12. 甘い香りのそれは
「いやぁ、傑作だわ。助けておいてあんな慌てる?普通」
未だに笑いが止まらないダリアに、ザイラは顔を両手でおおって項垂れる。
「忘れてください・・・」
「無理だよ。後で他のみんなに報告モノだね」
「それこそ勘弁してください・・・!」
絶対に、ことある事にからかわれるやつだ。
勘弁してくれと勢いよく顔を上げると、ダリアはふふ、と悪戯っぽく笑った。
「冗談。言わないよ」
そう言って、欄干に手を掛けた時だった。
「っ!」
ダリアは小さく息を飲み、置いたばかりの手を木製の欄干から跳ねるように退かした。それにピンと来たザイラは、胸ポケットに入れていたハンカチーフを抜き出す。
「怪我をしたんですか?見せてください」
風化が酷い欄干だ。おそらく棘がささったのだろう。ダリアに近づくが、彼女は引っ込めた手を背中にやりザイラから隠してしまう。
「大丈夫!少し切っただけで、見てもらうほどじゃないし、」
「何言ってるんですか。小さな傷が命取りになることもあるんですよ」
どんな傷でも甘く見てはいけない。そうダリアを見据えると、彼女は視線を泳がせ、困ったような表情を浮かべる。
「・・・血が苦手とは言いましたが、薬師ですから治療も多少できますよ?」
まさか、自分が血が苦手だということを、気にしているのではないだろうか。
そんな考えが過り言ってみると、ダリアは躊躇いがちに「そう・・・?」と、ザイラに視線を合わせた。それに溜息をつきそうになったのをこらえる。
(いくらなんでも、優しすぎるだろ)
彼女の強さは身をもって知っているため、疑う余地は無い。
しかし、海賊団を率いる長としては、心配になる程ダリアは優しい。
(やはり育ちは良さげだな・・・隠してるつもりかもしれないが、所作が下手な貴族より綺麗だ)
賢者の弟子としてピットーリと共に旅していた頃、貴族と会う場面も少なからずあった。彼らと比べても、ダリアのふとした時の所作はひけをとらない。
(本当に、なんで海賊になったんだろうな)
今のように女性らしいドレスを身に纏えば、彼女が海賊であるなどと誰も想像しないだろう。
そんな思考をよそに、ザイラはおずおずと差し出されたダリアの手を取った。見ればやはり血が出ており、一センチほどの切り傷ができていた。視線を欄干に滑らせれば、予想通り風化のせいか木がささくれて、短く鋭い棘があるのが確認できた。
「棘は刺さっていないようですね。あとは血が止まるまでこれで押さえて、」
海風が、一際強くなった。
ザイラの動きが、ギシリと止まる。まるで、終わりを迎えたぜんまい仕掛けの人形のように。
───あまい、かおりだ
ダリアから香るお菓子のような、花のようなそれ。いつもはほのかに感じるだけだが、今はまるで、花の蜜を瓶ごとひっくり返したかのような・・・脳天を痺れさせる香りが、ザイラにまとわりつく。
どくり、と心臓が高鳴ったのをどこか遠くで認識する。
───のどガ、かわク
無意識に喉が嚥下する。遠くで何か聴こえる気がするが、ザイラの意識は甘い香りに集中していて、すぐにどうでも良くなった。
───ホシイ
この甘い香りのモノが、どうしても。
そんな考えが過ぎった瞬間。ふいに、口の中が甘い香りで満たされる。どこか懐かしさを感じさせる香りに、心が満たされていくのを感じる。
けれども、喉の乾きは癒えないままだ。
───・・・タリナイ
まだ欲しい。
欲望のままに。
思うままに。
───コンドコソ、※※※ヲ・・・!
(────誰だ、それは)
確かに"誰か"の名前を思い浮かべたのに、靄がかかったようにハッキリとしない・・・ふと意識がそれた瞬間だった。
「ごめん!」
そんな言葉と共に、腹に激痛が走り息が止まる。
「───っ!かはっ!!」
胃液を吐きそうになりながら、ザイラは前のめりに倒れそうになる。しかし、目の前のものにぶつかり・・・いや、目の前の人に抱き止められ、何とか倒れずにすんだ。
「・・・えっと、大丈夫、かな?」
目の前の人──ダリアは小首を傾げる。肩口に額を置く状態のザイラにそれを目視で確認することは出来なかったが、気配は感じた。そして飛んでいた思考が戻った瞬間、跳ねるようにダリアから離れた。
その一瞬だけは腹のダメージを忘れたかのような動きを見せたが、頭から飛んだからと言って事実が消える訳もなく、そのまま後ろに倒れ尻餅をついた。
「・・・すみません。大丈夫です」
正直、大丈夫とは答えたが何が大丈夫なのか自分でもわかっていない。あまりの自分の情けなさにダリアの顔が見られず、掌で目を覆った。