第2章1 新たな世界
「真邦、何か欲しいものはない?」
「うーん、特に」
携帯ゲーム機をカチャカチャ鳴らしながら欠伸をする少年に、優しい雰囲気を纏う女性が問いかける。
窓の外は夏。セミが鳴き、入道雲。
クーラーが放つ冷気に満たされたリビングで少年は伸び伸びとしていた。
そんな怠けを知り尽くした彼の背後から、ぬぅと忍び寄る影がある。
「――わぁっ!!」
「うわぁあああっ!! なんだよ! もう〜お!!」
いきなり両肩を掴まれた少年は驚き、思わず手に持っていた物を投げ出してしまった。
そのせいでゲームオーバーになってしまった。コンテニューしなければ。
そんなことを怒りと共に思った矢先、あることに気づいた。
「……あれ? 僕、セーブしたっけ?」
急いで携帯ゲーム機を引き寄せて確認するが、まさかのまさか。セーブ、してませんでした。
六面クリア寸前から、三面まで巻き戻る。やり直しだ。
「セーブ、してない」
「あ、あはは。お、落ち着けよ、なぁ? とりあえず落ち着けって」
少年の怒りパーセンテージはみるみる跳ね上がり、こうなった原因である男性の顔を睨みながら、ゆっくりと立ち上がる。
男はずさりずさりと後退りするが、少年がにじり寄るスピードの方が速かった。
「――こんにゃろっ!!」
「あいたたたたたっ! いたっ、痛いってごめんごめんごめんっ!!」
少年はサッとしゃがみ込んで男のふくらはぎを全力で握ると、男は堪らず降参する。だが少年はしつこく握るので、そのまま軽い格闘に入る。
女性はそんな男二人を冷たい目で一瞥し、緑色のエコ袋を籠から出す。
男二人は相手が冷めた雰囲気を纏っていることにハッと気づくと、戦闘を中断しておとなしくなった。
「さ、行くよ」
「はい、ただいまそちらに」
男は滑稽なほど腰を低くしながら女性の後に付いて行く。
尻に引かれてるなぁ、と思う少年は二人を見送る為に、同じく玄関へと向かう。
「じゃあ真邦、行ってくるね」
「ゲーム進めとけよ」
「うるせー」
家族三人でいつも通りの光景を作る。何気ない日常の1ページを送る。ただ、それだけでよかった。
「――行ってらっしゃい。父さん、母さん!」
手を振る両親に笑顔で、ミナトは手を振り返した。
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「――行くな!!」
ミナトは両親の手を掴もうとしながら起きたが結局、掴んだのは虚空だった。
動悸が早くなる感覚を覚えながら周りを見回すミナトは、今自分がベットの上で寝かされていたことに漸く気付く。
ここは殺風景な小部屋で、ベット一つとおまけ扱いのような小机が置いてあるだけだ。
ここは病院だろう。日本での記憶と少しの勘だけでそう結論づける。
「そうか……俺、気絶したんだっけか?」
正直、異世界に迷い込んだ後の記憶があまり無い。
それほど必死だったのだろうか。それか、あの頭痛が原因か。
どれもこれも、ぼんやりとして今一つ大切な何かを思い出せない。
とりあえず、あの頭痛だけは気持ち悪いほど頭の中にこびりついている。
モヤモヤする気持ちを抑えながら頭を掻き、ふと窓の外を見る。入道雲。
セミの存在は感じられないが、代わりに人の声が沢山入り混じっている。
なんだか現実感が無い。ふわふわとした頭の中、ベットから立ち上がって窓に近づく。
ミナトは景色を見てみたくなったのだ。開け放つ。
「――あぁ」
遠くの薄茶色の石造りの家々、下を見れば多彩な服、様々な人が行き交いしている。
そして包丁で肉を叩く音から足音、会話まで、あらゆる生活音。
甘い匂いがする。その匂いを辿ると果物屋らしき建物。
広大で青々とした空の下で、ミナトは日本には無かった熱気や生活感を肌で感じとる。
思わず声を漏らしたミナトは感動したのだ。――異世界の景色に。
「あ、あぁ、まじで。まじで……異世界なんだな」
さっきからソワソワしっぱなしだ。簡単な言葉しか出ない。全身の毛が逆立つ。涙が出そうだ。美しい。
ミナトは肺から空気を全部吐き、思いっきり異世界の空気を吸い込む。そうして、まるでこの世界の住人になったかのような気分に浸るのだ。
「最高だ……この感覚、あれだな。旅行して初のホテルで目が覚めた時のやつと似てるな」
この発言は誰にも発信していない。
それに色々と恥ずかしいので聞いて欲しくはないのだが、とりあえずこの気持ちを整理したかった。結局できていないが。
「いや、でも、まじですげぇな……」
懲りずに景色を眺めながら、嗅覚、聴覚、視覚、触覚で 異世界 を感じとるミナト。
あと足りないのは味覚か。是非、あの果物屋らしき建物に立ち寄りたいものだ。
そんなことを思っていると、どこか腹が減る感覚を覚えた。この世界に来たからというのも、食べ物もおろか、水すら飲めていない。
これが済んだら何処に行こうかなどと何処か上の空のような気分でいると、ドアをノックする音が聞こえた。
「あ! はい! どうぞ!」
「失礼するよ。窓を開け、身を乗り出してはしゃいでいる君の姿が見えたのでね。元気に目が覚めたのだと気付いて回診に来たってわけさ」
「あ……はい……すみません……」
恥ずかしさと申し訳なさで一杯一杯なミナトをよそ目に部屋に入ってきたのは老年男性、一人だけだった。
回診と言っていたことから医師、と察せられたが、医師というには白衣は着ておらず、むしろ私服に近い。
それに手ぶらだ。回診、というには少し違和感を感じる。
ミナトがはて、と老人をまじまじと見つめていると「あぁ、確かにね」と自身の格好を確認する老人。
「確かに、君が思っているように少しばかり軽装すぎたかな?」
「あっ! いえ……そんなことは」
自分が思っていたことを完全に的中され、あたふたするミナト。その様子を眺める老人は微笑むと、踵を返す。
「えっ。診察とか、なんか……しないんですか?」
「ん? あぁ大丈夫だよ。あの女の子と同じく問題無いさ。今、魔法で診たからね」
魔法で診た、という言葉に衝撃を喰らったミナトはフリーズする。
魔法という単語に驚いたのではない。そんなスムーズに、何処から何処まで診られたのだろうか、ということに驚いたのである。
勝手に隅々まで見られるなんて完全にプライバシーの侵害だ。ミナトは自分で自分の体を思わず引き寄せた。
そんなふざけているミナトをよそ目に、老人はやれやれと首を振って今度こそ部屋から立ち去ろうとするが――、
「――ミナトさん! 大丈夫ですか!?」
黄金の美しい髪に、紫色の目。一瞬、天使と見間違えるぐらいの美貌の持ち主だ。
そんな彼女がパジャマのような服でドタドタと音を立てて走りながら部屋の中に入ってきて、そのままミナトの所まで走ってきたのだ。
突然の出来事。全く準備していなかったミナトは、ドギマギあたふた後退り。
そんな童貞イオンを放出させるミナトに対し、彼女の顔からは真剣さを感じさせる。
「ミナトさん? ど、どう……したんですか?」
「えっ! いやっあのっ! あのっ! いえっ! ち、ちょっと……近すぎる、というか」
「あっ、すみません……」
様子がおかしいミナトに困惑し始めた彼女を更に困惑させながら、自分の意見を言った。言えた。
彼女は、確かにミナトと距離を詰め過ぎていたことを自覚し、パッと離れると恥ずかしそうにする。
変な空気が流れ始めたが、医者の溜息で全部リセットされた。
「まったく……君の回復力は目を見張るものだが、重傷者だったのだから安静にしときなさい」
「ミナトさんが心配でつい……すみません」
「えっ重傷者って。何かあったんですか? う――」
ミナトは彼女に呼びかけようとして言葉に詰まった。
――名前が、出てこない。
ミナトにとって大切な人達の一人だ。怪物の集団から助けてくれた。迷える自分を導いてくれた。
なのに綺麗さっぱり、ミナトの記憶から彼女の名前が消去されている。それこそ違和感を感じるほどに。
ただ単にミナトの記憶力が低いわけではないのだ。
「う、あ……えっと、そんなことがあったんですね。ははは……」
ミナトは戸惑い、何度も思い出そうとするが不可能であった。
急に様子がおかしくなったミナトであったが、二人を心配させるまいと気丈に振る舞う。
だがしかし、適当に話を合わせて後でじっくり考えようとしたミナトの発言が相手二人をあっけにとらせてしまう。
彼女は疑問に持ちながら苦笑いで質問し始めた。
「そんなことって、ミナトさんが助けてくれんたんじゃ……」
「え? ――僕は何もしてませんよ?」
医者と彼女の顔が青ざめていく。
ミナトはそれを見ながらやってしまったという後悔が胸から滲み出してくる。
それと共に、自分に何が起こっているのか未だ理解できていないという不安が一気に襲ってきた。
「なんということじゃ、記憶喪失か……!? いやしかし、何度見ても正常じゃ……何故」
医者は急いでミナトを診るが、問題は無いらしい。ミナトは頭を抱えることしかできなかった。
彼女は涙目になり、ミナトの手をゆっくりと取る。
ミナトは彼女の目を見つめることしかできず、その紫の中に悲嘆と混乱を悟る。
「ミナトさん、私のこと覚えて、ますか?」
「え、あ。あぁ、覚えていますよ! もちろん! もちろんですよ!」
「私の、名前は?」
「……」
彼女が泣く寸前の時に出る声で問うが、ミナトは彼女の名前を覚えていない。
記憶を漁りに漁りまくった結果、走馬灯のようなものが一瞬見えた気がしたがそんなことに構っている暇はない。
名前名前。彼女の名前。なまえ。『あ』でも『い』でもない。いや、確か――、
(だめだぁ、思い出せませぇん……!)
何文字だったか、ということすら忘れてしまった。こちらも涙目だ。対して、彼女は顔を歪ませ涙をドバドバ流すと――、
「びぇええええーーんっっ!!! ミナトさん死んじゃうんだぁあぁあっ!!」
「いや、死なん死なん」
ルースの勘違いに、医者の冷静なツッコミが炸裂したのであった。
新章スタートです。よろしくお願いします。