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私的近代兵器史話  作者: NM級
2:大砲の革新~炸裂弾の導入
9/23

第九話 その5(実戦投入 クリミアの苦闘)

今回も艦名や地名はアルファベット表記、またロシア国内での出来事が中心となりますが、日付はグレゴリオ暦を使用します。

あと長いです。

 前回に引き続きシェルガンの使用例を紹介すると言う事で、今回は英仏など列強海軍で制式採用が始まった1830年代後半以降の例を扱っていきます。

 タイトルにある通り、シェルガンとその炸裂弾の評価はクリミア戦争(1853-56年)での実戦投入にて大きく変化する事になりますが、前回のカルテリア以降にこれを使用した戦いが全くなかったと言う訳ではありません。まずはその例を推測多めですが紹介したいと思います。


・カルテリア以降、クリミア以前の使用例

 最初は独立以降も混乱期が続くメキシコで使用された事が確認できます。

 

 まず1838年、内戦時の居留外国人に対する賠償問題が発展して、フランスとの間に戦争が勃発(菓子戦争)。11月27日にフランスの艦隊が港湾都市ベラクルスVeracruzと、それを守るサン・フアン・デ・ウルアSan Juan de Ulúa要塞を攻撃しました。

 この戦いで陸上砲撃を本職とする臼砲艦2隻に加え、ペクサン砲を搭載したフリゲート3隻、コルベット1隻からなる艦隊は、3時間程の戦闘で要塞を無力化してしまいます。

 艦艇と要塞が撃ち合えば、後者が有利というのは普通にこの時代も変わらないので、かなり驚くべき戦果と言えるでしょう。ただしこの要因は艦隊側が優れていたからというよりは、要塞側の練度や兵器の管理に問題があった面が大きいようです。

 また炸裂弾による陸上砲撃も、この戦いにも参加したような臼砲艦が以前より行っていたので目新しい事ではなく、ペクサン砲自体の威力を証明する良い機会とはなりません。むしろこの戦いで注目されたのは、陸地近くでも風向きを気にせずに動ける蒸気軍艦の能力でした。


 次に1843年、ユカタン共和国として独立を宣言した地域との間で勃発した争いで使用例があったようです。メキシコ軍はユカタン側の主要都市カンペチェCampecheに海上封鎖を仕掛けますが、この主力を担った蒸気軍艦「グアダルーペGuadalupe」は英国製で、8インチシェルガンを主兵装とするフリゲートでした。それに対して当時協力関係にあったテキサス共和国(38年メキシコより独立)の艦艇2隻が封鎖突破を狙い、「カンペチェの海戦」が勃発します。


 この戦いに関しては正直な所、資料が乏しいので不確かな部分が多いのですが、双方ともにかなりの損傷を受けるも沈没した艦は出ず、そして海上封鎖が解除されたので、ユカタン側が勝利した形となるようです。するとメキシコ側はシェルガンと蒸気船を有しながら、その優位を生かせなかった海戦という事になるので、これまた有効性を証明する機会にはならなかったのでしょう。


 そして最後に1846年、テキサス併合をきっかけに米墨戦争が勃発します。ここで米海軍のマシュー・ペリー准将は自ら整備した蒸気フリゲート「ミシシッピ」をはじめとする艦隊を指揮。再び攻撃の対象になったベラクルスへの上陸支援などを行いました。

 その際に炸裂弾は確実に使用されたものと思われますが、水上戦闘に関してはベラクルス攻防に関連して一回だけ起こっているものの、そこで使用されたかは定かではありません。


 舞台を欧州に移してみると、1849年、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争のエッカーンフェルデEckernfördの戦いで使用されたとの記録も存在します。

 デンマークの戦列艦「クリスチャン八世Christian VIII」が陸上砲台との交戦で炎上爆沈したこの戦いで、砲台の中に20cmシェルガンが一門あったとされています。ただ同艦を炎上させたのは18ポンド砲から放たれた赤熱弾の効果で、炸裂弾が果たした役割は大きいものではなかったようです。


 以上見てきたように、この時期の実戦投入に関してはややパッとしない結果が多く、その潜在能力に比べるとあまり注目されていなかった面があったと考えられます。


 ここからは本題として、クリミア戦争について。

 元々は17世紀以降幾度となく衝突してきたロシア帝国とオスマン帝国の間で起こった戦争ながらも、留まる所を知らないオスマンの弱体化とロシアの拡張に対して、英国で根付いていたロシア脅威論が爆発。さらにフランスもロシアとはエルサレムの管轄権を巡って対立しており、自国の国際的な地位を高める機会であった事から英国に協力。久々となる列強同士の直接対決に発展します。


 この時期(19世紀中頃)の戦争は、近代戦への過渡期的な段階にあるというのが一つの特徴と言えるでしょう。それは個人の武勇が尊ばれる、ある意味古き良き戦争から、互いの工業力・科学力に支えられた大量殺戮の時代へと転換していく事を意味します。

 その流れの中では、様々な兵器や技術が初めて、もしくはこれまでにない規模で導入される事になり、クリミアの場合はライフル銃(ミニエー銃)や電信、水雷、鉄道や蒸気船による兵員や物資の輸送等を挙げる事が出来ます。そしてシェルガンも、大規模使用という形で新たに導入された兵器の一つでした。

 

 その分紹介する戦いの例も多いのですが、始めに特に大きな影響を与えた例として、53年のシノープの海戦と54年のセヴァストポリ攻撃の二つを紹介していきます。


シノープの海戦

 英仏の参戦前に起こったこの海戦は、53年11月30日、カフカス地域の反ロシア運動支援にシノープ港に集結したオスマン艦隊に対して、これを察知したロシア黒海艦隊が急襲を加えて発生しました。


 双方の戦力を見ると、オスマン海軍は22門から64門の砲を持つフリゲート7隻(過半数は40門以上の大型フリゲート。また64門艦は実質小型戦列艦に相当すると思われます)を主力とし、その他戦力はコルベット2隻、スループ1隻、蒸気軍艦2隻、輸送船2隻の計14隻。さらに港は小規模ながら五か所の砲台が存在しました。

 それに対してナヒーモフ提督率いるロシア側は、84門から120門の戦列艦6隻(その内3隻が最大級の120門艦)が攻撃を行い、フリゲート2隻と蒸気軍艦3隻が追撃用に控える形を取ります。


 フリゲートと戦列艦が撃ち合えば後者が圧倒的に優位なのは言うまでもなく、さらに前者は艦艇・砲台共に24ポンド砲が最大であったのに対して、後者は36ポンドカノン砲を中心に、68並びに36ポンドシェルガンが加わると言う風に、火力では門数以上の大きな隔たりがありました。

 おそらく実体弾で撃ち合っても、ナヴァリノよろしくオスマン側の大敗は避けられなかったと考えられますが、ロシア側のみ炸裂弾を使用した事で戦闘は一層悲惨な物となります。


 霧に紛れ接近したナヒーモフの艦隊は、オスマン側から距離500ヤード程の地点に投錨して砲撃を開始。すると五分あまりで砲台の一つを沈黙させると、その直後にフリゲート一隻を爆沈させ、さらに十分後にはもう一隻も同じ運命に追いやります。他の艦も1時間あまりの間に殆ど反撃できない状態に追い込こまれると、その後はナヒーモフ艦隊の一方的な攻撃が行われました。


 戦闘の結果はというと、イギリス人軍事顧問アドルファス・スレードを乗せた蒸気軍艦「タイフTaif」が脱出に成功したのを除いて、残りの13隻は焼失するか鹵獲後に処分され壊滅。戦死者の数はオスマン側が2700人にも達する一方で、ロシア側は一隻も失わずに、死者34人に留まっています。

一部の間では「オスマンは英国を戦争に引き込む為にわざと艦隊を犠牲にしたのでは」と真珠湾の陰謀論みたいな言説すら出てくるほどの完勝でした。


 そしてこの「シノープの海戦」こそ、列強海軍の間で初めてシェルガンを大規模に用いた水上戦闘であり、木造軍艦に対する効果をついに証明した決定的な海戦となるのです。


 なおオスマンの狙い通りだったのかは不明ですが、この海戦は兵器に負けない勢いで成長していたメディアにとって恰好のネタでもありました。

 あまりにも一方的な結果に加え、艦隊以外にも市街地への攻撃が行われた事、そして当時の戦争では普通に起こり得た事とは言え、海中の兵士や救命ボートにも容赦なく攻撃が行われた事から、各メディアは「シノープの虐殺」と題してセンセーショナルに海戦の様相を報じました。結果として英国の世論は対露強硬論に大きく傾き、参戦の一因となっていきます。



セヴァストポリ攻撃(54年10月17日)

 英仏が参戦を表明した54年3月時点の戦局において、主な戦場は黒海西岸のドナウ川流域でした。この地に進軍したロシア軍は現地のスラブ系正教徒の蜂起を促しつつ南下するも、オスマンの奮戦により戦線は膠着。そこに参戦した英仏軍の上陸や、自国のスラブ系住人への影響を恐れた隣国オーストリアの敵対姿勢などが重なった結果、ロシア軍は同年7月には撤退してしまいます。

 これでロシアの南下は阻止された事になるのですが、ロシア軍相手に明確な勝利を得ていない英仏からすると、戦争を終わらせるにはあまりにも消化不良、つまり勝利を示すのに十分な戦果が必要とされました。そこで浮上したのが、黒海艦隊の母港でもあるクリミア半島セヴァストポリSevastopolの攻略でした。


 6万を超える英仏連合軍は9月13日に上陸すると、20日にはアルマ川でロシア軍を打ち破り、早期にセヴァストポリとそれを守る要塞群を攻略する機会を掴んでいました。しかしその際にはやや慎重な手段を採った結果、攻撃は遅延。最初の総攻撃は同年の10月17日に行われます。

 その日には両海軍の連合艦隊も砲撃を実施。陸上での戦闘開始より遅れて、正午から6時間あまりの間、海側の要塞群との戦闘が行われています。


 この時の戦力を見ると、まずイギリス海軍は戦列艦10隻(内2隻が蒸気推進)とその他艦艇12隻(内10隻が蒸気推進で、主に帆走戦列艦を曳航する役割を担った)。フランス海軍は戦列艦14隻(蒸気推進4隻)、その他艦艇8隻(すべて蒸気推進)。各艦の門数を合計すると大体2500門強と、殆どが反対方向に打てない舷側砲とはいえ、一方向に1200門以上の火力を有する事になります。


 しかし、連合艦隊はこの攻撃で5万発以上の砲弾を消費しながらも、要塞に殆ど損害を与える事が出来ず、攻撃は失敗に終わっています。

 原因は複数ありますが、まず大きかったのは戦力配置の問題で、戦力の大多数を占める20隻の戦列艦は各要塞から2000から1500ヤード程の距離で投錨して攻撃を行いました。この程度の距離だと自艦が被弾する確率は下がるものの、当然こちらの命中弾も少なくなります。加えてこの距離では、厚い石壁や土塁に守られた陣地に対しては炸裂弾実体弾ともに威力不足になってしまったのです。(このクラスの防御陣地を破壊するには、艦砲でも400ヤード程まで接近する必要があると判断されています)

 そして残りの4隻からなる別働隊は800ヤードと接近するも、こちらも十分な距離とは言えません。

 なお、より接近して砲撃を行うのは敵からの砲火が増す上に、黒海艦隊が一部の艦艇を自沈させて港の入り口を閉塞していたので物理的に難しい面がありました。


 また要塞側の大砲によって艦隊が受けた被害を見ると、こちらは炸裂弾並びに赤熱弾による被害が目立つ形になりました。

 といっても艦隊へ向けられた大砲の数は150門程とあまり多くはなかったので、全体への被害は限られ、特に主力部隊の多くは遠距離に留まった為、一部の帆装や人員に損害が出た程度でした。ただ例外として戦列艦「シャルルマーニュCharlemagne」で大型の炸裂弾(おそらく臼砲弾)が甲板を破って炸裂し、機関の一部が損傷しています。当たり所が悪ければ、被害が火薬庫に達して爆沈していたかもしれません。


 そして主な被害は、やはり近くにいた別働隊に集中します。この部隊は主力より遅れて2時ごろ交戦を開始するも、まずは戦列艦「アルビオンAlbion」が炸裂弾4、5発を受けて3発が艦内で炸裂。炎上しつつ蒸気船に曳かれて戦線を離脱します。続いて随伴する大型フリゲート「アリシューザArethusa」も、舷側の外板七枚を吹き飛ばした大破孔や即応弾置き場の近くに飛び込んだ砲弾(どちらも数メートルずれれば致命傷)などを受けてこれまた離脱。そして戦列艦「ロンドンLondon」も詳細は不明ですが同時期に離脱と、一時間半あまりの戦闘で3隻が戦闘不能になってしまいました。


 残った「アガメムノンAgamemnon」と「サンス・パレイルSans Pareil」の2隻に攻撃が集中するのを防ぐため、主力部隊より英戦列艦が三隻加勢するも、これにも容赦なく砲撃が加えられます。

 まず「クイーンQueen」は赤熱弾が一発飛び込んで早々に離脱、「ロドニーRodney」も途中で座礁した所を攻撃され離脱。結果別働隊に加わったのは「ベレロフォンBellerophon」だけでしたが、同艦を含めた三隻は無事に攻撃に耐えぬいています。

 

 このように英仏艦隊は5隻の大破艦を出しつつも、結局シノープの海戦とは違い撃沈された艦艇は1隻も出ませんでした。直接の被害という意味では、戦列艦「アンリ四世Henri IV」に加え複数の輸送船が沈んだ、11月14日の嵐の方がはるかに大事だったでしょう。

 ただ損傷艦の中には帆装へ少なくない被害を受けた艦もあったので、もし蒸気船による曳航が行われず、攻撃を受け続けていたら戦没艦が出ていてもおかしくはなかったと思われます。また炸裂弾(や赤熱弾)の威力関係なしに、艦隊側の攻撃力不足が攻撃失敗を招いた面が大きいとはいえ、この戦いがその威力を証明する一例である事に違いはないでしょう。


 総攻撃自体は結果として陸上・海上ともに攻撃側が撃退され終わります。これを受けて防御側は英仏の大軍勢を退けたという事実に大いに自信を深め、大幅な増援と要塞の補強を進めて籠城戦を続けていきます。結果として攻撃側は、その後11か月にもわたる攻防で10万を超える死者・病死者の犠牲の元にセヴァストポリを攻略する事になるのです。

 なお55年9月8日より始まった最後の攻撃でも再び艦砲射撃が行われる予定でしたが、直前の大時化で中止となり、前回の汚名をそそぐ機会を逃しています。



その他の陸上砲撃

 クリミア戦争ではセヴァストポリ以外の場所でも陸上砲撃が行われる機会が存在しました。中には結構異なる結果となった戦いもあるので、簡単に紹介したいと思います。


 まず英仏が参戦して間もない54年4月22日、黒海の港湾都市オデッサに対して、英仏は蒸気軍艦7隻を中心とする艦隊により攻撃を行います。 

攻撃は6時間あまり続き、砲台の弾薬庫が一か所爆発。さらに港内にコングリーヴロケットがばらまかれ、複数の船舶が破壊されました。元々の攻撃理由は同港が船舶の引渡しを拒否したからであった為、艦隊側はこれで十分な戦果を得たと判断し撤退しました。


 同港は24ポンドカノン砲の他、48ポンド榴弾砲、96ポンド臼砲など計48門の大砲を有していたものの、強固な要塞ではなく6か所の砲台に置かれただけで、戦闘では英仏のシェルガンによってアウトレンジされ一方的に被害を受ける場面が目立ちました。

 防御側の戦果としてはフランスの「ヴォーバンVauban」に赤熱弾を一発当てて火災を発生させるも、撃沈には至っていません。ただし翌月には、攻撃に参加していた小型フリゲート「タイガー」が近くで座礁していたのを発見して、砲撃により同艦を降伏させる事に成功しています。


 また黒海とは別に、英国主導で行われたバルト海侵攻作戦も例として挙げる事が出来ます。ここで最初に標的となったのがフィンランド沖のオーランド諸島にあるボーマルスンドBomarsund要塞で、54年8月8日より上陸部隊1万を含む戦力により攻撃が行われました。

 この要塞は62門の大砲を有する石造りの主郭に加え、北と南西に独立した石塔を有しており、そこが主な攻撃の対象となりました。艦隊からの支援を受けた上陸部隊は13日には陸揚げした艦砲を距離400ヤード程の場所に設置し、それから二日の間に集中攻撃で塔を二つとも放棄に追い込みます。

 残る主郭の石壁は十分に砲弾の被害を防いでいたものの、孤立無援となったので翌日に降伏。結局歩兵による突撃を行うことなく攻略に成功しています。


 この二つの戦いでは、英仏の陸上砲撃はロシア砲台をアウトレンジし、少ない被害で任務を達成する事を証明しましたが、同時に遠距離では石造りの堅固な陣地に対してあまり効果がないという、その後に行われるセヴァストポリ攻撃でも強調される戦訓が先取りされています。


 最後に紹介するのは、55年8月にヘルシンキの目の前にあるスヴェアボルグSveaborg要塞、現スオメンリナSuomenlinnaへ行われた攻撃作戦です。

(これ以降にもキンブルン攻撃が存在しますが、登場兵器の都合で次回に回します)

 同地はセヴァストポリにも負けない規模の火砲で防御されていたものの、英仏連合軍はこれまでの戦訓を生かした攻撃を試みます。


 攻撃部隊はセヴァストポリの時と同じく、遠距離の主力部隊と近距離の別働隊からなるものですが、主力部隊はさらに距離を取り、3km程の位置から砲撃。構成も戦列艦やフリゲートだけでなく、臼砲艦21隻が戦力の中心となります。さらに被害の出やすい別働隊では新兵器を導入、浅瀬でも活動しやすく被弾し辛い小型の船体に大口径砲を少数搭載する蒸気軍艦、俗に「クリミア砲艦」と呼ばれる砲艦16隻が戦列艦に代わって配置されました。


 この艦隊は8月9日の午前中から2日に渡り2万3千発の砲弾を発射、目標の市街地や複数の弾薬庫などに甚大な被害を与えて撤退します。実際は要塞には殆ど被害を与える事はできず、その意味では効果は限られたのですが、英仏側の損害がほぼゼロだった点は大きな進歩と言えるでしょう。(砲艦に弾薬供給を行う艦に命中弾があり、あわやという場面はありましたが)

 基本的にロシア側の砲台は終始アウトレンジされるか、動き回る砲艦に命中弾を与える事ができず一方的に攻撃される形になりました。


 なおバルト海作戦は進行していれば、クロンシュタット軍港を落としてサンクトペテルブルグを脅かす事が目的となりますが、セヴァストポリ以上の大要塞に水雷の敷設まで行った同港を落とすのはまず不可能だと判断され、戦争中に実行されることはありませんでした。





まとめ

 いつも通りとは言え散らかった紹介なってしまったので、一応最後にまとめておきたいと思います。


 クリミア戦争は炸裂弾を撃ち出す平射砲が大規模に用いられた最初の戦争であり、シノープの海戦でのトルコ艦隊、そして赤熱弾との併用とは言えセヴァストポリの英仏艦隊が受けた被害から、木造船に対して絶大な威力を持つ事が全面的に受け入れられる事になります。

 ただし英仏の参戦後はロシア海軍が引きこもって艦隊決戦が発生しなかった事もあり、水上戦闘で直接撃沈された艦艇は大型フリゲートまでに限られ、戦列艦が撃沈されるような事はありませんでした。

(さらに言うと、今後の戦争では戦列艦自体の出番が限られる為、実はこれ以降も炸裂弾によって撃沈された艦は存在しないままになるのです)


 そしてこれも艦隊決戦が起こらなかった点が影響していますが、この戦争では海軍の主力である戦列艦の活動は限られ、より小型の艦艇の方が陸上砲撃など精力的に活動し、戦果を挙げていた面があります。英仏海軍ではオデッサ砲撃やセヴァストポリの戦列艦救援、そしてスヴェアボルグやアゾフ海作戦でのクリミア砲艦の活躍などを挙げる事ができ、ロシア側も今回取り上げなかったフリゲート「ウラジーミルVladimir」の活躍が知られています。

 炸裂弾の時代には、蒸気推進の小型艦が戦力の中心となる。そんなペクサン大佐が予想した未来の海戦像に、比較的近いものになっていたと言えるのではないでしょうか。


 ただしこの時期を境に戦列艦が衰退していく事は確定したものの、そのまま海軍戦力が小型艦中心にシフトしていく事はありませんでした。科学技術の進歩は炸裂弾を以って攻撃側の能力を大きく向上させましたが、同じく防御側も進歩する段階に来ていたのです。

 その進歩とは、敵弾を弾き返す装甲を持った艦艇を生み出す事でした。

 

 という事で次回は大砲から離れて、クリミア戦争でも一部で導入された、艦艇用の装甲に関連する実験や戦闘について話していきたいと思います。




主な参考文献

オーランド・ファイジズ 染谷徹訳『クリミア戦争』上下巻 白水社 2015年

Howard Douglas, A Treatise on Naval Gunnery fifth edition, 1860

John Dahlgren, Shells and Shell-Gun, 1856

William Jerningham, Remark on the Means of Directing the Fire of Ship's Broadside, 1851


今回も読んで下さりありがとうございました。質問や指摘などは気軽に送ってもらえると嬉しいです。

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