17.魔法という可能性
チョコレートに似た香りが鼻腔をくすぐり、ザイラは意思が浮上した。
紙をめくる乾いた音が、静かな部屋だとよく聞こえる。やや重く感じる瞼を開くと、見慣れない天井だった。
「あれ・・・船じゃ、ない?」
呆然と天井を眺めていると、すぐ脇でパタン、と本を閉じる音がした。
「目が覚めたか、坊ちゃん」
声のした方に頭を傾ければ、壁際のデスクの椅子に腰かけ、本を膝に置いたマルクスと視線があった。そのデスクに湯気のたつマグカップが置いてあり、やはりこの人だったのかと、ザイラは動きの悪い頭で思う。
マルクスは、いつも好んで砂糖を入れないココアを飲んでいる。本人曰く、珈琲よりも目が覚めるのだそうだ。ザイラもよく船で頂いており、当番で船医室にいる時は必ず作ってくれる為、香りで船にいると思ってしまった。
「えっと、俺は・・・」
起き上がろうとして、いつの間にか近くに来ていたマルクスに手で制される。彼はザイラの手首をとり、懐中時計を胸ポケットから出して脈を測り始めた。やがて「正常値だな、」と呟き、手首から手を離す。
「倒れる直前、頭を抱えていたと聞いた。今は大丈夫か?」
じっと覗き込むオリーブ色の瞳を、ザイラは数秒見つめ返す。実際は、言われたことを脳内で復唱していただけなのだが・・・寝起きのせいなのか、とにかく動きが鈍い頭で思い返すこと数秒。
「───っ、ダリア!!」
ザイラは跳ねるように起き上がった。マルクスはピクリ、と片眉を上げる。
「ダリアは?彼女は大丈夫ですか?!俺、あんな所で倒れて───っほぁっっ」
「まずは落ち着け」
大きく無骨な手が、ザイラの目を覆うように頭を掴んだ。
鷲掴みである。
そのせいで変な声は出たが、半分パニックになっていたザイラは落ち着くことが出来た。それを感じ取ったマルクスは、ゆっくりと手を退ける。
目を白黒とさせながらも、目の覚めた、そして申し訳なさそうな表情のザイラに、マルクスは息をついた。ベッド脇に置いてあった椅子に座り、ザイラと視線を合わせる。
「お嬢は大丈夫だ。メインストリートも近かったからな。巡回していた警備隊を捕まえて、"海の青"まで運んでもらってきた」
「ならここは、"海の青"なんですか?」
「あぁ。酔っ払って帰れなくなった奴用の客室を一室借りている」
今でこそレストランのみの営業だが、昔は宿を兼ねた食事処だったらしく、客用の部屋が今でも店の上にある。今回はレッドムーン海賊団の面々が来る為、予め掃除しておいてくれたらしい。ケイブ島に来ると、いつも"海の青"で寝泊まりしているそうだ。
「それで、頭痛はもうないのか」
じっとこちらを見るマルクスに、ザイラは慌てて「ないです」と答えた。その他にも状態確認の為の質問があり、それに淡々と答えていく。
「───思い出したのか」
マルクスの瞳が静かにザイラを見据える。ザイラはゆっくりと瞬きをし、首を横に振った。それに「そうか、」と呟くように答え、マルクスは嘆息する。
「残念ながら、船長の事はなにも・・・ただ、妙な夢を見ました。それで俺の兄───クラッド・シードの事は、少しだけ思い出しました」
「夢?」
訝しげに眉をひそめるマルクスに、ザイラは先程まで見ていた夢の内容を話す。
不思議なことに、夢は過去に現実で起こったことであると、目が覚めた時にザイラは理解していた。
そこまで話終わる頃には、マルクスは腕組みをし、眉間に皺を寄せて考え込んでいた。
暫くしてマルクスの口から出た言葉に、ザイラは目を瞬かせる。
「───坊ちゃん、魔法をかけられていやしないか?」
「・・・なぜ、魔法なんですか?」
今までの話でそんな要素は思い当たらなかった。首を傾げるザイラに、マルクスは真剣な表情で語る。
「話を聞く限り、夢で見た過去は坊ちゃんが記憶を無くす直前のものだろう。だが、それを過去だと認識できたのは何故だ?リアルな夢なんて、いくらでも見る機会はあるだろ」
「なぜ・・・」
そう言われてみると、確かにおかしい。
兄の名前は、気を失う前に唐突に思い出した。おそらくきっかけは、灯台のある崖を見上げたこと。夢で崖から落ちた時の光景とそっくりだったのだ。
(でもそれだって、どこかで読んだ物語の登場シーンに重ね合わせてるだけかもしれない)
それを夢で見たという可能性の方が、記憶が一部戻ったというよりも説得力がある。
けれども、
「───あれは、確かに俺の"過去"でした」
再度断言すれば、マルクスは目を細める。
「・・・理由は?」
「あの時の自分の思いも、感情も、今ではハッキリと思い出せるからです。そして同時に、兄の考えは分かりませんでした」
もし過去に見聞きした物語を夢で見て、配役を自分と顔も知らない筈の兄にしたのなら、自身のみならず相手の感情も分かるだろう。だってそれは、ザイラが創り出した夢なのだから。
マルクスは1度目を瞑り、息をつく。彼が頭の中を整理させるときの仕草だ。
「・・・なら、やはり記憶は魔法で封じられている可能性が高い。一部思い出すということもあるが・・・思い出したのが、記憶を無くす直前のもののみであることが気になる」
記憶を封じられている。
ザイラはそんな事が可能なのかと、素直に驚く。そして、今更な疑問が浮かんだ。
「マルクスさんって、魔法使いなんですか?」
普通の人は、魔法について知らない。しかし彼は当たり前のようにそれを口にして、更には考察までしている。だからこそ、彼は魔法使いなのかと思ったのだが・・・予想に反して、答えは否だった。
「お嬢たちが魔法使いの学校に入るまで、存在すら信じていなかった」
「お嬢たちって、船長とリリーさんのことですか?」
「あぁ。俺は元々、シュガート家の医師だからな」
思わず「えぇ?」と間の抜けた声をあげてしまう。
ならば彼が辞めてきたと噂されていた豪商は、シュガート家という事だろうか。
ザイラは聞こうとして、やめた。一つ思い当たることがあったのだ。
「俺を坊ちゃんと呼んでるのって、シード家の人間だからですか?」
そう聞くと、マルクスは「お嬢から聞いたのか」と涼し気な表情で呟いた。
「それもある。あと、昔からの癖だ。坊ちゃんは小さい頃からよくシュガート家に遊びに来ていたからな。コケて怪我した時なんかは俺が診ていた」
ということは、彼とも古くからの顔見知りということだ。
ザイラは両手で顔を覆う。
思い出せず申し訳ないやら、なぜ言ってくれなかったという憤りやら、知り合いが2人もいて思い出せなかったやるせなさやら・・・様々な感情がザイラの中で渦巻く。
とりあえず、言うべきことは、だ。
「・・・昔も今も、お世話になっています」
「おう」
やっとの事で絞り出した言葉を、マルクスは軽い返事で受け取る。その声の調子は、少しばかり楽しんでいるようにも聞こえた。