第八話 その4(実戦投入 ヘイスティングス艦長と蒸気軍艦カルテリア)
今回は重量級です。あとギリシャ語の艦名や地名が出てきますが、都合によりカッコ内は英語アルファベット表記になります。
前回まで扱った実験と導入に続いて、今回より実戦投入された例を見ていきます。
各国がシェルガンを採用するのは1830年代後半からですが、実は最初に水上戦闘で炸裂弾を有効活用した例となると、これも大分前にまで遡る事が出来ます。
その使用者は、ペクサンの研究と同時期に勃発したギリシャ独立戦争(1821-1832)で活躍した「カルテリアKarteria」という蒸気軍艦でした。今回は日本国内で情報が殆ど無いこの艦について、調べた分を紹介してみようかと思います。
独立戦争と新兵器
ギリシャは15世紀より強大なオスマン帝国により支配されていましたが、その支配体制は同国の弱体化と共に揺らぎ、フランス革命をきっかけに広まったナショナリズムの高揚によって独立運動が激化、1821年より戦争状態へ突入します。
この争いは当時のヨーロッパ諸国、特に伝統的に南方進出を望むロシアにとって影響力を拡大する機会であったものの、ナポレオン戦争後のウィーン体制は民族運動を押さえつける立場にあったのに加え、現状のパワーバランスを保ちたい他国の思惑が絡み合った結果、目立った干渉も行われずに戦争は継続していきました。
そんな国家の動きとは関係なしに、この戦争では多数のヨーロッパ人が義勇兵として参加した事でも知られています。
西洋文明の源流たるこの地に独立国を築くという高尚な思想に惹かれた者、戦争により母国が得る利益を第一に考える者、単に新天地で名を上げたい腕自慢などが集まる中、カルテリアの生みの親にして艦長を務める、元イギリス海軍海尉のフランク・ヘイスティングスFrank Hastings(図1)も戦争に身を投じていきます。
バルカン半島南部と周辺の島々を舞台に行われた独立戦争において、海上での優位が必要不可欠である事は明らかでした。しかしそれは同時に、軍艦と呼べるまともな艦艇を持たないギリシャにとっては不利な場所でもあります。
それでも彼らは地理的に優れた船乗りには恵まれていた事から、初期の戦闘では果敢にも火船攻撃を武器にオスマンの艦隊に挑戦します。その結果、1821年には1隻、翌22年には2隻の戦列艦を破壊するなど、かなりの戦果を挙げていました。
しかしヘイスティングスは、あくまで奇策である火船攻撃が通用する期間は長くないと予想しており、オスマン海軍が持たないような新戦力の獲得を構想します。
その新戦力とは、小型で強力な火力と機動力を有する艦艇 ―具体的に言えば、赤熱弾と炸裂弾を使用する蒸気軍艦― という、7話で紹介したペクサン大佐が考える次世代の艦艇に近い物だったのです。
蒸気船については前回さらっと流してしまったので、ここで簡単に補足します。
蒸気機関を用いた船の研究はニューコメンやワッツの発明後から試作レベルで行われていましたが、19世紀に入ってからは一気に実用性を増していました。例としてアメリカでは1807年にロバート・フルトンの「クラーモント」がハドソン川で、翌年にはジョン・スティーブンスの「フェニックス」がデェラウェア川で定期航行を開始し、1819年には「サヴァンナ」が大部分を帆走に頼りつつも大西洋横断に成功しています。
そして軍用艦艇への応用もこの時期から研究され、1812年より米英戦争の開戦を受けフルトンが建造した「デモロゴスDemologos」をはじめとして、英国の「コメットComet、22年」、チリ独立戦争で用いられる予定だった「ライジングスターRising star、21年」など少数ながら建造されていきます。
そして1824年には、イギリスのアルジェ攻撃における「ライトニングLightning」や、イギリス・ビルマ戦争における東インド会社の「ダイナアDiana」が、戦闘中に味方艦を曳航する役割で実戦に参加していました。ただし自ら直接敵艦との戦闘を行った蒸気軍艦はこの時点では存在せず、その真価を発揮する機会はまだ来ていなかったのです。
ヘイスティングスは実際に火船の効果が鈍りだした1823年、義勇兵の中でも影響力を持つ詩人のバイロン卿へ考えを伝えます。その際には鼻で笑われたものの、後に認められて、イギリスの造船所で一隻の蒸気軍艦を建造する事が決定されました。
最初にパーセヴェランスPerseverance(忍耐)と名付けられたこの艦は、のちにギリシャ語で同じ意味を持つ「カルテリア」として就役します。
カルテリア(図2右)
当然の事ながら、新兵器である本艦はこれまでの艦種にとらわれない特徴をいくつか持っています。
まずは第一の特徴といえば、当然蒸気機関で舷側の外輪を回して航行する蒸気船である事でしょう。ただし汽走のみの場合最大速力は6ノットと、風向き関係なしに進める利点があったとはいえ正直遅く、厳密には帆と併用もしくは帆のみで航行する事が多い汽帆船でした。
本艦の帆は4本のマストに縦帆を設けたもので、こう言った形式の帆をスクーナーと言い、通常の帆装軍艦では主に伝令や偵察などを行う小型で軽快な艦艇に使われる事の多い形式です。
一方で本艦はそれらの艦よりもだいぶ大きく(全長38.4m全幅7.6m)、古い計算法による総トン数(BMトン)は400トンになります。といってもフリゲートよりは小さいので、帆船であればスループ※もしくはその2つの艦種の中間であるコルベット相当となります。
※スループの意味には艦種名と帆の形式の2つがありますが、この場合フリゲートよりも小型で10数門の大砲を持つ補助艦艇、という前者の意味です。こちらの帆はマスト3本に横帆を設けたシップ型と呼ばれる物でしたが、同規模の艦でマスト2本に横帆を持つ場合はブリッグ(Brig)と呼ばれました。
ただ初期の蒸気軍艦は船体サイズと砲門数の割合が帆装軍艦と大きく違う事もあり、分類しづらい艦も結構存在していました。そのせいか大型艦以外は、単に蒸気軍艦(steamer)と呼ばれる事も多かったようです。
兵装も特徴的で、本艦は船体のサイズに反して僅かに8門しか大砲を積んでいません。
これは図2で分かる通り外輪が邪魔だったという点もありますが、威力の高い砲弾を使用するので門数は必要なく、むしろ少ない方が士官の目が行き届いて事故を減らせるので都合がよかったのです。
また8門とも当時の艦載砲では最大サイズ68ポンド砲弾を使用と、とにかく一発の威力に最大限特化した形になります。
なお8門の砲の内、4門は当時のイギリス海軍で使用されたカロネードであり※、残りの4門はオリジナルのシェルガンとなります。後者は重量58cwtと、後に英海軍で採用されたシェルガンと比べると軽く砲身が短いもので、ヘイスティングス曰くペクサン大佐の著作を読む機会があり、それを参考に自ら設計した物だそうです。
※第五話ではカロネードが水上戦で炸裂弾を使ったか定かでないと書いたじゃないか、と思われるかもしれません。一応言い訳しますと、あの文章はペクサン砲の登場以前の例を紹介した物なので、時代的に載せる必要はないと判断しました。
使用砲弾は主に炸裂弾、カーカス、赤熱弾(機関のボイラーが炉を兼用)といった焼夷効果を持つ砲弾が中心で、ほかに対人用のブドウ弾なども搭載していていました。
炸裂弾はサボット付きで使用する予定が現地に届かず、試行錯誤の末にサボットなしで注意深く装填する方法が取られました。
この大砲は両者とも4ポンドの発射薬を使用し、炸裂弾を使用した場合の最大射程は2500ヤード程です。ただし訓練時には発射時の衝撃で信管が抜け落ちて不発になる事が相次いだため、現地で革製のバンドを信管に取りつけて対策としました。これにより最大10ポンドの強装薬での発射にも耐えられるようになっています。
こういった事前の対策や訓練などを経た結果、カルテリアは戦場で多数の炸裂弾を使用しつつも、一度の事故も起こすことなく戦い抜き、その有効性を証明する事になるのです。次はその艦歴を見ていきましょう。
配備と戦歴
1826年5月に完成した本艦は、回航中にボイラー事故を起こして戦力化は遅れたものの、無事9月に引き渡されます。
なお建造中には南米の独立戦争で名声を得ていたイギリス人トマス・コクランThomas Cochrane(近代艦艇に興味のある人にとっては、アルミランテ・コクレーンという名前の方が有名かもしれません)が独立戦争に参加する事になっていました。
彼は先述した「ライジングスター」を計画した本人だけあって、蒸気軍艦に大きな興味を持ち、さらに5隻の整備を計画するも、完成したのは2隻のみでした。そしてその2隻にせよ戦局に影響する時期を逸しており、戦費を浪費するだけに終わっています。
一方でカルテリアが建造されて戦力として加わるまでの間、戦局はかなり厳しい方向に傾き始めていました。
まず25年までには独立勢力内で内ゲバが横行していたのに対して、オスマン側は24年7月に属州エジプトを味方に引きこんで反撃に出ます。
これにギリシャ側は局地的な勝利こそ重ねるも、その侵攻自体を止めるには至らず、重要な拠点であったメソロンギ(Missolonghi)が陥落、アテネも包囲されるなど、コリント(Corinth)湾(レパント湾とも)以北を制圧されるという事態に陥っていました。
まず初陣は1827年2月11日、アテネ解放のため近郊の港湾都市ピレウス(Piraeus)を攻撃する陸上部隊の支援を行うも、作戦は失敗します。
この際にカルテリアは陸上の18ポンド榴弾砲からの砲撃を受けて撤退しており、木造船は炸裂弾に弱いという事を自ら証明する形に終わりました。
以降のギリシャ海軍は本格的に指揮を取り始めたコクランの戦略に従って、主に敵の物資集積地を攻撃、補給線を乱して敵の弱体化を図る為に奔走します。
まず標的となったのはオロプス(Oropos)で、本艦に加えもう一隻の主力である米国製のフリゲート「ヘラスHellas」(図2左奥)とブリッグ一隻の三隻からなる戦隊がこれに当たります。
この戦いで他艦は1マイル程度の距離をとって攻撃を開始したのに対して、風に逆らえる分座礁の心配が無い本艦は至近距離まで接近。砲撃で弾薬庫を爆発させて砲台を制圧した上に、停泊する輸送船2隻を捕獲すると言う初戦果を挙げています。
次にカルテリアはさらに北のヴォロス(Volos)を目標とし、4月20日コルベットを含む僚艦4隻と共にこれを攻撃、弾薬庫の破壊には失敗するも全砲台を沈黙させ、8隻いた輸送船の内5隻を捕獲し、残りの3隻の破壊に成功します。
なおヘイスティングスにとってはヴォロスの敵艦艇も目標の一つでしたが、会敵することなく帰路につきます。すると幸運にも、途中トリケリ(Trikeri)にて大型のブリッグとスクーナー3隻を確認。あわよくば捕獲をと夜間にボートで接近するも気づかれて失敗してしまい、翌日に改めて戦闘を行いました。これが蒸気軍艦による史上初の対艦戦闘という事になります。
ここでカルテリアがとったのは慎重な戦法で、敵のブリッグならびに砲台の射程外で赤熱弾を用意しつつ、距離を詰めて砲撃と離脱を繰り返し、敵が火災を起こすのを待ちました。
そして30分程で敵艦に煙が上がったのを確認すると、一気に距離を詰めて炸裂弾とブドウ弾による猛烈な砲撃を加えます。炸裂弾の命中と共に敵艦上では海に飛び込む兵士が出始め、その後爆沈。カルテリア側の被害は帆装への損傷と僅かな人的被害のみ(死者が1もしくは3名のみ)という完勝でした。
帰路でさらに4隻の輸送船を捕獲したカリテリアは本隊に戻り、損傷した修理などを行いつつ次の出撃に備えます。その間5月には抵抗むなしくアテネが陥落し、海軍も方針転換を迫られていました。コクランはエジプト海軍の元を断とうと、アレキサンドリア襲撃を計画するも実行には至らず。結局はメソロンギ周辺の奪回という目標が掲げられます。
その足掛かりとして9月18日、沖合にあるヴァシラディ(Vasiladi)という小島の砦に対して、ギリシャ海軍は20隻を超える艦隊を繰り出して攻撃するも、浅瀬に阻まれて失敗してしまいます。
そこでコクランは内側から揺さぶりをかけようと、コリントス湾内での作戦を狙い、ヘイスティングスの戦隊に湾内の敵戦力攻撃を命令します。
カルテリアの他にブリッグ1隻、小型の砲艦2隻からなるこの戦隊は、敵要塞の目をかいくぐりつつ湾内に突入。そして9月29日、サローナ(Salona)湾のイテア(Itea)港に9隻の艦艇(ブリッグ並びにスクーナー7隻、輸送船2隻)を確認すると、直ちにこれを撃滅すべく攻撃を開始。カルテリアにとって最大の戦いである「イテアの海戦」が勃発します。
トリケリの時と比べこちらが数では劣る形ながら、ギリシャ側はより強気な戦法を用います。カルテリアは敵艦隊並びに砲台から500ヤードの距離で投錨し、敵の攻撃を引き受けての殴り合いに持ち込みます。
砲撃の精度に劣るトルコ側がこの静止目標に大きな損害を与えらない間、フリーになった僚艦が後方から砲台を沈黙させ、さらに残った艦隊もカルテリアの火力に圧倒されていきます。
まず旗艦らしきブリッグは火薬庫に砲弾が達したのか2斉射目で即座に爆沈、その隣のスクーナーと輸送船一隻は炸裂弾により舷側を叩き割られて沈没。残りの艦も火災が発生した時点で士気が崩壊するのか、艦を放棄する例が多数見られ、最終的にカルテリアは9隻すべてを撃沈もしくは焼失させる事に成功、今回も損害も若干の人的損害に限られた完勝でした。
海戦後の戦隊はオスマン主力による報復を恐れ、11月まで湾内で隠れていたのですが、敵が出てこないと分かると湾内での兵員輸送を援護。途中要塞に見つかってマストや煙突に少なくない被害が出るも健在で、敵陣地にいたオーストリア国旗を掲げるブリッグ一隻を撃沈(!?)したのを最後に湾を脱出しています。
そして27年最後の任務として、12月29日に再びヴァシラディを攻撃。今度は発射薬を倍の8ポンドに増やして3000ヤード超えの遠距離砲撃を実施する事で、見事弾薬庫に命中弾を与えて占領に成功します。そしてこの時点で運用資金がヘイスティングスのポケットマネー含め底をついた為、一時的に活動を休止する事になりました。
以上のような活躍を続けたカルテリアでしたが、この間に独立戦争の趨勢は彼らの努力とはあまり関係の無い部分、つまりヨーロッパ列強による介入が始まった事で大きく変化していました。
当初は不干渉を貫いた列強ですが、独立戦争の凄惨な戦いが報じられるにつれ世論はギリシャ支援へと傾き、さらにロシアでは新たに即位したニコライ一世が南下政策をさらに推し進め、同国の一人勝ちを恐れた英仏を巻き込んで介入へと乗り出します。
まず1827年7月のロンドン条約で停戦が宣言されるも、これはイテアの戦いなどが示すように効力を発揮できず、そこで英仏露の三か国は連合艦隊を派遣して砲艦外交による停戦を試みます。
そう、停戦勧告のはずだったのですが……、エドワード・コドリントンEdward Codrington中将率いるこの艦隊は、ナヴァリノ(Navarino)湾に集結するオスマン・エジプト海軍と戦闘に突入し、うっかり相手を殲滅してしまうのです。これによりオスマンが有していた海上の優位は完全に崩壊してしまいました。
さらに海戦をきっかけにロシアとオスマンの関係が急速に悪化し、28年には露土戦争に発展。快進撃を続けコンスタンティノープルに迫るロシアに、英仏を含めた外交圧力の結果、ギリシャは独立を得る事になるのです。
(もちろん独立しただけで周辺の問題がすべて解決したわけではなく、後年ヨーロッパの火薬庫と化してしまうのですが、本題と関係ないので割愛します)
なおヘイスティングスは復帰後の1828年6月1日、メソロンギ奪回へ向けた作戦で受けた負傷が元で亡くなっており、独立をその目で見る事はできませんでした。
終わりに
上で見てきたように、カルテリアは小型の蒸気船に少数のシェルガンを搭載という、ペクサン大佐のコンセプトが最初に実戦で試された例でした。
そして同艦がヘイスティングスの指揮下にあった間に参加した作戦で、ギリシャ海軍は敵の艦艇8隻、輸送船17隻、砲台4か所、砦1つを破壊若しくは制圧しています。一年程の間に極めて低い被害でこれを成し遂げたのは、ひとえに同艦が保有する戦闘力の大きさを表していると言えるでしょう。
しかしながら、水上戦で戦果を挙げたのはあくまでスループ以下の補助艦艇を相手にした場合に限られ、主力である戦列艦を打ち破って、これに取って代わる程の戦力であるか証明するには至っていません。
一方でナヴァリノの連合艦隊は2時間半の戦闘で自艦艇を一隻も失わずに、オスマン・エジプト海軍の戦列艦1隻、フリゲート12隻、コルベット22隻、それ以下の艦艇19隻という莫大な数を撃沈する戦果を挙げています。
単純に比較すれば、カルテリアよりもはるかに大きな打撃を与えた事は言うまでもありません。
帆走軍艦同士で行われた最後の艦隊決戦、後世そう呼ばれる事になるこの戦いの華々しい戦果の前には、新しい時代を予見させるカルテリアの活動も覆い隠されてしまったようです。
主な参考文献
Anonymous, Biographical Sketch of Frank Abney Hastings, Blackwood's Edinburgh Magazine vol. XXI, 1845
Frank Abney Hastings, Memoir on the Use of Shells, Hot Shot, and Carcass Shells, from Ship Artillery, 1828
George Finlay, History of the Greek Revolution, 1861
画像出典
図1 Spyridon Prosalentis, Portrait of Frank Abney Hastings
図2 Karl Krazeisen, René Puaux, La fregate Hellas et le vapeur Carteria
どちらもウィキメディア・コモンズ(https://commons.wikimedia.org/)より。パブリックドメイン