第1章2 醜悪浮かぶ笑み
――地獄と、化していた。
苦闘の表情を浮かべた生首、その顎下が無い。
千切れた右手首は炎に包まれ、焦げながら収縮している。
割れたサイドガラスに血濡れた髪が皮膚ごと付着している。
黄色い何かがこびり付いた骨は床一面に飛び散っている。
意味が分からない。理解ができない 熱で皮膚が痛い
先程までか一緒に居れてた存在なのに だなっ りあ筈 だ。
「は っ はぁ っ はっ は」
経験の無い惨劇に目を見開いたミナトの息が比例して上がっていく。
涙と汗がとめどなく湧き上がり 指先の震えが全身に伝わっていく。
そこでどっと押し寄せる、濃いガソリン臭、生臭さを伴う塩素に近い臭い、そして鉄錆臭さ。
これら鼻をつんざく異臭が ひくつく肉管を通り、両肺を跳ねさせた。
「 お ぇ おぅ ぶ ぇえ え 」
鈍い翡翠色の石床にびちゃびちゃと吐いてしまったミナト。
だが、本能的に音を立ててはならぬと、何とか飲み込もう飲み込もうと何度も勝手に喉が閉まり上がる。
例え 余りにもみっともない姿を晒そうとも、不細工な我慢をしようとも、そうしなければ殺されると、そう無意識的に確信したからだ。
そう。何故ならばそこには――、
「化け、物」
見ていて吐き気を催す程に醜悪で歪な姿。
豚の頭を持ち、爬虫類系の胴体と脚をびっしりと覆う魚鱗。
また、成人男性の腕程ある尻尾に生え揃っているイノシシの様な荒々しい獣毛。
――火の海で煌々と照らされた "ソレ" は、いわゆるキメラと呼ばれる存在だった。
しかし、絶対的に空想、本の中にしか存在しない筈。
それが今、赤子の腕程の太さがある牙から真っ赤な肉糸を垂らし、襲おうとしているのか こちらを睨んでいる。
「ぐ ル る ぅ う が ぁアァ あ あ」
唸り声。
眉間に何重もの皺を寄せながら発したそれは、数多にいる動物の声を悪意を持って混ぜ合わせた様であった。
そして遂に ゆっくりと。
ゆっくりとこちらに向かって歩き始めた。
――獲物を狩る悦びを口元に浮かばせながら。
「 ひ 」
怖い。
怖い。怖い 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い
い 脳の処理速度がバグって頭が
気持ち悪い痛い痛い痛い 気持ち悪い気持ち痛い悪い気持ち悪い
気 持ち
悪
「ぅぶ ごぉえ ぇっ ぶ 」
血走った目を大きく見開き、吐瀉物を撒き散らしながら立ち上がろうとするものの、上手く力が入らない。
がくがくと倒れ込んだ先には誰も居らず、石床の無常な冷たさが僅かな体温を奪っていく。
足音はまだ聞こえない。
「 あ あぁ、あぁあ あ ぁあっ 」
悪夢を見ている気分に陥り、眩暈が起こる。しかし、頭の中ではこれは現実だと強く理解していた。
だからこそ、非常に強い絶望と非現実でこうして押し潰されているのだ。
足音が近付いてくる。
「たっ、たっあ ぁ た」
――全身の力が抜けていく。
助けて、という言葉は出せなかった。出せたとしても誰も助けてはくれないだろう。
その惨すぎる現実がミナトの生きる希望を奪う。
足音が止まる。
「ガ る ルゥ うラ ら ぁ ア あ ぁ」
――キメラが、追い付いた。
「ばけ ば ものっ ぅう! ? がぁあ ぅ うう! ! 」
尻尾を伸ばし、這いつくばるミナトの右太腿にぐるぐると巻き付けて力を込める。
するとミシミシミシと、厚紙を無理やり折ろうとするような音が鳴り始めた。
ひしゃげそうな鈍い激痛に叫び、死にたくないという本心が急に腹の奥底から湧いて出てくる。
このままでは、このままでは。一生が不幸なまま殺されたくない。
――死への恐怖。それが火事場の馬鹿力を引き出す。
「ひ ぃ い ぃい いい い っ !! !」
巻き付いた尻尾を掻き毟る。
同じ箇所に拳を叩きつけ、肘を叩きつける。
自由に動かせる左足で、蹴る、蹴る、蹴る。
必死に足掻く。必死に足掻く。必死に必死に必死に。
一心不乱に手や足を使い、尻尾の傷口を抉ぐる。
血が噴き出す。見えた血管を手で引きちぎろうとして失敗したので噛み千切る。血の味がする。
死に物狂いの抵抗。だが――、
「ぶ ぇげ」
一瞬の内に左肩から石壁に激突したミナトは、肺の中の空気が強制的に押し出され、軽く呼吸困難となった。
突然の衝撃に頭をやられた。酷い眩暈で立ち上がれない。
今のは何だったのか。何が起こったのか。
――とりあえず逃げなければ。
壁を使って立ち上がり、不細工によたよたと炎の海とは反対方向に歩き始めた。
「はぁ は ぁ は はぁ 」
なりふり構っていられない。
今は少しでも距離を稼ぐ事が先決なのだ。でなければ、あの者達と同じ運命を辿る事になる。
そんなの嫌だ。死にたくない。死にたくない。
死にたくな――
「 ぅ 」
そう考えた次の瞬間、ミナトは壁に背もたれていた。
何故か周りの音が鈍い。視界も雪に覆われたかの様に白い。
首筋が痛い。両足の先が痺れて痛い。
本当に、本当に突然の出来事であった。
まるで今までの恐怖も血生臭さも全て嘘であったかの様に。
「ぇ 、 え ? 」
違和感が濃くなってきた箇所を触ろうとしたその時、ようやくそこで気付いた。
――自らの左脇腹から肉が溢れ出している事に。
「あぁ あ あ ぁ あ ぁ あ あ !! !」
表面的な激痛が内部に浸透してくる。
呼吸と共に生暖かい液体が溢れ出す。折れた肋骨は下から腸を皮膚ごと突き破っている。
痛い。 いたい 痛い
息を荒々しく漏らしながら、痒みにも似たこの苦痛を終わらせようと掻き毟った。
己の意思じゃない。体の反射で勝手に毟ってしまうのだ。
掻き毟り 掻き毟り 掻き毟り 掻き毟り 掻き毟り 掻き毟り 掻 き毟り 掻き毟り 掻き毟り 掻き毟り 掻き毟り 掻き毟り
そのせいで どれだけ苦痛が増殖しようが長引こうが。体が勝手に に
痛 に
に 痛
よ
「――――」
気絶しそうなミナトを嗤いながら、ゆっくりと右太腿に尻尾を巻き付けていく。
そして一気に引き寄せ ミナトを逆さまに吊るし上げた。
「ぁ」
足から伝わる鱗の冷たさ 体の所々から流れてくる生暖かさ。
それらを感じながら、自分はこの尾で叩き飛ばされたのだと理解した。
「 ぅ うぅっ う 」
――逆さまとなった体が震えてくる。
自身の血に濡れた歯はカチカチと鳴り止まず、赤く汚れる涙は逆巻き滴り落ちる。
それはまるで血抜きの様に、しとしとと血溜まりを広げていくだけだった。
「し しにた 、 死にぬ にぁ ぁあ っ じにたふないぅあ ぁあ っ! !! 」
千切れかけた舌から鮮血を流しながら叫ぶ。
だが、そんな生きたい 逃げたいという願いとは裏腹にどんどんと体に力が入らなくなっていく。
「 ひ ぃ ひ ひ ぃい いっ い いぃ い」
それでも、それでも必死に、滑稽だろうとも、ミナトは残りの力を振り絞った。
右太腿に絡められた、まるで丸太の様な太さの尻尾を掴みながら。
――だが、キメラはその足掻きすら軽く嘲笑ったのだ。
その場で回転し、勢いを付けてミナトを投げ飛ばす。
そのままミナトは頭から壁に激突し、ペギっと乾いた音が大きく鳴り響いた後、それ以降動く事はなかった。
完全にもて遊ばれている。
あの死者達も挙句 殺されたのであろう。
一通り 野生特有の残虐性を存分にひけらかして満足したのか、ミナトの眼前まで近付くと大口を開けた。
牙と牙の間を伝う粘着質な涎の生臭さが周囲いっぱいに広がっていく。
(父さんと 母さんに――)
眼前に迫る大口。
そして、何度も咳と共に鼻血を逆流させながら最期に想ったのは両親の顔だった。
頭の中がクリアになっていく。
それはきっと この汚れた血と共に、生きる希望と可能性が流れ出ているからであろう。
だがもう、どうでもいい。
本当に後悔だらけの人生だった。本当に、後悔だらけの――。
「ひャ は ハ は 」
狂気的な笑みを浮かべたミナトは、躊躇なく一気に右手の爪を噛み潰すと、それら破片をキメラの目に向かって吹き飛ばした。
当然よろけるキメラの頭に飛び乗り、その左目に自身の腹から引き千切り抜いた肋骨を突き刺す。
同時に両足をキメラの首に精一杯 巻き付け、捻り上げながら、刺さった肋骨に右肘を叩き付けた。
飛び散る鮮血。
その一撃は脳髄にまで瞬時に到達し、我が身に何が起こったのか理解出来ないままキメラが崩れ去る。
――僅か、2秒の出来事であった。