プロローグ
花の蜜のような甘く魅惑的な香りに、彼は誘われるがままに口を開いた。
人と言うには鋭すぎ、獣というには洗練された犬歯。
これを今ここで突き立てれば、彼女は―――
「どうしたの?」
ピタリと、彼は動きを止める。
高すぎず、低すぎない、いつもなら心地が良いと感じる声。それが少しばかり咎めるように聞こえたのは、彼の主観にすぎないだろう。実際のところ、彼女はなぜ彼が急に黙ってしまったのか、疑問に思って口にしただけなのだ。
分かっているのだ。今自分がやろうとしたことは、間違いなく自らのエゴであり、自己満足であると。
いっそ自身の思った通りに動くことができたら、どんなに良いか。
そんなことを思いながら、常人よりは鍛えられた理性で難なく自身を抑え込み、腕に閉じ込めていた彼女から身体を離した。
「悪い、ちょっと緊張してて」
そう言って苦笑を浮かべれば、彼女はアーモンド形の目を瞬きさせる。鳶色の瞳が、窓から入る月明りに照らされ宝石のように輝く。
自身の烏のような色の瞳に比べ、なんて美しいのかと、もう何度目かわからない感想を飽きもせず抱く。もうきっと、そんなことを思う機会は訪れないのだろうけれど。
「珍しいね。次の任務、難しいの?」
「まぁね」
彼女は聡い。そして感が良い。そんな彼女を完璧に騙すことはできないから、曖昧にごまかす。そして誤魔化されていると気付かれる前に、
「だから、今日はこれを預けようと思って」
あらかじめ固定するためのベルトを緩めておいた腰から、彼は大事な相棒―――短剣を一振り外し、少女に差し出した。彼女はこぼれんばかりに目を見開いた後、表情を険しくさせる。
「難しいなら、尚更それは手放しちゃダメでしょう。なに考えてるの」
受け取ろうとしない彼女だが、想定内だった為にそのまま差し出し続ける。
「今回の相手には、コイツは使いたくないんだ。でも、使い慣れてるこの相棒を持っていたら、つい手が伸びてしまうかもしれないだろ?」
「そんな我儘言って、」
「それに、」
少し強めに、彼女の言葉を遮る。
本当は、彼女が納得するまで話を聞きたい。けれども、もう残された時間が僅かであると、彼女の背後に延びる影が告げている。月明りだけで出来た彼女の影は、彼が訪れた時に比べて短くなった。
「その方が気合が入る。大切な人が大切なものを持っていてくれたら、意地でも帰ってこようって気になるからな」
本当に大切で、愛しい人。
この世に生を受けてまだ十数年だが、彼女以上の人を見つけることは至難の業だろう。そんなことを思い、短剣を手にしていない手を伸ばし、彼女の頬を撫でる。陶磁器とまではいかずとも、白く柔らかい肌。それが一拍おいて、赤い絵の具を垂らしたかのように色づいた。
「~っまた、そういう、ことをっ」
睨むように自身を見上げる彼女に、笑みがこぼれる。それにやや不服そうにしながらも、納得はしてくれたようで彼女は短剣を手に取った。離れていった相棒に、少し寂しさがつのる。
「ありがとう、」
その後に続きそうになった言葉を、寸でのところで止める。
伝えたところでどうにもならない上に、下手すると彼女の自由を奪ってしまう言葉。
言わないと誓って訪れたのに、今日はどうにも歯止めが効かないなと、苦い笑みを浮かべ彼は一歩進む。不意の事で反応できなかった彼女との距離が縮まり、彼はその額に軽く触れるだけの口づけをする。すぐに離れれば、先ほどの比ではないほど顔を真っ赤にさせた彼女が、唖然とした様子でこちらを見ていた。
「Buonanotte, mia fiore―――良い夢を」
窓枠に足をかけ、体重を前に倒す直前に振り返る。ようやく我に返った彼女が、慌てた様子でこちらに向かって駆け寄ってくるのが見えた。それに微笑んで、体重を前に倒すのと同時に支えていた手を離す。
一瞬の浮遊感の後、重力に従って身体が3階の彼女の部屋から落下していく。その際に、シャツの下に入れていたはずであるネックレスの球体のトップスが見え、後でまた入れておかなければと考える。地面へと到着する前に、彼女が窓から身を乗り出したのが見えた。
『行ってらっしゃい』
真夜中であることを考慮したのか、声には出さず口だけでそう伝えたのが見えた。僅かに口元を緩めた彼女の微笑みに、目を眇める。
彼女は律儀だ。彼が何日も帰らなければ、手入れの為に一度、短剣を鞘から抜くだろう。鞘に忍ばせたメモに気が付いた時、彼女はどんな表情を浮かべるのだろうか。
最期に、笑顔が見れて良かった。
熱くなった目頭に、彼は瞳を閉じる。
真っ暗になった視界は、彼女の顔を脳裏に焼き付けるのにはちょうど良かった。