過ぎゆく挿話 泡と滴
――砂漠の隅にある町。
名もないような店がみすぼらしくただ建っており、舗装もされないズタズタの道を通る人間の顔も暗く、どこか儚い。
咲く花も砂塵と鬱屈に塗れて萎れている。
唯一、薄く華やかさを感じさせるのは、歩く人々に生えている獣の耳や牙だろうか。だが、それを抜きにしても幽幽たる町だ。
そして一人、そんな不快さを佇まいだけで払い除ける男が居た。
煌く虹色の目、きめ細かい黄金の髪。腰には、夜明け前の空のように穏やかな青の鞘。
目立つ白の外套を羽織り、孤独に歩く。
「セキター……今、何してるんだよ」
溜め息や憂さと共に吐く言葉はこの町の空気に同化していく。一年前に消えた友人を想っていたからだ。
彼は勅令でこの場所に居る。草原が広がる国から遥々、こんな辺鄙な町まで来たものだ。
しかし、彼にとっては瞬きの一瞬で着いてしまうような距離。実際、五分前に到着したばかりである。
だが超人である彼も、この陰鬱な雰囲気に染まりかけているのか少しくたびれてしまい、どこか座れる場所を探す。
「……あそこ、でいいか」
建物の下にひっそりと設置されてあった、もたれ合う二つの長椅子。
休憩するには十分、落ち着けるには不十分。
長年の土埃が元の色を覆い隠し、雨風で所々に傷や穴が空いていたからだ。
鞘を外した後に男は壊れないよう慎重に座り、殺風景な町並みを見回す。
あと三年もすればこの場所は砂に埋もれていることだろう。ここは感動や思い出などが生まれるようなオアシスではないのだ。
そして一人、町から漂う不快さを重苦しい雰囲気で抱え込む誰かが背後の長椅子に座った。
濃い煙草の香りと黒煙が辺りに砂煙と漂う。
「――――」
疑問。動揺。怒り。どの感情を出せば正解なのか。だが今は振り返るしかない。
その手を掴み、その顔に向かって言葉をぶつける決心を、男はした。
「セキター……! お前どこに」
「――振り向くな。そのままでいてくれ」
相手の低く嗄れた声。
男の記憶の中には存在しない声であったが、間違いなく友人の、あの優しさを感じさせる声であった。しかし程遠い。
男は振り返ろうとしていたが、前を向き直した。恐ろしくなってしまったのだ。
その声のように友人の顔が見る影もなく窶れていたら、もし、していれば。
相手は黒煙を吐き、酒を呷った。そしてポツリポツリと話し始める。
「……この世には人間、そして人間に斉しい者達が無数に存在している。その中には才能のある者も居て、無い者も居る」
男は目を強く瞑り、耳を澄ます。
せめてもの償い。もしくは、相手の姿を目にしたくなかったのかもしれない。
ただ、拳を握る力が強くなったのは確かだ。相手は黒煙を吐く。
「歴史に残れるのは本当にごく僅かの天才で、かつ恵まれた者達。――そして俺は、その中には居ない」
最後の一言で男の鳥肌が立つ。あまりにも、負の感情が溢れ出していたからだ。
未だその真意を推測することも、察することもできない。
だが、ただ、相手の瞳が酷く歪み始めたことだけは理解していた。
「確かに、この時代の中では俺は名の知れた人間だ。今までに俺が立てた功績を知らない者は存在しないだろう」
相手は流れそうな涙の代わりに黒煙を吐き、減った酸素を呷る酒で補完した。
「だがそれは、あの国の中と一部の民衆にだけに通じる話だ。少し外に出てみれば俺のことなんて全く知らない人間の方が多い」
相手は酷く自虐的に言う。
そしてより一層、この町の暗さを塗り替えてしまうほどの陰鬱が漂った。
「俺が死ねば、ゆっくりと何もかも、消えていく」
儚く、弱々しく呟いた言葉は、そうして黒煙や砂塵と共に流れていってしまった。
「怖いんだ。残す遺すなど、後のことを考えて死ねる勇気は俺には無いんだ死にたくないんだ、そして、――忘れられたくないんだ」
相手は、溢れ出す生命力と恐怖を流し押し込むように、酒瓶を呷る。
「俺のことを想ってくれる情人も、身を削って世話をしてくれた両親も、応援してくれる恩人も絶え果てた後、何が残る? 孤独しか残らない」
相手は震えている。中に入っている酒が瓶を叩く音が規則的に響く。
頭の中に浮かんだ何もかもを、全て言語化して話しているのだろう。
「そしてついに死が訪れた時、誰が俺の手を引いてくれる? 死んで忘れられて、積み重ねたものは日陰で崩れ去って。――いつの時代か、この世から完全に己という情報が消去されてしまう。死後の世界があるかどうか分からない今、それがたまらなく、怖い」
瓶の中に閉じ込められている酒を溢しながらでも飲み、溺れるように煙を肺に詰め込む。
「歴史書には載らず、死ねば腐る脳などという、馬鹿馬鹿しい、曖昧な物体が作り出した記憶には絶対に頼れない。――最後には消えてしまうのなら何もしなければ良かった。失う悲しみも、失っていく恐怖も、得た時の喜びを思い出して苦しむ事もなかった」
嘲笑が混じったかと思えば、また嘆き。正直、正常な精神状態ではなかった。
男は何度か声をかけようとしたが、あまりに変わり果てた声と切羽詰まった内容に言葉が詰まり、ついには黙り込んでしまう。
男は相手の姿を知れない、見ることができない。相手は男の様子を知らない、見ていない。
「死ぬからどうでもいい、死んだ後の事なんか興味無い、などという考えは俺にとって侮蔑に等しい。何故誰も死後の事を考えない? 何故笑っていられる? どいつもこいつももっと恐れるべきなのだ」
一言一言に怒りが含まれている。やるせない怒りだろう。
肉と魂で構成されている以上、死からは免れないことは誰もが理解しきっている。
故に明日を慄き、嘆き、苦しむべきなのだ。
そして死後を想い、遺言や墓などの自分が生きていたという事実を可視化する為に腐心しながら没頭するべきなのだ。
――しかし、最期まで笑っている。
挙げ句の果てには安らかに逝けたらいいなどと語る。
全員がそうではないことは理解しているが、それでも相手はその呑気に似た思考が理解できないのだ。
その謎を抱きながら、男に問いかける。
「なぁ、教えてくれバルガス。俺は、俺は何のためにここまで戦ってきたんだ? 何のために、努力してきたんだ? 俺には無いもの全てを持つお前なら。……何か、何か」
縋る。嘘でもいい。狂言でもいい。幼少期から心を許し合っていた間柄なら、真実でなくてもいいのだ。ただ答えが欲しい。
男は言葉を選びながら、途切れ途切れに答える。風が吹いた。
「僕は……僕は満足するために生まれてきて、満足して死んでいく。沢山の家族に囲まれて、恩人と両親の顔を思い返し、死んでいく。そして僕が遺す全ては、この世界にずっと留まり続けるのだろう」
失う重さ、大きさ、愛情。男の人生は相手の人生とはまるで違う。
男は、歴史に残る人物だからだ。この星が寿命を迎えるまで、人々の記憶に留まり続ける。
だからこそ、その視点で語れることがあると信じているのだ。
しかし、本当に伝えたい事は別にある。
「だけど、だけどさ。忘れられていったものは無くならない。崩れ去らない。それが、人だから」
――不滅。それが男の答えだった。
「確かに此の先、誰の記憶にも残っていないかもしれない。でも確かなことは、その透明な礎のおかげで僕らは生きていけるということなんだ。――人は、永遠に前に進んでいけるんだよ」
最後の一言で相手の魂は揺さぶられた。輝かしい程、正の感情が満ちていたからだ。根本的な問題は解決も精算もできていないかもしれない。しかし、既に、己の心に固く誓った。
「――永遠、か」
まだ中身が残っている酒瓶の中に吸い殻を放り込む。
一瞬鳴った、火の消える音が立ち去る合図であった。長椅子を軋ませながら立ち上がり、その場を離れていく。
男は未だ振り返られずにいる。
あんな大それた事を話しておきながら、なんという体たらくであるのだろうか。
恥じる。只管に。長距離を一瞬で移動することを可能にしながら、この一瞬を誰よりも恐れている。
そしてついに、親友の姿を拝むことはなかったのだ。
「――――」
その顔は窶れていた。擦り切れた黒の外套を羽織っていたのを、この町の民衆は見た。
――今、風は吹いたのだ。
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「俺は、永遠に前を進む」
褐色の肌、地獄の火焔のような紅目、糸のように長い銀髪、白黒のローブ。
そして、決意と自信に満ちた顔をした長身の男を、それぞれ豪華な椅子に座る着飾った醜い豚共が見下ろす。
周りにはそれらを守るように精鋭達が立っており、男の一挙手一投足を見逃すまいと睨んでいた。
「ん? なんだね、何か言ったのか?」
雑言か靡かす為にしか使わない口を開いた。根底に軽蔑が存在しているような言い方だ。
この蛆虫共はすぐ腐敗しかけた何かに群がり喰い尽くす。
だが、腐敗しかけていた男は立ち上がった。あの日あの場所で、蘇ったのだ。
「あぁ言ったさ。俺はもうお前らの傀儡でも、道具でもない。――今日限りで終いだ。クズ共」
「――っ!? なっ、なんという無礼っ! 貴様何のつもりだぁっ!」
相手側の滑稽な反応を見ながら、男は失望に近い笑いが出そうになった。今までこんな奴らに従えていたとは、とんだ馬鹿話だ。
最後に堂々と宣言することにしよう。もう後に引くことは、ないのだから。
「俺は。いや、――私は自我を突き通す。もう二度と己を曲げることは無い。 ……他でもない君と、お前が言ってくれたことだから」
最後の一言は、騒音に混じって誰の耳にも届かなかった。
瞬間、男の周辺が不自然に暗くなり、そこに無数の星座のような紋章が浮かび上がる。
「――っ! 殺せ!! 今すぐに!」
精鋭達の一人が叫ぶ。しかし、誰にも止められない。
「天星龍火群」
男の言葉に応じた死の流星群は、この国の薄暗い天と地を紫色に輝き照らしながら覆い尽くす。
――破滅。それが アンダレン・セキター の答えだった。




