第23話 「砲術革命」以前(砲の照準と発射法について、照準器と方位盤に見られる進歩とその限界)
大変長らくお待たせしました。
本話の投稿に先立ち、以下の回で内容の加筆もしくは修正を行っています。こちらもご覧いただければ幸いです。
第13話 ウォーリアの設計思想に関する記述を追加
第14話 開陽丸での錨鎖による防御法の伝播経路について加筆
第17話 青銅の使用例と圧搾青銅について加筆
第18話 新しく「球形式」後装砲の解説を追加
第19話 フランスの1855年式施条砲やアメリカのパーソンズ式の記述などを修正
(これ以外の改稿は基本的に誤字や文章表現の修正程度です)
はじめに
本章では装甲艦の時代の中でも1880年代前半までの艦砲を主なテーマとして、砲身の材質と構造、ライフリング、後装砲、そして砲架の進歩などについて概観してきました。
続く本話では、砲自体から若干離れ、その運用に近い部分、主に射撃指揮に関する内容に踏み込みたいと思います。具体的には「目標を狙い、発射し命中させる」為の装備やその運用法について見ていきます。
連載開始時には作者自身も殆ど知識のなかった分野でしたが、調べてみるとこれまで扱ってきた範囲にも劣らず興味深い新要素の数々が確認できました。その一方で、本章で扱う範囲より後、19世紀末ごろより、その後の弩級戦艦の時代を生み出す下地となる「砲術革命」と言うべき大変革の時代が始まります。それと比較して、本話で扱う装甲艦時代の砲術は「帆船時代と大差なかった」という評価で済まされる事が多く(本作も第20話でそのような表現を使用していました)、確実に存在したはずの進歩が注目される事も少ないです。
そこで今回は拙いながらも、その進歩と現在の評価に至った原因の両方に触れるべく、当時の砲術の諸要素を紹介していきたいと思います。
本題に入る前にもう一点前置きとして、参考資料はこれまで通り第16部分にまとめて掲載しています。そこでも傾向は把握できますが、利用できる資料の関係でイギリス海軍の例を主に紹介する形になります。また内容はハワード・ダグラス将軍による1860年版海軍砲術に関する論文『Treatise on Naval Gunnery』や1880年版英国海軍砲術教範『Manual of Gunnery for Her Majesty’s Fleet』に依る部分が大きいですが、後者も含め戦訓や技術の進歩によって正解が変わりかねない当時の環境から、推論的な内容を多分に含んでいます。
水上射撃における問題
まず最初に、当時の艦砲の役割として第一に想定されるのは、当然敵艦艇など水上目標への射撃です。その際には水平な地面に砲を据えて静止目標を撃つ場合とは異なる、水上射撃特有の要素が加わり射撃を妨害します。それにどれだけ対応できるかは、その時代の砲術を評価する上でも重要な指標になるので、先にこの紹介から始めたいと思います。
特有の要素には以下の三つを挙げる事が出来ます。
一つ目は自艦と目標の両者が動いている点です。これは目標の距離や速力、進行方向にも左右されますが、基本的に砲を発射してから着弾するまでの間に、目標の位置は発射時に見えていた位置から変化します。命中させるためには、その変化量などを加味した「見越し射撃」を行い、目標の未来位置へ着弾するように砲を向けて発射する必要があります。
二つ目は基本的に船は揺れるという点です。揺れ(動揺)は横揺れ(ローリング)と縦揺れ(ピッチング)を中心に、その他の方向へも複雑に絡み合いつつ、砲もこれに合わせて動いてしまいます。この動きを打ち消すように砲を動かす事は当時の砲架では不可能であり、動揺の中で照準が合うタイミングを逃さず発射する必要があります。
三つ目は砲煙により視界が遮られる点です。無煙火薬の登場前、発射時に大量の白煙を出す有煙火薬を用いるのは当時の陸上砲も同じです。よって上二つほど特有とは言えませんが、砲煙による妨害をいかに避けるか、という点が発射法において重視された為、三つ目に含めています。また艦砲の場合、一隻に多数の砲を搭載していたり、戦列を組んで艦隊戦を行う為、他の砲が出した砲煙が流れ込みやすい点はありました。
火管(発火具)について
実際の諸要素に入るとして、まず明確な進歩が見られる例として、火管について見ていきたいと思います。
火管とは砲を撃つ際に発射薬に点火するための装置で、上の三要素では二つ目と三つ目にも関わってきます。この時代の火管は、第一話で少し触れた滑腔砲時代の物も引き続き使われつつも一部に新しい物が加わり、20世紀以降も使われる代表的な種類が揃う時期にあたります。
図1
まず振り返ると、初期は砲腔内に通じる火門に導火薬を入れ、これに火縄を付けた棒を押し付け点火するタッチホール式より始まり、18世紀には火打ち石を付けた撃鉄で点火する燧石式(フリントロック式)、19世紀には撃鉄で雷管を叩く撃発式(パーカッションロック式)が大砲でも用いられ始めます。燧石式と撃発式は発射索Lanyardを引く事で撃鉄を作動させて発射し、これはタッチホール式よりも発射までのライムラグが少なく、発射のタイミングを合わせる上で有利とされます。
これらに加え、19世紀には撃鉄を必要としない火管が登場します。その一つが図左の摩擦火管もしくは摩擦管Friction tubeと呼ばれるものです。
これは銅もしくはガチョウの羽軸でできた管の中に導火薬とその起爆剤、そして発射索と繋がった摩擦片から構成され、発射索を引っ張る事で摩擦片が起爆在を発火させ、導火薬を燃焼させる仕組みです。(英海軍は銅製の管が使用後に甲板上に転がるのは危険だと後者を開発し、鵞製摩擦管Quill Friction tubeとして採用しています)
そして装甲艦時代になってから新たに採用されたのが、図右の電気火管Electric Tubeです。図にもあるように電線が伸びており、発射索は用いずに発射キーを押して通電させる事で内部の導火薬を燃焼させます。
これは電源が必要(70年代後半より探照灯や艦内照明の為に発電機を持つ艦も増えますが、初期は専用の電池を設けるのが主流でした)かつ、その信頼性という意味では不安定な面がありますが、同時に今までにない利点を備えています。
発射キーの使用で、発射索を用いる場合よりもタイムラグをさらに縮める事が出来るのに加え、今までと違い電線さえ繋がっていれば、砲の後ろ以外の場所からの遠隔発射も理論上可能という点は非常に重要です。それは砲煙の影響を受けにくい視界の良い場所、もしくは防御が厳重な場所など、より有利な場所からの発射が行える事を意味します。
さらにもう一つの利点として、複数の火管に電線を繋げば、その場所から一括で全門の同時発射すら可能になります。詳しくは後述しますが、これらの利点は当時の艦砲による発射法を大きく変える可能性を秘めていました。
導入経緯を見ていくと、そもそも電気による火薬の点火自体は19世紀前半に実用化され、1840年に英陸軍王立工兵隊のチャールズ・パズリーChales Pasley将軍がスピットヘッド泊地の戦列艦ロイヤル・ジョージなど、水中の残骸を爆破する際に用いたのが初期の例です。兵器としては最初に水雷(機雷)の起爆に用いられ、サミュエル・コルトが1842年に実験に成功した事などが知られています。そして砲の火管に用いる試みは1850年代よりウーリッジで実験が行われています。驚くべき事に、1861年にはエジンバラで時計と連動した午砲の電気発射がすでに始まっていました。
実際に艦砲で用いた例では、確認できる中では1870年より装甲艦オーシャンOcean(日本に初めて来航した装甲艦でもあります)で試験的な運用が始まります。そして、これを推進した同艦の副長は、後に数えきれない功績を遺すジョン・アーバスノット・フィッシャー中佐その人でした。
続いては、一つ目の要素である見越し射撃に関連する事柄をいくつか見ていきます。
見越しを行うには、上で述べたように砲弾を発射してから着弾するまでの目標位置の変化量を知る必要があります。原則としてこの量は砲弾を発射してから着弾するまでの時間と共に増加していきます。その時間は目標の距離に左右されるので、つまり正確な距離を知る事、測距が重要な要素の一つになります。見越し射撃以外でも、ある程度の距離がある場合、測距は正確な射撃に欠かせない要素です。
測距儀以前の測距法
という事で測距について見ていくと、当時は艦搭可能な測距儀並びにそれに類する装置は実用化されていません。ですが同じ原理で、一辺の長さと角度を用いた三角測量で距離が求められる事自体はすでに知られており、19世紀半ばにはこれを用いた測距法が複数整備されています。
その中でも最もポピュラーな方法は、一辺の長さとして敵艦のマストの高さを用いて、角度は六分儀で計測する方法です。この方法には敵艦のマストの高さを知っている必要があり、実際に当時の砲術書や信号書には仮想敵のマストの高さと、角度から距離を換算する早見表が掲載されていました。
図2
この表(図2)で換算可能なのは最大4000ヤード。0.1度の差で100ヤード単位の判別が可能なのは2000ヤード程度の距離に対応していました。
この方法の課題には、観測し表を見て結果を出すまでひと手間かかる点に加え、当時の測距法全般に共通する課題ですが、伝達手段の乏しさが指摘できます。砲の元に計測結果を即座に伝える事の出来る、機械式や電気式の実用的な通信装置は未だに存在せず(艦内全体でも通信装置と言えば機械式のエンジンテレグラフが登場した程度でした)、騒音の中で伝声管を用いたり、伝令が直接伝えたりなど、不確実さや時間を要する手段を取る必要がありました。
敵マストの高さを用いる以外の方法としては、観測者が自艦のマストに登り、その長さを基準とする方法があります。こちらは確実な数字を一辺として用いる事ができ、高さの無い目標も測距可能な点で優れています。ただしマスト上からは結果の伝達がさらに難しくなるのが問題です。
この他に主流にならなかったり机上で終わった方法もいくつかあり、三角測量を行うものだと、敵艦の全長を用いる方法(艦の向きによって見え方が変化するので不確実)。自艦の艦首と艦尾に観測者を置き、自艦の全長を用いる方法(目標が艦首尾方向にいると観測が難しく、それ以前に両者の通信手段が乏しく困難)などがあります。
三角測量を用いないものとしては、雷が落ちた場所から距離を計算するのと同じ要領で、発砲炎を見えてから音が聞こえるまでの時間で距離を求める方法が提唱されています。この為に金属が液体内を時間内に下降する量で距離を測る装置がベルギーで開発されているなど、割とまじめに検討されていたようです。
また後述するコンクリーヴ式照準器の説明では、十字線と比較した目標の大きさから距離が計測可能とあります。第二次大戦時の戦車砲が用いたようなレティクルによる測距的な考えもこの時点で存在したようです。
最後に試射によって目標の距離を把握する方法は、のちの時代では盛んに用いられますし、この以前にもトラファルガーの仏西連合艦隊が行った例があります。ただし今回調べた際には特に関連する方法を見つける事ができませんでした。当時の発射速度の遅い砲では有効でなかった、短い交戦距離ではそもそも必要とされなかったなどの理由が想像できますが、この件に関しては今後の課題です。
照準器の導入
続いて見ていくのは、見越しを取った状態で正確に砲を指向する際にも欠かせない照準器です。
そもそもナポレオン戦争までの英海軍で照準器と呼べるものには、照門と照星に相当する切れ込みを砲身の上に設けたもの(Line of metal sight)か、砲尾の側面に目盛りを刻んだクオーターサイトといったものがあります。前者は殆ど水平射撃にしか使えず、後者は仰角三度程度まで対応可能したが、仰角の照準中に左右の照準の正しさを確認する事ができず、あとから調整しなおす必要があり、どちらも実用性は低いものでした。
ネルソン提督自身が照準器の導入に反対した逸話が残っているように、当時の英海軍では照準器を軽視する姿勢が伺えます。もっともこれは、照準器に頼らずとも命中が期待できる距離での戦闘を重視する近接主義の現れと見るべきで、実際その思想の元でトラファルガーでは大勝利を収めているのですから、誤りとは言い難いでしょう。
ただしハワード・ダグラスのように、米英戦争で照準器を活用していた米海軍(実際は英海軍と大差なかったという指摘もあります)に対し後れを取った例から、その軽視を批判的に捉える見方もあります。
図3
英海軍における本格的な照準器の採用は、戦後の1820年代に導入されたコンクリーヴ式照準器(図3左上)より始まります。これは傾きを調整する機構を持った一体型の照準器で、両端にある十字線の付いたリングを合わせて照準します。仰角は最大5度、当時の24ポンド砲で射程1800ヤードに相当する十分な距離に対応していました。
しかしこの照準器は砲身の上に大きな照準器を設ける構造から、物がぶつかって故障しやすく、砲門から撃つ際に邪魔になるなどの点が問題視され短期間の使用に終わります。その後採用されたのは、照門側の高さを調整するタンジェントサイトです。これと砲耳近くに独立して設けられた照星の組み合わせは、装甲艦時代にも引き続き用いられました。
図3右は装甲艦時代の英8インチ前装ライフル砲用のタンジェントサイトです。これはライフル砲で見られる砲弾の回転に伴う弾道のずれ(定偏)に対応する為、最初から若干の角度を持って取り付けられ,8インチ砲を含む大型砲用の場合、図3左下のように砲尾の左右に一つずつ、中央にこれよりも背の低い物をもう一つ、計三組の照準器が設けられました。
画像の照準器は目盛りに刻まれた以下の数字に応じた仰角の調整が可能です。
・仰角(最大15度)
・通常榴弾の常装薬使用時に対応する射距離と信管秒時(最大4000ヤード)
・堅鉄弾の強装薬使用時に対応する射距離(最大4800ヤード)
加えて注目すべき部分として、一番上のV字型の切れ込みを持つ照門本体には、左右に0.5度ずつ動かす構造(横尺)が見られます。つまりこの時点で、見越しを取りつつ目標を照準するための調整機能を備えた照準器が用いられていた事になります。
見越しの計算
照準器が見越し射撃に対応するという進歩が確認できた所で、残る問題は見越しを求める方法です。
具体的な説明や数式の解説は勘弁してほしいのですが(作者の勉強不足としか言いようがないです)、目標の距離に加え、お互いの進行方向や速力、風などの要素を用いた計算法や目安となる表などは整備されています。その一方で確実に言える事として、機械的に変化量を計算する装置は、まだ実用化されていません。よってどれだけ見越しを取るかは、実際に計算するか表を見る作業が必要という事になります。
その点で後の時代よりかなり初歩的と言わざるを得ないものでした。
発射法(打方)について
ここからは火管以外の発射時に関する事柄について、基本的に複数の砲が搭載される艦砲において、どのような発射法(打方)を用いるか、という話を主にしていきたいと思います。
その前に前提として、三要素の二つ目の内容と重複しますが、どのような打方でも各自の砲は、艦の向きや傾斜が照準と一致するのを待ってから撃つ形になります。動揺による砲の動きに対して、20話で見たような砲架の進歩を経た上でも操作性には限界があり、目標に指向させ続ける事は不可能です。また20話の図を見てもわかりますが、俯仰の調節に用いるハンドル等は砲と共に退却する砲車や橇車側にあるので、発射の瞬間まで操作するのは危険で行えなかったという面もあります。
独立打方と一舷打方
複数の砲による打方は、目標に対して各砲がお互いに構わず準備次第発射するか、複数の砲が歩調を合わせ同時発射(斉射)するかという点で二種類に分ける事が出来ます。前者は「独立打方Independent Firing」と呼ばれ、後者はかなり細分化が可能ですが、その中でも指向可能な全門による斉射である「一舷打方Broadside Firing」が代表的です。
両者の大まかな特徴として、独立打方の方が他の砲を待たない分、理論上の発射速度は上です。ですが砲煙が他の砲の射撃を妨害する可能性が高く、煙の影響の大きさによっては一舷打方の方が効率的な射撃を行える可能性があります、
また一舷打方は、一度に最大限の命中弾数と破壊効果を得られ、敵味方の士気に与える影響が大きい事も利点として挙げる事が出来ます。対する独立打方は、絶え間なく継続的に砲弾を送り込む事で、敵の装填作業や指揮を妨害できるのが利点とされています。
当時における両者の評価について1880年の砲術教範などを見ると、それぞれの優劣を主張する意見があり、状況に応じて適した打方を使い分ける事を推奨しています。
それを主に左右するのは、三要素の三番目に挙げた煙の影響を避ける必要性です。この視点では帆船時代に引き続き一舷打方が明らかに優位なはずですが、一方でこの時代、艦艇の砲門数が減り速力も向上した為、煙の影響は減少したとする独立打方寄りの意見が登場します。それに対して、単艦ならともかく艦隊戦では煙の影響は避けられない(よって発射機会に一舷打方を行う必要がある)という反論が加えられる事になります。
また同書では一舷打方について、後述するように単なる全門斉射よりも特殊化した物として扱っており、かつ効果を近距離に限定しています。対する独立打方は発射速度に加え遠距離での射撃でも優れると評価し、その活用に前向きだった印象も受けます。
また両者以外にも「独立打方より煙による妨害が少なく、一舷打方より継続的な射撃が可能」という、中間的な特徴を持つ打方があり、これらを使用するという選択肢も存在します。
具体的には、撃っても煙の影響が少ない(主に風下の)砲から順番に撃つ「逐次打方Firing in Succession」、各砲をいくつかのグループに分けて順番に斉射する打方(正式な訳語は不明)。そして砲塔艦かつ連装砲塔を二基以上持つ艦で、砲塔内の二門同時発射を各砲塔がそれぞれ準備次第行う「斉発打方(当時の呼称だとSimultaneous Firing一斉打方)」というものが該当します。
特殊化した一舷打方
1880年の砲術教範における一舷打方について、先ほど特殊化した物と述べました。同書では最初に述べたような指向可能な全門を用いた斉射というだけでは一舷打方とならず、帆船時代のそれのように、各砲がそれぞれ照準し、監督する士官の号令を合図に各砲の射手が撃つ物とは明らかに異なる打方を指しています。
簡単に述べると、以下の三つが同書における一舷打方の特徴です。
・照準は各砲ではなく「基準砲」もしくは「方位盤」が行い、これに基づく諸元に各砲が従い砲を指向する
・完全な同一諸元だと砲の搭載位置の分だけ弾着が広がるので、各砲の弾着を一点に収束させるよう補正を加えて指向する「集弾射撃Concentration Firing」を併用する
・発射は基準砲もしくは方位盤からの号令を合図に各砲の射手が撃つ場合に加え、電気火管を用いて各砲の射手を介さず一括で行う「電気打方Electric Firing」の場合がある
電気火管については既に紹介しましたが、それ以外は説明不足ですので、補足しつつより詳しく見ていきます。
まず照準に用いる基準砲は「基砲」とも呼ばれ、各砲の中から事前に決められた一門が代表して照準を行う形になります。そして方位盤は、各砲の照準と発射を離れた場所から管制する遠隔照準器とも言うべき物です。後にパーシー・スコットPercy Scottにより再発明され、戦艦時代の砲術に欠かせない装置となる物の祖先にあたります。
この時代の方位盤は俯仰と旋回が可能な架台に一体型の照準器を設けたシンプルな物で、当初は両舷のブルワーク上などに、後には艦の指揮に関連する場所、後甲板や艦橋、そして防御された司令塔などに設置されます。
(余談ですが、この時代の方位盤は扱っている資料にも基本画像がなく、試作品以外だと出典の無い利用不可能な画像一点しか見つけられませんでした。本話の投稿まで時間がかかった原因の二割ぐらいはこれのせいです。あと英語だと基準砲はDirecting gunで方位盤はDirectorなのですごく紛らわしいです)
このような一舷打方の中でも、特に方位盤で電気打方を行う場合、全体の照準と発射は完全に方位盤とそれを操作する砲術長に委ねられる形になります。これらの工程に砲側を介入させず(集弾射撃を併用する際の補正は各砲が行いますが)、指揮官が直接管制し射撃を行える点は、帆船時代の一舷打方からの大きな進歩と言えます。
ただし指揮官による射撃の管制やその為の装置の源流は、実は帆船時代にも遡る事が可能です。やや脱線しますがこれも見ていきます。
初期ではナポレオン戦争期の英フリゲート艦シャノンShannonのフィリップ・ブロークPhilip Broke艦長(米英戦争で米フリゲートを破った功績で知られます)が、砲から目標が見えない場合を想定し、視界の良い後甲板からの号令による射撃を訓練しています。ここでは後甲板の指揮官は振り子で艦の動揺を把握し、動揺が照準に合致したタイミングで発射するよう号令を行います。同じ目的の振り子は同時期のフランス海軍もL’Horizon Balistiqueという名前で採用していました。
より完成度の高い物は英海軍の船匠ウィリアム・ケニッシュWilliam Kennishにより1828年に登場します。彼は前年に集弾射撃用の補正量を刻んだガイドを開発しており、これを有効活用する為に、各砲の照準と発射を管制する海洋セオドライトMarine Theodoliteと呼ばれる装置を試作しています、下の画像はその図になります。
図4
これは動揺の中で水平に保つ為の錘があり、装甲艦時代の方位盤と比べて構造が大ぶりですが、俯仰と旋回が可能な照準器という点は同じです。射撃の流れも、照準した目標の諸元と各砲に伝達し、照準と合致するタイミングに合わせ発砲を号令、という風に電気打方が行えない以外は近い機能を備えていました。
その後は英海軍では1850年代にムーアソムMoorsom大佐による方位盤が初めて広く採用され、1880年までに照準器を望遠鏡式に変えた改良版が普及しています。また最初に見たように70年代に電気火管が採用され、方位盤による電気打方へと至ります。
方位盤による電気打方の得失と使用条件
方位盤による電気打方は、上で一舷打方の大まかな特徴で挙げたものの他に、以下のような利点を持っています。
・砲側よりも視界や防御に優れた場所に方位盤を置くことで、そこからの管制が可能
・砲煙により砲側からの照準が行えない場合でも射撃を行える確率が上がる
・優れた射手による照準を各砲に適応する事ができる(これは基準砲も同じく)
・電気火管で各砲の発射を行う事で、(基準砲を含む)号令による一舷打方よりタイムラグによる誤差を減らす事ができる
・砲員は砲の指向が終わり次第、監督する士官の号令がなくとも即座に伏せるとされ、他の打方よりも早期に砲員が身を守れる
以上の利点に加え、繰り返す事になりますが、この打方では方位盤の照準に各砲が従い、発射も電気火管により方位盤から行います。この要素だけ切り取れば、砲術革命の時代のスコットによる方位盤と同じ事をすでに実現しています。間違いなく装甲艦時代の砲術における進歩の一つとして評価されるべきだと、ここで強調しておきたいと思います。
それにも拘わらず1880年の砲術教範などであまり評価されてない所からもわかる通り、その運用には大きな問題があったというのが実態でした。それは測距法の項目でも述べたよう、諸元を伝達する上で有効な通信装置がないという問題です。
その為発射までには、伝達に時間がかかる中、各砲に諸元が伝わり指向されるのを待ち、再び照準と目標が合致するのを待つという、かなり悠長な流れを経る必要があります。加えて不確実な伝達過程で砲の指向に誤差を生じる(後の時代にように正確に指向できている時だけ発砲回路が繋がるような仕組みはありません)可能性があり、さらに一度目標が照準から外れてしまうと、その修正にもさらに時間がかかり、発射機会を逃しやすいというのが想定される欠点です。
(三番目については、むしろ基準砲による一舷打方の方が各砲からの距離が近いからか修正が多少しやすいとされています)
そして同書における方位盤による電気打方に適した条件は、800ヤード以内の距離で集弾射撃と共に行うという、限定的な物に留まります。特に効果的とされるのは、その距離内で目標の未来位置の変化量が大きい場合です。その条件では独立打方で目標を追いかけるように照準して撃つよりも、あらかじめ決めておいた場所に目標が来るのを待ち、集弾射撃を叩き込む方が効果的という考えによるものです。
ただし後述するように、実戦ではそれ以外での条件での使用例も確認できます。
三つの打方
打方については、最後に使用例が分かる史料を一つ紹介して終わりたいと思います。
図5
まず上の図は明治期の日本海軍が射撃訓練で用いた成績表です。訓練内容は1886年の「常備艦艦砲射撃概則」で定められたものでして、独立打方、一舷打方双方の成績表が用意されています。中でも後者は「電気」と「基砲」の二つに分かれるので、合わせて三種類の打方を想定した物という事になります。「概則」では独立打方を主な打方としつつも、艦によっては一舷打方も行い、方位盤と電気打方の装備を持つ艦はそれを用いるとされます。
そして実際の訓練の記録はアジ歴で幾つか閲覧が可能です。
「明治21年2月2日 扶桑艦21年1月艦砲射撃大砲成績表の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C10124291000
ttps://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C10124291000#1
例としてリンク先は装甲艦扶桑が1888年に行ったもので、3から6枚に独立打方、7枚目に一舷打方(電気打方のみ)の成績表が確認できます。また図5でも赤く囲ったように電気打方は電鑰(でんやく、発射キーの事)を扱う人員が射手となるとありますが、ここでは砲術長がその役目を担っている事も読み取れます。
なおスコットの自伝によると同時期のイギリスでは方位盤が基準砲より先に廃れたという記述も確認できる事から、国ごとの違いもあるようですが、独立打方、そして方位盤や基準砲による一舷打方が併用される時代は、このあと1890年代までは続くことになります。
訓練と実戦例
まず訓練について、実弾射撃の機会はコストや砲身の劣化といった問題から限られ、普段の訓練は砲の操作や照準、発射タイミングの把握を目的する物が必然的に多くなります。この場合は砲に取り付けた内筒砲もしくは外筒砲を撃つ事で、砲本体を撃たずとも照準の成否を確かめる事が可能になり、効果的な訓練が可能です。それらはaiming-tubeやaiming-riflesという名前で80年代にはすでに採用が始まっていたものの、本格的な活用は後の時代になります。
実弾を用いた訓練としては、年に一度の「懸賞射撃Prize Firing」があります。内容は1880年の砲術教範の場合、幅12フィート高さ15フィートの静止目標に対し、舷側を向けて速力8ノット以上で直進する間、距離1000から1500ヤードで各砲が射手を変えつつ8発ずつ射撃します。結果は精度と要した時間から評価され、艦内の優秀者に褒賞が与えられます。
また同書は方位盤を用いた電気打方も、その装備を持つ艦は(懸賞射撃を行う時以外の)四半期毎に実弾射撃を行うべきと推奨しています。これは距離800ヤード以内、直進だけでなく変針で艦の向きを変え照準を合わせるなどの違い以外は懸賞射撃と同じ条件で行われます。
続いて実戦における砲術について、三つの海戦を例に挙げて見ていきます。(装甲艦時代は大規模な海戦が起こらなかった期間が長いので、この三つは本作が続けば他のテーマでも度々例に出す事になると思われます)
リッサ海戦
1866年と比較的装甲艦時代の初期に発生したこの海戦は、多数の外洋型装甲艦同士による唯一と言って良い艦隊戦であり、砲撃よりも衝角攻撃の効果が注目された事で知られています。
ここでは当初より衝角攻撃を狙うオーストリア艦隊に対し、伊艦隊は指揮系統の乱れもあって易々と戦列の突破を許し、そのまま乱戦へと突入します。戦場の視界は砲煙により極めて悪く、オーストリア艦隊を率いるテゲトフ提督が「灰色(イタリア艦)は全部衝突せよ」と命じた逸話もある中で、至近距離での戦闘が行われました。双方とも装甲に対して有効な射撃は殆ど行えませんでしたが、特にイタリア側は練度に劣り(動揺の中での発射タイミングを逃して砲弾が上に逸れた物が多いと推測されています)、自軍の持つ火力の優位を活かせなかったと評価されています。
パコチャの海戦とアンガモスの海戦
トラファルガーのようなリッサ海戦に対し、また異なる様相を呈したのが残る二つ、どちらもペルーの装甲艦ワスカルHuáscarに関連した海戦です。
パコチャの海戦は1877年、反乱した同艦が英フリゲート艦シャーShah並びにコルベット艦アメジストAmethystと交戦した海戦です。ここでワスカルは英艦の索具以外に命中弾を与えられず、逆に英艦側は同艦へ60発以上の命中弾を与えますが、目立った損傷にはならず、リッサ海戦のカイザー以上に装甲艦の優位を印象付けた結果に終わります。また史上初めて魚雷が敵艦に向けて発射された(命中せず)海戦としても知られています。
翌年のFraser's Magazine第17号に掲載されたシャーの戦闘記録には打方等の記録もあり、ここでは同艦が1900ヤードから独立打方で射撃を開始するも、その後距離2000ヤードから電気もしくは基準砲の双方を使った一舷打方に切り替えている事、最終的に交戦距離は400ヤードまで接近している事などが分かります。その中で注目したいのは砲術教範が推奨する範囲以上の距離でも一舷打方を行っている点で、ここでは集中射撃と併用されたかも不明です。
そして1879年より始まる太平洋戦争(Guerra del Pacífico)のアンガモスの海戦で、ワルカルはチリの装甲艦アルミランテ・コクレーンAlmirante Cochraneとブランコ・エンカラダBlanco Encaladaに敗れ捕獲されます。この際の打方等は不明ですが、ワスカルは2発の命中弾を与えており、一発は3000ヤードから射撃を開始した早期の物です。そしてチリ側は2000ヤードから射撃を開始し、初弾から装甲を貫いて砲塔に被害を及ぼす有効打を与えています。ただしこの海戦も接近戦までもつれ込み、衝角攻撃の失敗時、距離数十メートルからすれ違いざまに射撃するような場面もありました。
例は少ないですが、ここから装甲艦時代の戦闘に関する傾向を見出す事ができるでしょう。それは2000や3000ヤードなど、帆船時代より遠距離で移動目標に対して命中弾を与えた例がある一方で、少なくとも装甲艦と戦う場合、結局は接近戦になるという点です。
これは単純に近距離以外で有効な射撃が行えなかった場合もあります(例えば太平洋戦争時のペルー海軍は、上で紹介してない海戦含め射撃成績は総じて悪いです)が、それに加え装甲を持つ相手に対し、少しでも貫通しやすい距離まで近づきたい、もしくは当時有効と考えられた衝角攻撃を行いたいという、ネルソンの時代とは少し違う理由で近接主義が健在だった事を意味します。
このような戦闘では、帆船時代のような小銃や散弾による対人攻撃もまだ有効ですし、この時代開発が進む機砲もまた、水雷艇への防御とは別にその役割を担っていました。実際にパコチャとアンガモスの両海戦でも機砲は有効活用されています。
また2000から3000ヤードという遠距離側の有効射程については、砲種にも依りますが砲弾の飛翔時間は五秒程度かそれ以下で、高度な測距や見越しの計算を行えない当時の砲術でもなんとかなる限界がこの程度だったと推測されます。これは後の日清戦争でも、有効な射撃は3000メートル以内で行われた所からも裏付けられるでしょう。
(日清戦争時は日本側で速射砲の導入に加え一部艦艇での測距儀や無煙火薬の使用などの変化もありますが、測距法や照準器、見越しの決定、打方などは概ねこの時代の要素を引き継いでいました)
この項目の最後は、通常の水上射撃以外で興味深い例も紹介しておこうと思います。
まずこれも太平洋戦争時、チリ艦隊によるカヤオCallao封鎖における例について。大口径砲で厳重に防御された同港へは基本的に遠距離からの砲撃が行われ、中でも武装商船アンガモスは8000ヤードもの距離で射撃を行った記録があります。このように静止目標であれば、砲自体の性能向上によりさらに遠距離での射撃が可能となっていました。
さらに興味深い例は英海軍による1882年のアレクサンドリア砲撃の一例です。この戦いの中で装甲艦オライオンOrionとコームス級巡洋艦のカリスフォート Carysfortの二隻は、砲側並びに艦橋から見えない目標に対して、マスト上からの管制で命中弾を与える事に成功しています。後の時代には艦橋よりもさらに高所からの射撃指揮が一般化しますが、これが実戦におけるその初期の例だと思われます。
おわりにかえて
砲術の諸要素を挙げ終わった所で、最後は「帆船時代と大差ない」という評価について、本当に妥当なのか考えて終わりたいと思います。
結論から言うと、概ね妥当で問題ないと言わざるを得ないでしょう。確かに上で見てきた通り、この時代に新しい要素(源流は帆船時代まで遡る事ができる物も含め)が登場した事自体は間違いありません。特に見越し射撃に対応した照準器の使用、方位盤による管制と電気火管を使用した一舷打方の登場という二点は、その中でも最たるものと言えるでしょう。しかしながら、それらも有効に用いる上で不完全な部分があった事は上で見た通りです。見越しは測距や未来位置の計算を行う専用の装置が存在しない点で初歩的ですし、方位盤は主に諸元を砲に伝える通信装置の欠如から限られた範囲でしか有効活用できませんでした。
それら以外では、訓練や実戦の命中弾の例から、有効射程は明らかに伸びていると評価できる点もあります。ただしこの点も、結局は接近戦になるという点で、十分に環境が変わったとは言い難い側面もありました。さらに他の要素では、有煙火薬を使用する為、砲煙の影響なるべく避ける打方を使わざるを得ない点、動揺の中でタイミングが合うのを待ってから発射する必要がある点などは、抜き出すと帆船時代と全く同じ要素になってしまいます。
ただし「概ね」と書いた通り、一般的な評価の中には首肯しかねる部分もあります。その評価には、権威に噛みつくようで畏れ多い事ですが、旧海軍の砲術研究における第一人者である堤明夫氏による物(「日本戦艦の砲術 その歴史と評価」『日本戦艦史 世界の艦船増刊第79集』)も挙げることができます。
その記事で氏は日清戦争頃までの砲術について、主に以下の点を述べ、「帆船時代の砲術とそれほど違いはなかった」としています。
・教師である英海軍含め、後に言う「射法」(見越しの決定と弾着観測による修正の方法)がないに等しい
・有煙火薬の砲煙に対し一舷打方も時として行われ、戦闘距離はごく近距離
・艦長や砲術長は目標と射撃の終始を指示するだけで、基本的に射撃そのものは砲側に任される
最初の指摘は反論のしようがない事実であり、二番目も結果的にそうなる点で同意見です。しかし三番目については、見てきた通り方位盤による管制も当時から存在し、かつ電気打方では砲術長が直接射手を務める場合がある事は上で見てきた通りです。
方位盤を有効活用できる条件が限られていたのは本話でも見てきた通りなので、紙面の関係で「基本的に」の中に含まない物として省略されたと思えば納得できますが、同記事の表中には「方位盤一舷打方」の項目が存在しています。そこでは「各砲に発射を令する程度のもの」と号令により発射する場合のみ紹介しており、電気打方には触れていません。また氏のHPでも方位盤一舷打方について言及した箇所がありますが、そこでは電鑰を電鈴と誤読した上で、音声による号令で各砲が発射すると受け取れる説明が確認できます。(後者はページの本題ではない小ネタ的に記述された内容ですので、そこまで目くじらを立てるような物ではないかもしれないですが)
以上のように問題の箇所も決して誤りとは断言できない細かい表現に過ぎないものですが、冒頭で述べたようにこの時代の進歩が見過ごされた例だと筆者としては考える次第です。
その部分はともあれ、堤氏の射法に関する指摘のように、帆船時代だけでなく後の時代と比較する事で見えてくる物も重要です。という事で以降の「砲術革命」に至る流れも簡単にまとめた上で(更新ペース的にその時代までたどり着けるか悲観的なので、ここで書いてしまおうかと……)これと比較して終わりましょう。
その時代の革新は、まず普及し始めた速射砲において顕著にみられます。これは単純にカタログ上の発射速度が向上しただけでなく、この時期の進歩した砲架により動揺の一部を打ち消すように砲を動かして目標に指向し続ける「保続照準」を可能にしました。これに無煙火薬の普及による視界の問題の軽減も加わって、今までにない発射速度が実戦で発揮可能になります。同時期にはさらに照準望遠鏡の導入、内筒砲の本格利用を含む訓練装置や方法の改善などもあり、結果として訪れたのは、発射速度と精度を両立した速射砲と独立打方の全盛期と言うべき時代でした。
大口径砲の場合は保続照準こそ行えなかったものの、照準器や訓練法による恩恵を受けつつ、その後の技術の発展により状況は大きく変化します。高性能な測距儀や未来位置の計算装置、そして砲とそれらを繋ぐ実用的な通信装置が完備された事で、有効射程は大幅に延伸し、大口径砲以外に対し一方的に攻撃できる可能性すら論じられるようになります。兵装を大口径砲のみに統一した弩級戦艦も、そのような砲術の進歩が背景の一部にあって登場した兵器でした。また有効射程が延びる中で、遠くまで視界が通る高所から各砲の照準と発射、弾着観測からの修正などを一括で行う方が効率的として、一舷打方(この時代では一斉打方)など斉射が復権します。そして最後に、通信の問題を解決した新世代の方位盤もこれを行うべく復活するに至ります。
このような変化の末、戦艦時代における砲術の基本形が確立するのが「砲術革命」の時代でした。
これは「方位盤で照準し電気火管で発射する」という意味で、上で見た通り装甲艦時代と共通する要素もありますが、当然それ以外の要素は全般的に進歩しています。特に測距や見越しの計算能力、通信装置など、装甲艦時代に照準器や方位盤を活用する上で不足していた物を得たのは大きな違いです。つまり部分的には進歩した要素がありつつも、全体的なシステムとして活用するにはピースが欠けていた装甲艦時代に対し、それらが揃ったのが「砲術革命」の時代という関係にあたります。
揃った結果として、大口径砲の有効射程は十年程の間に6000ヤードから2万ヤードにまで伸び、装甲艦時代からは想像もつかない域に達します。あまりにも衝撃的な「砲術革命」における進歩の前に、装甲艦時代にも不完全ながら存在したそれが覆い隠されてしまった、「帆船時代と大差なかった」という認識の成立には、そのような一面も見出す事ができるでしょう。
間隔が空いた中で中途半端な内容で区切りたくなかった為、今回は一話でまとめて投稿させていただきました。過去最長になりましたが、ここまでご覧頂き本当にありがとうございます。
これで砲術の話はいったん出し切ったはずなので、次回以降は新しい範囲として、各国における艦砲の開発・採用状況を扱いたいと思います。英仏独米など主要な開発国はもちろん、それ以外の国における自国開発の試みや輸入砲の採用という中々手が届かない部分についても、まとまった情報を提供できればと思います。
そして気が早いですが、それが終わればついに新章です。今度は装甲艦の発展について、装甲や兵装の配置をメインに扱うとして、その中で砲塔の登場についても語る事になる予定です。
それでは、今後ともよろしくお願いいたします。
主な参考資料
本章の他の話と同じく第16部分「更新再開と補足など」にまとめて掲載
画像出典
図1 War office, Treatise on ammunitions, 1878
図2 Howard Douglas, Treatise on Naval Gunnery fifth edition, 1860
図3左上 William Congreve, A Description of the Sights, or, Instruments for Pointing Guns, 1819
図3左下、右 Francis Sadleir Stoney, A Text-book of the Construction and Manufacture of the rifled ordnance, 1872
図4 William Kennish, A Method for Concentrating the Fire of a Broadside of a Ship of War, 1837筆者一部編集
図5 海軍省『海軍諸例則 4版 巻2』1892 国会図書館デジタルコレクション公開資料(保護期間満了)筆者一部編集




