけられていた。
材質は主に革ひもと何かの骨。
服というより骨組みのようだ。
「な、なあ、これはどういう装束なんだ? まさか鎧じゃないよね?」
「いやですね妓官さま、法狼機服でございますよ!」と、年寄の婢が面白そうに笑う。「この頃は内門筋の大家で法狼機風の宴会がございますからね。太太も何着か法服をお仕立てになられたのです。妓官様は背格好がよく似ていらっしゃる」
婢はにこやかに笑いながら、月牙の腰に皮製の鎧のような何かを巻きつけ、細腕の何処から出て来るのか信じられないほどの力で、ギリギリと紐を締め付けにかかった。
「う、あ、く、苦しい、のだ、が?」
「御辛抱なさいまし。法狼機服は腰が命! ここをぎゅっとこう締めますとね、裳裾がフワリと広がって大層美しいんでございますよ!」
そうしてぎゅっと絞められた後で、今度は腰に象牙みたいな素材で作られた釣り鐘状の格子を嵌められる。その骨組みの上に、光沢のある深緑の絹の裳裾がたっぷりと重ねられた。細い胴着も同じ色の絹で、胸元に細かな黒い釦が一列に並んでいる。
着付けの後で髪を簡素な髷にまとめ、粉白粉をはたいて目元に碧の顔料を挿す。
履物だけは大きさが合うものがないため、昨日までと同じ黒い革靴だ。月牙はこのなりで箙を背負っていいものか判断に迷った。
雪衣を探して前庭へ出ると金魚鉢の傍に女中が二人いた。
一方は中背で一方は小柄だが、どちらも揃いの藍染めの裳衣姿で、黒髪を一本の三つ編みにしている。よく見れば雪衣と小蓮だった。
二人は月牙の服装を見るなり歓声をあげた。
「うわあ、頭領似合いますねえ!」
「本当に似合うね!」
「ありがとう。二人はどうしてそのなりなの?」
「私たちに合う寸法の法狼機服が見つからなかったんですよ」
「今日は月が大家の太太で私たちがお供の女中って設定だよ」
「なるほど。すると、箙はやはりだめ?」
「どこの世界の太太が箙を背負うのさ」
協議の結果、二対一で箙は却下されたが、刀だけは小蓮が布に包んで持っていていいことになった。
雪衣は柄の長い白い紗の日傘を月牙に差し掛ける役だ。
傘で顔が隠れてしまうと月牙の立ち姿は趙家の太太に見えたようで、屋敷を出て中南門へと登る間に二、三度挨拶された。
中壁の内側は富裕な大商人たちの居住区だ。この地区では法狼幾服は珍しくもないようで、歩いていても全く注目されなかった。
万神廟の丘を廻って中北門から始まる階段を下りきると、すぐ先にまた石造りの門があった。
左右に円形の塔を立てて、両脇からチーク材の逆茂木を連ねた木柵が伸びている。右京区の新梨花宮を髣髴とさせる木柵は、緩やかな弧を描いて外壁のほうへと続いているようだった。
「あれが租界か」
雪衣が呟いた。
門の扉は開いていた。
右手を青い胴着の法狼機人が守っている。慣れた手つきで肩に担っているのは例のマスケットだった。