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後宮生活困窮中   作者: 真魚
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第三章 壺を割ったら謝れよ 二

東西方向へまっすぐ伸びる幅三丈の河津道の左右には旅籠や茶館が点在し、一里塚ごとに植わった果樹の塚の周りには露店が並んでいる。

 一段高くしつらえられた堤のような道の左右は青々とした水田地帯だ。畔に鮮やかな青い菖蒲が咲いている。

 双樹下きっての美しい田園地帯を歩いていると気も緩んでくる。洛中を離れれば人通りも少なくなる。羽音につられて目を向けると、真向いからの陽射しを浴びて燦めく水田から真っ白な鳥が舞い上がっていくのが見えた。

 ――白鷺かな?

 折に触れて宮の外へ出ることもあるとはいえ、こんな風にのんびりと田畑など眺める機会はめったにない。月牙が景色に気をとられていたとき、小蓮がためらいがちな小声で呼んだ。

「あのう判官様――」

「ん? なんだね若い妓官よ」

「その、海都には何の御用なんでしょうか?」

「――小蓮!」月牙ははっとわれに返って咎めた。「立場を弁えろ! 妓官が余計な質問をするな!」

「まあまあ落ち着け柘榴庭」と、雪衣が柳眉をあげる。「ここはもう宮の外だよ? 幸い耳目も全くないし、少しばかり羽を伸ばしたって誰も咎めやしない。気になるなら私的な会話ってことにしよう。小蓮は年末の媽祖大祭を知っている?」

「もちろんです! 七年に一度、王太后様と正后様がお出ましになって河上の媽祖大社へ参詣に行かれるんですよね? 前の大祭の行列、私この道で見物したんです。たしか七歳の冬で――」

 そこまで話したところで少女はようやく思い至ったようだった。

「あれ、じゃ、もしかして今年が大祭の年?」

「実はそうなんだよ」と、雪衣が苦笑する。「いろいろあって忘れていたけど、実はまさしく今年こそが媽祖大祭の年なんだ。だけど費用が足りない」

「なんでそんなに足りないんですか? 正后様が出て行っちゃったあとにも、王太后様の荘園は変わらずにあるんですよね?」

「王太后様のというより桃果殿の荘園だね。それはもちろんあるさ。だけど、後宮の祭事の費用は、かなりの部分貴妃様がたのご生家からの寄進に頼っていたんだ。今はそれが殆どなくなっちゃったからね」

「じゃ、まさか海都へは借財に?」

「とんでもない! 返す当てもない借財なんかするもんじゃないよ。求めるべきはあくまでも寄進だ。大祭の費用の捻出のために、我々はひたすら寄進をつのる手紙を書いた」

「どこに?」

「思いつく限りどこにでも。そうしたら思いもかけない筋から大口の寄進者が現れたんだ――ねえ月、どこからだと思う?」

「私が知っている筋? ええと――あ、雪は海都の出身だったね。もしかして雪のご生家から?」

「イヤイヤまさか。趙家はしがない材木商だよ。同族も大して多くないから期待できるのはせいぜい馬半頭分くらい。杏樹庭どのだよ! いや、もう先の杏樹庭どのか」

「え、胡文姫様?」

 雪衣は満足そうにうなずいた。

「まさしく。あの方が嫁がれた西域の薬種商人というのが相当の豪商だったらしくてね。届くとも期待せずにお手紙を送ってみたら、大祭の費用のほぼ半分にあたる大金をおひとりでご寄進くださったんだよ!」

「ずいぶんお金持ちだったんですねえ! じゃ、判官様はその費用を取りに行かれるんですか?」

「そういうこと。送られてきたのは手形だからね。この近辺で西域系の会所があるのは海都しかないんだ。胡文姫様が婚姻のために宿下がりを乞うたと聞いた時には正気の沙汰じゃないと思ったけど、こうなるとありがたいかぎりだね!」

 雪衣は嬉しそうに言ったが、月牙は釈然としなかった。

 媽祖大祭の費用の半額をぽんと寄進できるなど、相当の大富豪であることは月牙にでも分かる。しかし、あの薬師の頭領が、まさかそんな理由で宮を辞そうとは、月牙にはどうしても信じられないのだった。



雪衣は歩きながら小蓮と気楽に雑談していたが、洛東河津が近づいて道に人影が現れるなりぴたりと口をつぐんだ。

 黙々と足を進めるうちに、行く手に鈍く煌めく広い水面が見えた。

 双樹下国内を南北に貫く大河と、京洛地方を東西に流れる玲江との合流地点だ。岸辺が石で階段状に舗装されて、小舟や竹の艀が舫われている。ちょうど木流しの時期らしく、チーク材を組んだ大型の筏も十数艘ほどあった。

 船着き場の左手に、四方を石垣で舗装された台形の高台が見えた。上部を低い石垣で囲われ、上に赤茶の瓦屋根がいくつも重なって見える。河津道からじかに始まる長い石段を登れば、小さいながらも露台を備えた屋根付きの二層門がある。門扉は開いたままで、右手の柱に縦長の木札が掛かっている。


 洛東河津官宿


 反対側の柱の前には、色の褪めた藍色の袴姿の初老の武官がいた。

長身で膚がやや浅黒く、鼻梁が高めで眼窩の深い、一目で分かるカジャール系の容貌である。

 武官は先細りの長い木製の筒のようなものを不器用な手つきで掲げていた。一見槍のようにも見えるが先端に穂は見えない。しかし、端が金属製ではあるようで、左手から差す夕の陽を浴びて鈍く光っている。

 あの武器だ――と、月牙は思い出した。砦のような新梨花宮を守備する見慣れない武官の担っていたあの筒状の武器だ。

 老武官は雪衣の示した桃果殿の御紋入りの通行手形を見るなり背筋を正し、下僕にすぐさま津長を呼んでくるようにと命じた。そのあとで月牙に目を止め、よく日に焼けた皴深い顔を綻ばせた。

「おやおや、お顔を見れば分かるぞ。御身は同胞じゃな。主計判官様にお従いということは、もしや当代の柘榴庭どのか?」

「ああ」

「北塞の蕎家の御生まれと聞いたが、お噂通りのご器量だなあ! そのお若さで頭領とはご一族もさぞ鼻が高かろう。某は杜志雲と申す。嶺西の杜氏じゃ。蕎と杜は同じく平原のカジャールの古き雄アガール氏族の裔。同族のよしみじゃ、なんぞご用命あればいつでも御知らせあれよ」

「かたじけない志雲どの。つつがなく務めを果たせよ」

 月牙がぎこちなくねぎらうと、杜志雲は真っ白な歯をのぞかせて笑った。故郷の叔父たちを思い出させる笑いだ。月牙は一瞬ためらってから訊ねた。

「ところで、つかぬことをうかがうようだが」

「なんだね?」

「志雲どののお持ちのその武具は、何という呼び名なのか?」

「おや、マスケットをご存じなかったか?」と、杜志雲が意外そうに言う。「これは法狼機渡りの火を噴く武器じゃ。文では〈銃〉という字を当てる」

「銃」

「然様。鉄の筒のなかで火薬を爆ぜさせて鉛の塊を噴出させる仕組みじゃ。洛中ではこの頃竜騎兵という騎馬隊が編まれたそうでな、法狼機の師範がマスケットの指南をしているそうじゃが、儂らは指南書を読んで撃つばかり故、なかなか巧く用いられぬ」

「難しい武器なのか?」

「独学ではなかなか。柘榴庭どの、駅や津の火長もおいおい指南を受けられますよう、どうにかしてお上へと伝えていただけませんかのう?」

 杜志雲は月牙というより、傍で黙って興味深そうに聞いている雪衣に聞かせるように話した。雪衣が微かに頷くのを待って月牙は請け合った。

「及ばずながら尽力しよう。それからもう一つ、本当にちょっとしたことなんだが、この頃――半月ばかり前、素性の知れない四人の娘が京からこの辺りへ流れてくるというような事件はなかったかな?」

「はて、そんな話は聞かぬが」と、杜志雲は首をかしげ、少しばかり痛ましそうな面持ちで付け加えた。「食い詰めた娘が流れてくるなら、この津では北の橋詰と相場が決まっておるよ」

「そうか。ありがとう」

 月牙は暗い気持ちで応えた。


 洛東の北橋詰――


 その地名は月牙も耳にしたことがあった。 

 深い尊敬を持ってだけは口にされない地名だ。




 じきに現れた津長の話では、河下へ向かう官船はもう終わっているという。もちろん私営の船ならいつだって雇えるが、雪衣はそのまま官宿で一泊するといった。月牙は理由は訊ねずにおいた。

 馬だけは別料金で託して桃梨花宮まで送り返してもらう。

 女官三人に割り振られた房は、石畳の四角い中庭の北側の半棟だった。二丈四方の板の間が二間で土間に盥がある。旅装を解いたあとで、月牙はかなり躊躇ってから、もう一度外へ出ることにした。

「小蓮、私は河津を一周してくる。そのあいだ判官様の護衛を頼むよ」

「はい頭領、任せてください!」

 最年少の妓官が誇らしげに請け合う。

月牙は思わず頭を撫でたくなる衝動を堪えた。



 南門へ向かうと、相変わらずさっきの老武官がいた。名は確か杜志雲だ。月牙を見るなりまた嬉しそうに笑う。

「志雲どの、同族のよしみで早速ひとつ頼みたいのだが」

「なんなりと」

「ほんのしばらくでいいから、この箙を預かってくれないかな?」

 月牙が背の箙を下ろしながら口にするなり、杜志雲はぎりぎりと眉を吊り上げた。

「なにを仰せられる! 白鷺の羽矢は妓官の証、御身の身分を請け合う何よりの印ではないか! 見ず知らずの老いぼれになど気安く預けてはいかん!」

「シイイ、声が大きい!」

月牙は慌てて宥めた。「私だって誰にでも気安く預けたりはしないよ。信じるに足る同族だからこうして頼っているんだ。頼む、ほんのひと時でいいから!」

 頼み込むと志雲は渋々預かってくれた。

 月牙は適度に服装を乱してから、門を出て北の橋詰めへと向かった。

 

 玲江に架かる洛東大橋の南のたもとの一帯が北の橋詰めと呼ばれているのは、その位置が官宿から見て北側にあたるためだ。

 そこは見るからに猥雑な繁華街だった。ひび割れた舟板で屋根をふいた高床小屋が寄り集まる中に、瓦屋根の館が小島のように点在している。どれも女郎屋だろう。月牙はまず茶館のような造りの一軒に入り、茉莉花茶を注文しがてら訊ねてみた。

「ここで一番の美人を出してくれ。できれば京育ちの」

 じきに茶を運んできたのは、翠玉とは似ても似つかないぽっちゃりとした色白の小柄な娘だった。薄紅色の羅の上衣の合わせ目から豊かな乳房がのぞいていた。

「あらあ、綺麗なお方。お兄さん――いえ、お姉さん?」

「え、どうして女と?」

「近づけば分かりますよ。男はもっと臭いもの。それにお姉さんはお綺麗すぎます。芝居の役者絵みたい」

 娘は低く喉を鳴らして嗤った。見目よりもずいぶん賢そうだ。月牙はその手に小銭を握らせながら訊ねてみた。

「この頃この辺りに京から四人の娘が流れてこなかったか?」

「娘なんか毎日流れてきていますよ。ああ、でも、そういえば、半月ばかり前に変わった娘らがあったって話は聞きましたね」

「どのような?」

「たしか、南蛮人みたいな色男がね、顔に真っ黒く鍋墨を塗った女の子たちを連れていたのだか」

「四人の?」

「そこまでは知りませんよ」と、娘は肩を竦めた。「だけど、一人は、どれだけ顔を汚してもお姫様みたいに綺麗だったって話です。だから噂になったんですよ」


 同じやり方で何軒かの女郎屋を検め、船場や木場でも聞き込みをしたところ、件の色男は顔を汚した四人の娘を伴って河下へ向かう筏に便乗したということだけが分かった。

 南蛮人というのは、双樹下では一般に南の海の向こうのタゴール渡りの褐色の膚の人々を差す。象牙や希少な紅の染料を産するタゴール商人は洛中にも会所を構えているため、町場に住んでいればたまには目にすることもある。河下へ向かった南蛮人とやらの行き先は十中八九海都だろう。翠玉たちは大都会に憧れて自主的に向かっただけかもしれない。月牙はその可能性を信じることにした。


 ――たとえ邪な意図のある男と一緒だったとしても、あの子だって九年間研鑽を重ねた柘榴の妓官だったんだ。いざとなったらきっと戦えるはずだ。


 月牙はそう信じたかった。


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