5.ドクター・マルクス
ザイラがレッドムーン海賊団の存在を知ったのは、師匠ピットーリ・クレツィオニの元に訪れ、共に大陸を渡り歩くようになって約1年が経過しようとしていた時だった。
「女性が船長の海賊団?」
たまたま辿り着いた街で宿を取り、その食堂で野菜や肉がゴロゴロと入ったスープを口にしているさなかだった。
ピットーリの口から世間話として出てきた言葉に、ザイラは思わず手も口も止めて、向かいの席で街の情報誌に目を通している彼女を見る。彼女は屋内だというのに厚手のローブもそのフードも取ることなく、食堂のテーブルの端に頬杖をついていた。
余談ではあるが、その手前にはザイラと同じスープが置かれているのだが、彼女は猫舌のため、ある程度冷めてからしか食べない。
「あぁ、最近表に出てきたダークホースらしいぞ。なんでも、乗組員は船長含めてたったの5人・・・にも関わらず、今のところ負け知らずらしい」
女性にしては低音で、どことなくのんびりとしたいつもの口調。その中に、今回はどこか面白さというか、興味を滲ませていることにザイラは気が付いた。どこがかは分からないが、興味を惹かれる内容だったらしい。
「負け知らずって・・・他の海賊を襲ってるんですか?」
ダークホースと言われるほどである。相当な数の海賊と激突していなければ、そのような異名では呼ばれないだろうと、ザイラは思わず顔をしかめる。しかし、ピットーリの返答は思っていたものとは違っていた。
「いんや、逆だ。襲われまくったのを、全て残らず返り討ちにしたそうだ」
「は?」
思わず間の抜けた声を挙げてしまった。あまりに非現実的なコトだと思った。しかし目の前にいる自分の師匠は、嘘偽りは絶対に口にしない。だから今言われたことは事実なのだと、信じざるをえないだろう。僅かに喉の奥で笑ったあと、ピットーリは情報誌を畳んで隣の空いている席に置き、スプーンを手にした。
「まぁ、船長が女性で少数しかいないっていう情報が出回ってるなら、恰好の餌だろうねぇ・・・いったい、何を目的にそんな情報をダダ漏れさせているんだか」
楽し気にそう言って、スープを口にする。
その後少し待ってみたが、彼女からその話題を再びされることはなく、彼女の中でこの話は終わったのだなと認識する。彼女は気まぐれで話題を振ることもあるが、終わらせるのは唐突だ。
やれやれと内心ため息をつき、ザイラもやや冷めてしまったであろうスープに、再びスプーンをくぐらせることにした。
まさかこのときは、2年後に「薬草に詳しい船医の助手を探しているらしいぞ」と、ピットーリから入団の打診があるとは、思いもしなかった。
ドクター・マルクスと呼ばれる男が、レッドムーン海賊団の船医であるというのは、割と有名な話である。
彼は元々とある国の軍医だったらしいのだが、戦時中に敵の攻撃に巻き込まれ、右足がほぼ使えなくなってしまった為に退役となった。それから友人の伝手で、とある豪商のお屋敷で侍医として働いていた。医者としての腕がよく、中でも彼の薬は良く効くということで、お屋敷で仕事する以外は彼の元に集まった弟子に自身の薬の知識を伝えることに専念していた。
それが、急に暇をとって姿をくらましたかと思えば、海賊団の船医となっていたのだから驚きである。
「おい坊ちゃん、頼んでた薬の調合はできたか」
野太い声が医療用に設けられた部屋に響き渡り、ザイラはすり鉢からいったん手を離し、背後を振り返る。
「はい、傷薬用の薬草は全て粉末にして調合できました。このあと軟膏にすると言っていたので、いまはミツロウを細かく砕いているところです」
脇に避けておいた傷薬用の粉末を、すぐ後ろにすでに来ていたマルクスに上に蓋をした状態で手渡す。マルクスは蓋をそっととり、中身を確認する。
「・・・流石、《ブックス》の弟子を名乗るだけはあるな。擦り残しもない」
呟くように言われた言葉に、素直に「ありがとうございます」とお礼をいう。
ザックから船の案内をうけ、最後に訪れたのはザイラの仕事場ともなる医療室だった。
軽快なノックに返って来た返事に、ザックは慣れた様子で、ザイラは少し緊張した心持で部屋に入った。中は比較的広く、診療用のベッドが2つと、デスクが一つ。そして薬棚と思われる、全ての引き出しに鍵がかかったクローゼット程の大きさの棚が置いてあった。中身は見えないが、全ての引き出しに名前が書いてあることから、きちんと整頓されていることがわかる。
ドクター・マルクスはどうやら休憩中だったようで、デスクに足を組んで座ってカップに口をつけていた。様々なにおいが混ざっているが、恐らくココアだろう。茶色の麻のシャツに黒いスラックス、そして黒の編み上げブーツといった格好で、デスクの脇には少しシミが付いた白衣がある。亜麻色の髪を短く刈り上げているおかげで、顔にいくつもの傷跡があるのが良く見えた。立てば右足の動きがぎこちないものの、動きに無駄もなく、何十年も前に退役しているという話が信じられないほど、背筋も伸び、体躯も良く見える。
「おう、入団試験合格したかい、坊ちゃん」
ドクター・マルクスは、開口一番にそう答えた。出迎えなのか自分たちのすぐ目の前に立ち、オリーブ色の瞳で自分より背の低いザックとザイラを見下ろす表情は、無表情だ。その威圧感で、一瞬言われていることの判断がつかなかった。ザイラは数度瞬きし、今言われた言葉が自分に向けての言葉だったのだと理解する。
「はい、合格しました。ザイラといいます。今日から、お世話になります」
左手を差し出せば、マルクスは暫くその手を見つめた後、同じように手を差し出しその手を握った。
「ザックの坊主、この坊ちゃんの案内は終わったか」
話を振られるまで、ザックは何故か放心していた。声を掛けられようやく我に返ったザックは、生返事ながらも「あ、あぁ」と答える。
「それなら、この坊ちゃんをこのまま借りてもいいか。明日出港になるなら、作業は早いうちに覚えさせたい」
「初めからそのつもりで最後に案内したから、それは問題ねぇよ。ただ、その・・・」
ちらりとザイラを見て、やや言い辛そうにしたザック。しかし、黙っているのは性分に合わなかったらしく、すぐに口を開いた。
「なんで、坊ちゃん?」
コテンと首を傾げる彼を、マルクスは無表情のまま見つめる。やがて口を開いた彼は、こういった。
「どう見たって坊ちゃんだからだ」
淀みなく出た言葉に、ザックはそれ以上何も言えなかったらしい。「そ、そっか」と返事して、そのまま部屋を去っていった
。ちなみに、ザイラは坊ちゃん呼びよりも、一目で自分を男だと見抜いたことに驚きが抜けきらず、ザックと同じように放心していた。
その後、いくつかの薬草や薬に関しての質問を経て、ある程度知識があると確認をされた。聞くよりも実践をという彼の言葉により薬の調合をはじめ、今に至っているのだった。