第1章+α ある暗殺者の瞳に映るは狂人
――大人さえ寝静まった頃。
ボロボロの外套で全身を隠す男が裸足で森の中を歩いていた。
特にこの場所の闇は深い。その闇と吹く冷たい風は、完全に男を包み隠す。
しばらく歩き、人の出入りが全く無いであろう朽ちた木造の家の前に着いた。
取っ手を引けばギチチと音を立て、中に入れば床がきぃきぃと悲鳴を上げる。
男はそれらを意に介さず、一台の重厚感のある日に焼けた本棚の前に立つ。
そこで男は床の穴に左足を突っ込むと、中にある石製のスイッチを踏む。
そしてそのまま本棚の一列目の部分を押し込むと本棚が真っ二つに割れ、道が開けた。
目の前に現れた階段を下り、すぐ前にある渋めな色のドアを開けると、そこには――、
「――おかえりぃ! ミアサくぅん!」
元気溌剌な少女の声と共に、ランプの光が男を出迎える。
部屋の広さは小学校の教室2つ分であろうか。
壁、床、天井。全面レンガで出来たその大部屋には、様々な家具や貨幣が並べられていた。
男はフードを上げ、扉の近くにあった椅子にどかっと座った。疲労困憊の男に銀髪の少年が近づく。
「あ、あの。あのあの、お、お疲れ様でした」
「ん……? あぁ。そうだな。疲れた」
「あっは! 相当無茶な命令と仕事の内容だったもんねぇ〜。暗殺者なのに出来る限り暴れ回ってルースも殺せって、ラーゼ君じゃないのにさぁ〜」
「あ、あの。これ……良かったら、どうぞ……」
少女は腕を組み、うんうんと頷きながら相手に同意する。
銀髪の少年は少しでも癒してもらおうと、袋に入ったベビードーナツのようなお菓子を男に渡そうとする。
だが、男は右手で控えめに袋を少年に押し付け、それを制する。
「これを食えば、お前怒るだろ……? ゼツ」
『あったり前だろうがぁっ!? ぶっ飛ばすぞてめぇえッ!!』
銀髪の少年はいきなり叫び散らかすと、袋を男の視線に入らないように隠す。
男はやれやれと首を振ると、そのお菓子の匂いにつられたのであろうか、腹がなった。
「あらあらぁ、そんなにお腹減ったのぉ?」
「今のは俺じゃない、そいつだ」
「えぇっ! お、おでぇ……!?」
『ハハハッ! 確かにそいつクソデブだからなぁっ!?』
腹の音を誤魔化すために犠牲になったのは巨漢の男だ。それも部屋の隅を覆い尽くすほど、巨漢だ。
三人の視線に晒された巨漢の男は、何故かバチが悪そうに頭を掻きながら三人の顔をキョロキョロと交互に見る。
「と、とりあえず。あの。ご飯……食べませんか?」
「あぁ、そうだな」
銀髪の少年は場の空気を切り替えるように男に提案すると少女は微笑み、奥の部屋に行ってしまった。
その部屋から鈍い金属音がガンゴン鳴り響き、肉の焼ける音と匂いが漂ってくる。
待っている間に今日済まさなければならない担務を終了させることにした男は懐から白い布の切れ端を出した。
「あれ、し、白い布。それ、どう、したの? 血が、付いてる、けど」
「標的の服の一部と血だ。仕事が失敗しても、これさえ入手できれば良かったからな」
「そ、そうなんだ……よか、良かったね。その標的、的ってさ、そ、そんなにも強、強かったの?」
あまりにも異質な布の切れ端を男がいきなり懐から取り出したことに銀髪の少年は驚き、問う。
男はそれを見つめながらルースについて思い出す。流石に骨が折れかけた。
それに、あの黒髪の少年というイレギュラー。危うく、仕事が完全に失敗に終わるところであった。
安心感と共に銀髪の少年に、もう一つの仕事の内容について話す。
今回は緊急の仕事&命令だった為に時間がなく、仲間には連絡できなかった。
今この場には居ない戦闘狂を呼ぶことができれば良かったのだが、としみじみ感じた男は溜息をついた。
「そ、そんなに強、かったんだ……」
「ん? あぁ、いや、別にそんなでもなかったぞ。実際、邪魔が入らなければ殺せたしな」
「え。そ、の……邪魔が、無け、れば……勝てたの?」
「――あぁ。そうだな」
自分と同じ黒髪黒目の少年。顔の作りがこの辺りでは見ないものだ。
しかも何度吹き飛ばしても直ぐに立ち上がり、技をぶつけても倒れなかった。異常だ。
(だが一番異常だったのは、あの――)
そう思ったところで、奥の部屋から少女が元気よく扉を開け放ちながら出てきた。
ちらりと見えるテーブルの上には緻密な装飾がされた料理が置いてある。
巨漢の男は一段と大きい腹の音を鳴らせながら、自身の体をグジュグジュと収縮させる。
銀髪の少年は「わぁい」と嬉しそうにパタパタと走っていく。
男は先ずは飯だと考え、歩いていく。
少女はソワソワしながら自分の所まで男が来るのを待ち、来た瞬間に興奮しながら話しかける。
「ねぇねぇ! その布ってやっぱりアイツに渡すのぉ……!?」
「そんな嬉しそうに聞くな。アイツに会うのだけは嫌なんだがな。仕方ない」
「それって廻神教の幹部全員に言えることでしょ〜?」
「……元締は、別だ」
「あー! 保身だぁ、保身に走ったぁ! みんなぁ〜、ミアサくんが保身に走ったよぉっ!! それも全速力で! あっは!」
「えぇ!? 君という男が保身に走ったのかい!?」
「ほ、保身……です、か……」
「……」
男はお手上げとばかりに頭をふるふると振った。
「――あ、そうだ。ミアサくん、間違えて嗅がれないようにねぇ〜」
「冗談にならん……」
男は溜め息混じりに呟き、頭をふるふると振り続ける羽目になったのだ。
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腐敗したガスと蛆が溜まった妊婦。膿まみれの老爺。赤黒い泡を吹いた赤子。皮膚が乾いて歯が剥き出しの遺体。
「――嗚呼、夢に見た禁秘の花園よ」
それら死体の山々が連なる中で中年の男が一人呟いた。
両目に黒色の丸い眼帯、白髪が混じった黒ずんだ黄金色の髪を後ろに流している異常者。
――その右手には血の滲んだ白い布が、握られていた。