第三章 壺を割ったら謝れよ 四
ようやく壺が割れました
海都の外壁は近づくと実に高かった。
石の壁がこんなに高くていいものだろうか?
見あげると首が痛くなりそうだ。
揃って見あげる妓官主従に雪衣が眉を顰める。
「二人とももっとしゃきっとしてよ。口を開けて壁なんか見上げていたら巾着をすられちゃうよ」
「え、海都はそんなに治安が悪いんですか?」
「失敬な。どんなに治安が良くたって大都会には必ず掏摸が湧くんだ。ああほら、ここが河津門。この門は宿駅が管理している」
「門ごとに管理者が違うの?」
「うん。外壁には七つの門があるんだけどね、この河津門と大橋門は宿駅が、南の木場門は材木商が、南東の大波止門は船主の会堂が管理している。残りの三つは共同管理。だから海都を封鎖するのは面倒くさいんだ。鶴の一声ってわけにはいかないからね」
河津門を抜けた先は市場だった。
石畳の門前広場の四方にびっしりと露店が連なって、川魚や青果や茉莉花の花や、生きた家禽や竹細工や、金色の毛の美しい亜熱帯の猿なんかまで商っている。道行く人の顔ぶれもかなり様々だ。河東人に香波人。褐色の膚のタゴール人。黒い円帽をかぶっているのは西域人だろうか?
「うわあ、賑やかですねえ! いろんなもの売っている! 洛中の市場だってこんなに賑やかじゃありませんよ!」
小蓮が歓声をあげて左右を見回す。月牙は拳の先で頭を小突いた。
「小蓮! 集中しろ。務めの最中だ」
「あ、はい、すみません!」
叱ればすぐに落ち着くものの、ほんの数秒でまた視線が泳ぎだしてしまう。雪衣が声を立てて笑った。
と、小蓮が急にまじめな顔になって見上げてきた。
「頭領」
「なんだ?」
「見てください。法狼機がいます」
小蓮の指さす先は陶器の露店だった。
大小さまざまな壺や皿の並ぶ前に、赤い奇妙な形の胴着と白い袴姿の異邦人が立っていた。
くるくると縮れた金茶の髪。
血の色が透けて見えるような膚。
タゴール人でもなければ西域人でもない。
間違いなく法狼機人だ。
「判官様――」
月牙はわざと堅苦しく呼んだ。
「先ほどの忠告もあります。念のため道を変えましょう」
「私が? 冗談じゃない。桃梨花宮の主計判官が、どうして法狼機風情に道を譲らなきゃならない」
雪衣が憎々しげに睨みつける。
法狼機人は一向に気づかずに、大型の壺を持ち上げようとしたものの、手が滑ったのかそのまま地面に取り落とした。
ガシャンと激しい音を立てて壺が割れる。
売り手の老爺が悲鳴をあげる。
法狼機人は狼狽えた顏で左右を見回したが、群衆がただ遠巻きにしているのを見てとると肩を竦めた。
異国語で何やら吐き捨てて踵を返してしまう。傍に影のように付き従っていた法狼機風の身なりの小男が、今しがたの法狼機人の仕草をそのままなぞるように肩を竦め、香波訛りの双樹下語で告げてくる。
「壊れやすい品だ。私は買わないとムッシューは仰っている」
老爺は何か怒鳴ろうとしたが、すぐに諦めたような溜息をついた。
雪衣が射殺しそうな目つきで法狼機人の背を睨みつけている。
月牙は嫌な予感がした。
同時に雪衣が怒鳴った。
「待てそこな野蛮人! おぬし一体何処の生まれだ? 市場で商品を壊したらきちんと弁済せんか!」
「――た、太太、駄目だ、危ない!」
売り子の老爺が慌てて止める。
月牙は刀を抜いて雪衣の前へと回りこみながら命じた。
「小蓮、後ろを頼む!」
「はい頭領!」
小蓮も刀を抜き放ちながら後ろへ飛びすさぶ。
機敏そのものの動きだ。周囲からホウッとため息が漏れる。
「おい見ろ、あの羽、白鷺の羽矢だ!」
「武芸妓官様だ!」
「じゃ、あの太太は、後宮の貴妃様?」
男装して戦う武芸妓官は芝居の題材として大人気だ。
白鷺の羽矢の意味は、町場の者なら誰だって知っている。
そして、大抵の芝居で、旅の武芸妓官の役どころは、土地の汚吏を成敗する善玉と相場が決まっている。
期待に満ちた観衆の視線が集まっているのに気づくなり、法狼機人は目に見えて狼狽え、また異国語で何か言った。すぐさま小男が通訳する。
「なんだ、お前は何者だとムッシューは仰っている」
「そのムスウとやらに伝えろ。私は桃梨花宮の主計判官だ」
「はあん?」
「官吏だよ。王太后様に仕える主計の官吏だ」
雪衣が説明するなり、法狼機人は目を見開き、そのあとで声を立てて笑った。通訳の小男もそっくり同じ表情で嗤う。
「官吏? お前が? 去勢者かとムッシューは仰っている。いいか女もどきの官吏、それとも官吏もどきの女か? ムッシューはリュザンベール人だ。お前らの王の后と同じ国の人間だ。リュザンベール人はこの土地の法では裁かれない。弁済して欲しければ租界へ来いとムッシューは仰っている。租界で領事に文書で訴えろと。あんたに文字が書ければ、だけどな!」
小男が声を立てて嗤い、小蓮に目をやってひゅっと口を鳴らしてから、卑屈な犬みたいに法狼機人の背中を追っていった。月牙は柄を握る手に力を込めた。雪衣が一言命じてくれたら、今すぐ駆けだしてあの無礼な野蛮人を膾に刻んでやりたかった。
「柘榴庭。もういい。武具を収めろ」
雪衣がうつむいたまま命じる。威厳溢れる主計判官の仮面を必死で被ろうとしているようだ。月牙は全身の血が沸騰するような怒りをこらえて頷いた。
「はい判官様」
月牙はことさら恭しく答えて刀を鞘に収めた。
群衆が遠巻きにしている。雪衣は長いため息をつくと路傍へ歩み寄り、割れた陶器を拾い集めながら云った。
「亭主、この壺は幾らだ?」
「太太、いや判官様? 弁済はいりません。法狼機と揉めると厄介です。租界に訴えなど――」
「分かっている!」雪衣が低く遮る。「私も主命での所用の途上だ。他所の訴えごとに関わっている暇はない。ただ値を聞いているだけだ。この壺は幾らだった?」
「銀半両で」
「半両? 高いな。高すぎる。割れているのだから半値にしろ」
「え、ではお買い上げで?」
「ああ。手持ちの銭がこれだけだ。今は手がない故、品は後で中南門筋の趙家に運んでくれ。修理は必要ない」
「は、はい! 有難うございます!」
雪衣は巾着から銭を出して売り手に渡すと、不意に深々と頭を下げた。
「すまない亭主。弱輩ながら官の禄を食む身――しかも主計の身だというのに、市での狼藉を目前にして止めることもできなかった」
「いえ判官様、勿体ない」
亭主も頭を下げた。「有難いお心です」