第22話 砲塔以前の旋回砲架(近世のガレーと砲艦、近代のピボット砲を中心に)
この度は大変長らくお待たせしました。
・はじめに
いきなり言い訳から始まるのも良くないかと思いますが、前々回にて砲塔の話はこの章では扱わないとしておきながら、今回の「砲塔以前の旋回砲架」とは何だと思われる方もおられるかもしれません。これについてはその際に述べたように、砲塔に関しては装甲艦艇の発達史の中で扱う予定で、それに対して今回紹介する兵器や艦艇の内容は、最初に言ってしまうとそれとあまり関係のない物になるので、ここで公開しようと思った次第です。
また正直に申しますと単純に更新が遅すぎて、出来た物から出さねばとなった結果というのも否定できません……。
・砲塔的な旋回能力とその長短
言い訳が長くなりましたが、続いては今回取り上げる「砲塔以前の旋回砲架」とは何を指すのかという話になります。
まず1850年代よりイギリスのコールズやスウェーデン出身のエリクソンによって英米で実用化が進む砲塔ですが、その特徴は文字通り砲塔(砲室)内部に砲を収める事です。つまり既存の砲では、それを載せた砲架を甲板上に置いているのに対して、砲塔は「砲を収めた旋回構造物を船体に組み込む」という意味で、大きな違いがありました。
そんな構造物を設けるには課題が色々生じる訳ですが、その点はここでは忘れもらって、構造物云々を除いて砲塔の特徴として挙げる事が出来るのは、その旋回範囲の広さでしょう。射界を遮る艦上構造物にも左右されますが、多くの砲塔は(普通の舷側砲と異なり)甲板上で左右に旋回して両舷へ指向可能か、その場で全周旋回が可能という二点のどちらかを満たす能力を持っています。
そして旋回範囲「だけ」に注目した場合、上記の二点のいずれかを満たし、砲塔並の旋回能力があると言える砲は、砲塔の登場や装甲艦時代を迎える前、つまり帆船の時代から既に存在していました。たとえば前々回で紹介したスライド砲架(橇盤砲架)も帆船時代から存在しますが、それが持つ通常の砲車より効率の良い旋回機構は、上記の能力は満たす上でなんら問題の無い物でありました。
という訳で要約すると今回紹介する物は、両舷指向もしくは全周旋回のどちらかを満たす、砲塔のような広い旋回範囲を持つ砲架で、かつ章のタイトルに反して少し時代を遡った物が中心になります。
また具体的な紹介に移る前に、それらの砲架を用いた兵器の特徴として、確かに砲塔の登場以前より存在しつつも、その時代において決して主流とは言えない物であった、という点を付け加えておかねばなりません。
広い旋回範囲を持つ事の利点を考えると、まず一つに敵艦の方位に関わらず発射機会を得る能力が高い事を意味します。それは敵艦を艦首尾方向に見る事が多い、追撃戦や撤退戦に適す能力と言い換える事もできます。一方で当時の海戦の正面と言える舷側方向での戦闘の場合、旋回能力よりも数の多さが重視されます。それはこの時代の主力である戦列艦が、旋回能力の低い砲車を用いる形で多数の舷側砲を並べていた事からも伺えます。
また両舷指向が可能な砲は(敵が両舷に同時に存在する場合を除き)舷側砲2門分の働きが出来るという利点もありますが、その場合に欠点となるのが爆風の問題です。
仮に艦の中心線上に置かれた砲を、その場で左右に旋回させ撃つとして、当時の砲身長からするとよほどの小型艦を除いて、砲口は舷側より内側、甲板の上に位置する事になります。すると場所によっては、艦上に生じる爆風により張り巡らせた索具が損傷、最悪の場合防水用に塗られたタールに着火して火災が発生する可能性もあるなど、小さくないリスクを孕んでいました。
以下の事もあり、「砲塔的な旋回砲架」は帆船時代の代表的な艦艇である、戦列艦やフリゲートなどいった艦種の主な兵装、つまり舷側砲を置き換える物にはならず、砲や搭載艦種そのものの種類含め、やや特殊化した兵器と関連付けられる傾向があります。
さて、こちらの前置きも長くなりましたが、ここからは個別の事例について、かなり個性豊かな搭載艦艇自体の解説も含めて見ていきたいと思います。
・その1 旋回砲の砲架
最初に取り上げるのは、古い時代から存在する特に例外的な物であり、主に接近戦で用いられた対人用の小型砲である「旋回砲」です。なお名称は今回のテーマ的に少々紛らわしいので、以下の文では英語名のスイヴェル・ガンSwivel gunを使用します。
図1
図は後装式(子砲式)のスイヴェル・ガンを描いたもので、構造は良くわかりますが、人(?)と比べて実際よりかなり大きく描かれているので注意が必要です。
砲は土台(実際は舷側のブルワークなど)に挿さった旋回軸の上に置かれ、ここを中心に旋回するというシンプルな構造です。また旋回軸は俯仰を邪魔しないよう、上部で二股に分かれて砲耳を支える形である他、小口径砲で反動が小さいため、退却せずに反動を直接旋回軸と土台が吸収するのが特徴です(鹿児島の尚古集成館にはスライド砲架を組み合わせた物がありますが、一般的な形ではないはずです)。よって砲のサイズと反動が大きな物には用いる事ができない、という意味で例外的な物でした。
この砲架はスイヴェル・ガン以外では、同時期に似た目的で用いられたブランダーバス(ラッパ銃)や小型榴弾砲にも見られる他、後の時代でも機銃や小型の速射砲などに似た構造の物が確認でき、退却しない小型銃砲にとっては基本的な構造であると言えるでしょう。
・その2 臼砲艦の砲架
続いても一般的ではない艦砲、艦種が用いた物として、臼砲の砲架が挙げられます。臼砲搭載艦については、ペクサン砲以前に炸裂弾を艦上で用いた例として度々言及してきましたが、それ自体の解説はしてこなかったので簡単に行います。
図2
図は1697年の書籍に登場するかなり初期の臼砲艦の姿です。この時点で左側の断面図及び上面図にて、臼砲は円形の旋回プラットフォーム上に置かれている事が確認できます。また甲板の下には、曲射の際に下方向に掛かる反動を受け止める為に厳重な補強がなされている点も目を引きます。
やや脱線しますが右側の外観図も中々興味深い点があり、臼砲艦は英語では主にボムケッチBomb ketchと呼称され、これは初期に縦帆を用いたケッチ帆装であった事が由来ですが、それに対しこの図では横帆を用いています。また細かい所では、バウスプリットにはスプリットスルを持たずジブのみである一方、ミズンマストの縦帆はガフにはならずにラティーンのままという、18世紀後半までに起こる変化の過渡期的な状態を示す物です。
・その3 スウェーデンのガレー船とアメリカの砲艦
次は今回紹介する中でも、特に特殊な艦艇に用いられたと言える二例です。
まずはガレー船における使用例について。
軍用艦としてのガレーは近世以降、多くの地域では帆船に主役の座を明け渡すものの、帆船の運用に適さない特定の地理的状況においては、以降も有力な戦力であり続けています。その一つが穏やか内海であり、フィンランド南部の多島海など浅く入り組んだ地形を持つバルト海沿岸です。ここではガレーもしくは櫂走を主体とした艦艇が、19世紀初めまで有力な艦種として命脈を保っていました。
一方で艦艇としてガレーを見た場合、どうしても帆船に見劣りする点はその砲火力の低さです。帆船が舷側に多数の砲を並べるのに対して、ガレーのこの場所は漕ぎ手が占有し、艦の前後に僅かな門数しか搭載できません。
そんなガレーのイメージを打ち破る興味深い艦艇が、バルト海に面したスウェーデンで1760年代に建造されたウデマUdema型です。
図3
上の図からわかる通り、この艦は両舷の漕ぎ手の間、中心線上に複数門(上面図では6門ですが説明では9門とされます)の砲を並べています。そして各砲はスライド砲架に搭載され、後部の3門がそう描かれているように、左右に旋回させて両舷に指向が可能です。
どう考えても爆風の影響を受ける漕ぎ手は事前に退避する必要がありますが、それでも図面に描かれている砲だけでも計8門が舷側へ指向可能と、この方向への火力の低さを克服した特異なガレーと言えるでしょう。
このような艦艇が生まれた背景も見ていきますと、18世紀の同国は大北方戦争でロシアのガレー艦隊に敗北し、バルト海における覇権を明け渡すと共に、それに対抗する為の沿岸用艦隊の整備を本格化させます。同艦隊は七年戦争のフリシェス潟の海戦ではプロイセンの艦隊に勝利しますが、この際に上で述べたガレーの火力の低さが問題とされます。
そこで沿岸艦隊の長官である陸軍軍人アウグスティン・エーレンスヴァルドAugustin Ehrensvärd(第九話のクリミア戦争でロシア軍の要塞として登場したスヴェアヴォルグ/スオメンリナ要塞を整備した人物でもあります)の元、造船技師フレデリック・ヘンリク・アフ・チャップマンFredrik Henrik af Chapmanによって四種類の新型艦が生み出されます。後世Skärgårdsfregatt(正確な訳語は不明ですが大まかには群島フリゲートもしくは多島海フリゲートの意、当時の名称ではない上に正確にはフリゲートとも言えない物ですが)と呼ばれるそれらの艦艇の一つがウデマ型でした。
図4
折角なので他の三種類も軽く紹介します。図には無いのですがポジャマPojama型という船は同じくガレー的で重砲は艦首尾に4門と少ないですが、これもスライド砲架で既存のガレーより広い射界を持っています。続いてトゥルマTuruma型(図中央)は、本格的な帆装を持ちガレーというよりはジーベックのような帆櫂両用船です。こちらは艦内の砲甲板に大砲を置き、その上の露天甲板に漕ぎ手を置くという方法で漕ぎ手を爆風から分離し舷側火力を確保。最後にヘメマHemmema型(図左)は四種類の中で最も大型で、トゥルマに似ていますが、漕ぎ手も砲甲板の中に置いて防御しています。
そしてこれらの艦艇は、1788年よりロシアとの戦争に参加。中でも1790年スヴェンスクスンドの海戦では。戦争の趨勢を決する歴史に残る大勝利を収める上で活躍する事になります。
ただし実際のところ、同海戦で実質的な主力としてより評価が高かったのは、同じくチャップマンにより設計され、重砲1、2門のみ搭載(上図参照)とさらに小型な、砲艦もしくは砲艇でした。カノンスループKanonslupやカノンジョリーKnonjolleと呼称されるそれらの艦は、同海戦に参加した200隻を超えるスウェーデン艦の内、170隻余りを占めていたとされています。
話を旋回砲架に戻すと、砲艦は上記の艦のように、旋回機構を持たず船体自体を目標に向けて指向する物もあれば、逆に今回紹介すべき旋回砲架を用いる例も多い艦種です。搭載門数がどうしても少ない砲艦では、広い範囲に指向でき射撃機会を増やせる事の利点が大きく、また船体が小型で前述した爆風が甲板上に及ぼす影響が少ない点も考えられます。
図5
例として図は1808年英国で建造された砲艦の模型です。2門の備砲の内、艦首の24ポンド砲は旋回しない固定式のスライド砲架ですが、後部のカロネードは円形のレールの上にスライド砲架を置き、全周旋回可能な物を用いています。
そして近い時期、大西洋を挟んだ後の超大国でも砲艦が非常に重視された時代が存在しました。続いて紹介するのは、19世紀初めから1812年米英戦争までに米海軍が主力とすべく注力していた砲艦群です。
こちらは背景から見ていくと、もともと独立戦争後のアメリカは、財政的にまともな戦力を保持できない時代がありつつ、18世紀末には北アフリカのバーバリ海賊による商船への被害や、フランス革命に伴う(アメリカにとってはフランスとの擬似戦争へと発展する)欧州情勢の変化から、新たな海軍を整備する必要性が認識されます。その結果として、今日まで名高いコンスティテューションを含む6隻のフリゲートを皮切りに新たな一歩を歩むのですが、それらの脅威が去った19世紀のジェファーソン政権下で流れが変わります。
続くマディソン政権下を含め、予定されていた戦列艦などの外洋艦に代わって砲艦の整備が大規模に行われ、最終的に257隻の砲艦が計画され170隻が就役する事になります。
この理由は複数ありますが、最大の理由はやはり砲艦がコストの低い兵器と見做された点です。コストパフォーマンスという意味では、フリゲートや戦列艦などと比較して安いかは正直疑問符が付くものの、当時の議会や党の支持を得る上で、表面上の数字が小さい事は魅力的です。
そしてコスト程の影響はないにせよ他の理由として、これまでの海軍整備は海運が盛んな北部しか恩恵を受けないと南部からの反発があり、対する砲艦は各地の沿岸防衛として南北共に恩恵があり、また各地の小規模な造船設備でも建造出来る点を含め他地域に配慮した兵器である点。そして外洋艦隊を整備したところで、どうせイギリスやフランス海軍と戦える戦力にはならないばかりか相手を刺激するだけと考え、それよりは陸上砲台などと組み合わせた防衛的な戦力を持った方が現実的だという意見も挙げる事が出来ます。
最後の視点は特に注目すべき物です。「格上相手に対しては正面戦力の整備では限界があり、搦め手を模索した方がコスト面含め有効」このような考えは、19世紀後半にフランスで提唱された青年学派Jeune Écoleでも大いに注目されるなど、いつの時代も議論の対象になってきた難題と言えるでしょう。
ジェファーソン自身は戦列艦など正面戦力を含むバランスの良い海軍の必要性を認識しつつも、コストの問題に加え、一定の正面戦力を持つにもかかわらず、格上の英海軍と敵対した結果、コペンハーゲンで大敗してしまったデンマーク海軍の例が意識にあり、その二の舞は避けたかったとも指摘されます。
また砲艦という艦種が選ばれた理由では、今回取り上げたスウェーデンでの活躍が影響したかは記録に残っていませんが、ロシアの砲艦が活躍した1788年露土戦争のリマンの戦いが影響していた事は分かっています。それに加え、アメリカは1801年より海賊対策として初の海外派兵である第一次バーバリ戦争を戦いますが、その際にシチリア王国より借りた砲艦の運用を通して沿岸での有効性を認識した事も理由として挙げられます。
こうして外洋艦隊に替えて砲艦に注力したアメリカ海軍ですが、結果的にその選択が正しかったと言えるかは、微妙と言わざるを得ません。
コストの安い小型艦は、その分外洋での能力等で劣る面があるのは言うまでもありませんが、その他にも維持費を含めたコストはそこまで安上がりとは言えず(平時は陸上で保管するか基幹要員のみ乗せておいて、戦時のみ民兵を補充する事で人件費を抑えるなんて手段で削減できるとされましたが)、加えて沿岸での行動がメインとなる為、若い士官や水兵が航海術を学ぶ場として不適切という思わぬ欠点も存在していました。
砲艦の活躍を見ていくと、バーバリ戦争後には(砲を下して艦内で保管する必要がありましたが)大西洋横断に成功し地中海での通商保護へ従事し、西インド諸島での海賊取り締まりにも参加、そして米英戦争後の1816年にはスペイン領フロリダで逃亡奴隷や先住民が立て籠るニグロ砦を赤熱弾で破壊した事などが知られています。
一方でその戦力が最も必要とされた米英戦争においては、片手間とは言え格上の英海軍相手に、沿岸防衛を果たせずに上陸や海上封鎖を許す事になり、砲艦の評価を貶める結果に終わります。
結果論的ですが、同戦争での米フリゲートの活躍や戦列艦が存在していた場合に英海軍へ与えていた圧力を考えると、砲艦に注力していた分をそちらに回していればという評価は当然なされる事になり、砲艦の整備は米海軍の建艦史の中でも、特に厳しい目で見られる出来事の一つとされています。
背景はここまでで実際の艦艇と砲架の話に移ります。砲艦の多くは2本マストの簡易な帆装と櫂を両用する小型艦であり、スイヴェル・ガンなどの小型砲を除く備砲は大多数が1門もしくは2門搭載しています。砲種は24ポンドから32ポンドのカノン砲もしくはカロネードなどで、砲架は上で見た英砲艦のような艦首固定式か全周旋回可能なスライド砲架が主な物でした。
しかし一部では今までにない独創的な物というか、衝撃的な見た目を持つ物もあり、11号、12号砲艦に搭載されたHenry Carberyという人による連装の円形砲架がそれです。
……図面は米国立公文書館にあるそうですが、残念ながら使用可能な画像をオンラインで見つける事はできませんでした。”gunboat no.3"で画像検索すると模型を見る事が出来ますが、一応ここにも色々省略してますが簡単な図を作ったので掲載します。
図6
文字でも説明すると、これは臼砲で紹介したような円形プラットフォームの上にスライド砲架を乗せたような姿ですが、驚くべき事に2門の大砲がそれぞれ逆方向に設置されています。その理由は両舷戦闘が可能などではなく、片方を発射した際の反動でプラットフォームが180度旋回し、装填しておいたもう片方を目標に向け素早く発射するサイクルを繰り返す、という運用法を想定したものです。
このような物が採用された事実とその挑戦心は素直に驚きですが、評価自体は採用艦の少なさから察せられるでしょう。ですが2門を1セットにした、ある意味原初の連装砲という点で歴史に残る試みと評価できるかもしれません。
・その4 ピボット砲架
ここまでは小口径砲、臼砲、ガレー船に砲艦と、前置きの通り主流でない物を紹介してきましたが、最後は比較的一般的な艦砲、艦種に搭載された例となります。
それが前々回でも登場したピボット砲架の一種を用いた物で、「ダブル・ピボット」や「シフティング・ピボット」式などと呼ぶ事もありますが、単純にピボット砲架だけでこの種を指す事もあります。また日本語だと幕末や明治期に確認できる「自在砲」という名称がこの種を指したりもしますが、同時にスイヴェル・ガンを指す場合にも使われる単語なので、今回は使用しません。
冒頭で述べたように、旋回砲架の欠点の一つはその場で撃った際の爆風の影響です。それに対して、この砲架は中心線上の砲を両舷まで移動させてやって、普通の舷側砲のように砲門やブルワーク上から砲口を出して発射する事で、上記の問題を回避しようという仕組みです。
砲の移動には前々回で解説したピボットとレールによる旋回機構を用いる場合が大多数で、その為に前後2つのピボットを切り替えつつ、レールも複数用いるのが特徴です。
図7
上の図は4か所に砲門を設けた艦首砲で、一見すると砲が2門ありますが、実際は異なる段階を一つの図に描いたものです。やや見づらいので、以下は筆者が改変した下の図を用います。
図8
まず図の一番上のように、砲は中心線上の初期位置から、赤点の位置にある後部のピボットを中心とし、赤く示したレールに沿って、四か所の砲門のいずれかの前まで砲架を旋回します。
そして図の二段目にあるように、所定の砲門にたどり着くと、今度は前部のピボットをそこに挿し、後部のピボットを外す事で、砲門前の小型のレールに沿って、前方を中心に旋回する事が可能になります。そうして一番下のように砲口を出した状態で目標へ指向する為の旋回を行うという流れになります。
このピボットを切り替える方法は1805年にミラー将軍(英陸軍のウィリアム・ミラーWilliam Millar中将と思われます)が最初に考案したとされ、その後確認できる範囲では、1830年代より主に蒸気軍艦の備砲として採用されています。当時の蒸気軍艦は外輪式で兵装の搭載範囲が限られ門数が少なくなる点を、旋回範囲の広さでカバーした事が想像できます。
そして移動に手間がかかりつつも、帆装に対して安全な方法という事で、後の時代にさらに採用は広がります。艦首尾に置かれた追撃砲の砲架としては、末期の戦列艦や初期の装甲艦と言った当時の主力艦にも搭載されました。
また追撃砲以外でも、炸裂弾の普及から装甲艦の登場と砲の大型化といった流れを経て、「数の重視」が薄まった時代、主な兵装としてこの種の砲架を利用する装甲艦も出てきます。それは装甲艦の発展史の方で紹介するとして、ここで注目したいのは南北戦争期の米海軍における使用例です。
図9
例として、上の写真は同戦争における木造艦隊の一角を担った、モヒカン級スループのキアサージUSS Kearsarge艦上で取られたものです。同級の備砲は7門と少なめで、4門は両舷に配置された32ポンド滑腔砲、1門は艦首の追撃砲である30ポンドパロット砲ですが、残る2門はそれらより遥かに大型な11インチダールグレン砲であり、それをピボット式でマスト間の船体中心線上に置いているのです。(上の写真でも砲の一部とレールが確認できます)
つまりこの艦も「数の重視」とは異なる、主砲的な存在の砲が主な兵装として重要視される傾向が指摘でき、またこの二門を両舷に指向出来るという事は、元祖砲塔艦である初代モニターと同等の火力を持つ意味し、旋回砲架の利用により艦のサイズに対して高い火力を実現している点が特徴になります。
なお装甲艦並の火力だからと言って、装甲艦相手に戦えるという訳ではありませんが、それでも実戦において、既存の非装甲艦相手に米スループ艦の火力は有効に働きました。例として、下関戦争で長州海軍を一蹴したワイオミングUSS Wyoming、そしてシェルブールの海戦におけるキアサージの南軍アラバマ撃沈などは、共に11インチダールグレン砲が非装甲艦相手に威力を発揮した海戦になります
・終わりに
今回は「砲塔的な旋回能力」という中々曖昧なテーマに注目し、様々な旋回砲架を見ていきました。そして冒頭でも述べた事ですが、それらの砲架は結局のところ(砲塔的という言葉を何度も使いましたが)、構造的には砲塔とは大きく異なる物でした。
具体的には甲板上で完結するか、それを貫通する下部構造を持つかという違いがあり、砲塔は下部構造のスペースや、甲板の開口部が必要です。また砲塔は砲の防御方法としても生み出された物ですので、装甲の有無も大きな違いです。そして装甲を持つという事は、その分重量がかさむため、旋回の為により効率的な機構や人力以外の動力の導入が進んでいる場合が多い傾向もあります。
一方で逆に言うと、砲塔の誕生以降も、それらの条件と合致せずに砲塔を載せられない、載せない場合において、それ以外の旋回砲架は選択肢の一つであり続けました。最後に紹介したピボット式の砲架などは、前述したように帆装を持つ艦に有用でしたし、また帆装を廃した時代になると、今回紹介した物とはまた異なる砲架が生み出され、発展していく事にもなるのです。
・これからについて
次回は今度こそ、照準器や発射法など当時の艦砲の運用面に関わる面を扱いたいと思います。パーシー・スコットによる近代的な方位盤より前の方位盤であったり、電気打方の導入であったりと、こちらも殆ど知らない事ばかりではありますが、本話も無事投稿出来た事ですし、時間がかかっても進めていきたいです。
また正真正銘の砲塔については現在調査中で、コールズ、エリクソンのそれ自体も興味深い一方、それ以前の実現しなかったアイディアも幾つか確認出来たので、それら含めていつかは紹介したいと思います。それでは、今回もご覧頂きありがとうございました。
主な参考資料
第16部分「更新再開と補足など」にまとめて掲載
画像出典(図5、6を除きパブリックドメイン)
図1 Alain Manesson Mallet ,Les Travaux de Mars, ou L’art de la guerre. Tome 3 ,1684 gallica.bnf.fr / BnF
図2 Pierre Surirey de Saint-Remy, Mémoires d'artillerie / recueillis par le Sr Surirey de Saint-Remy,1697 gallica.bnf.fr / BnF
図3 Udemafartyget TORBORG. Linje-, plan- och sektionsritning med akterspegel, Sjöhistoriska museet所蔵
図4 Gunnar Unger, Illustrerad Svensk sjökrigshistoria delen Omfattande tiden intill 1680-1814, 1909
図5 Warship (1808); Gunboat, National Maritime Museum, Greenwich, London, CC-BY-NC-ND
図6 筆者作図
図7 Bureau of Ordnance, Instructions in Relation to the Preparation of Vessels of War for Battle, 1852
図8 同上(筆者改変)
図9 NH 61669 , USS Kearsarge (1862-1894), courtesy of Naval History & Heritage Command