第二話 滑腔砲とその砲弾(その2)
前回に引き続き滑腔砲関連。今回は球形実弾以外の砲弾を紹介していきます。
・帆装破壊用の砲弾
17世紀後半から19世紀の中ごろに至るまで、海戦の主役は帆のみを動力とした船であり、マストが折れたりした場合はもちろん、帆やそれを操作するロープ類がやられた場合も機動力を著しく低下させることになります。最初に紹介するのはそういった、帆装にダメージを与える事に特化した海戦特有の砲弾です。
特に有名なのは、二つの球体もしくは半球状の弾をダンベルのように鉄棒でつないだ物(bar shot)と、画像1のように鎖でつないだ物(chain shot)の二つが知られています。両者ともに砲弾同士が繋がれた分幅が広いので、マストやロープ類に当たりやすく、帆の広い範囲を破くことが可能でした。一方でその形状から船体に当たった場合の効果は劣りますが、甲板上にいる人員を倒す分にも幅の広さは有利です。
相手の帆装を破壊するメリットは通常の戦闘でもありましたが、それ以外には有力な敵艦から逃れる際や、通商破壊任務で標的の船を逃げられなくする際によく使われました。その為世界で最も有力な艦隊を持つイギリスよりも、それから逃げたり通商破壊戦を仕掛けたりする事のあったフランスやアメリカといった国の艦艇の方が多めに搭載していたようです。
・散弾
散弾は大きく分けると二種類あり、図2のキャニスター(canister)もしくはケースショット(case shot)と呼ばれるもの、そして図3のブドウ弾(grape shot)が存在します。
まずキャニスターは金属製の円筒に銃弾サイズの鉄や鉛の散弾を詰めて撃つもので、発射の衝撃で蓋が外れ、中の散弾が広がりつつ飛んでいきます。ようは巨大なショットガンの弾のようでで、特性もショットガンと同じく射程は短いものの、散弾が広がる範囲で兵士や軍馬といった軟目標に大きな被害を与えることが可能です。陸戦では主に砲兵の自衛用として、海戦では接舷前に近距離から発射して、甲板上の敵兵を排除するのに用いられました。
日本語だと幕末に鉄叢筒だとか鉄葉弾という訳語が存在したようですが、明治以降にはブドウ弾が廃れた為、散弾(当時は霰弾という表記も)と言えばキャニスターのみを指す言葉になりました。
ブドウ弾は銃弾サイズよりも大きい散弾を用い、図3左のように、これを板に乗せた上で帆布やロープで束ねた物を撃ちだします。名称もその形がブドウの房に似ている所から来ていますが、後年になるとこれに代わって、図3右のように板の間に挟む方式が考案されました。
使用法はキャニスターとまったく同じですが、散弾の数が少ない分対人用としての効果はやや劣り、その点から陸戦ではあまり使われませんでした。その代わりに一発一発の破壊力で勝るので、海戦では対人用だけでなく帆装への効果を期待された面もあるようです。
1849年に英国で行われた32ポンド砲を使用した試験では、散弾は距離100ヤードにて9mmの鉄板もしくは3インチのオーク材を貫通。それに対してブドウ弾は距離200ヤードでも19mmの鉄板もしくはオーク材5インチを貫通し、6インチのオーク材でも破片を裏側に飛ばすことが可能とされています。
また散弾と同じ効果を狙った物として、緊急時に屑鉄など飛ばせば殺傷力のありそうなものを詰め込んで撃つ場合もありました。これはラングレッジ(langrageもしくはlangridge、他にはlangrelという表記も)と言い、某有名海賊映画シリーズの第一作で主人公側が使用したシーンが有名かもしれません。
・焼夷弾
前回話したトラファルガーの海戦にて、戦闘中に撃沈された唯一の艦の沈没原因が爆沈だったように、木造船にとって火災は大敵です。一方で球形実弾を撃ちこんでも砲弾のみで火災を起こすことはできませんから、それとは別に火災発生に特化した焼夷弾も存在します。そういった砲弾は艦艇の他には、敵陣地の建物や弾薬庫への着火を狙って用いられました。
これも代表的なものは二種類あり、まずは球形実弾を専用の炉で赤熱するまで熱した上で撃つ方法、赤熱弾(red hot shot)や焼弾(heated shot)と呼ばれるものです。
砲弾を赤熱させるまでに要する時間は、既に熱せられた炉に24ポンド砲弾を入れた場合、30から40分程。装填時には発射薬に引火しないよう、間に濡れた綿や粘土などを挟んで暴発を防いでいました。やや手間のかかる方法ですが、撃ちだされた赤熱弾が可燃物に当たれば、その部分から盛んに煙を出し、最終的に着火させます。
また赤熱弾の貫通力は普通の砲弾と変化はなく、同じ破壊効果が期待できますが、舷側を貫いて甲板上に転がってしまうと、木材に触れる面積の都合で着火し辛く、勇気ある敵兵によって海中に投棄される可能性もあります。そこで舷側の木材の中に留まるよう発射薬の量を減らして打つことが多かったそうです。
実戦での使用は1779年から83年に行われたジブラルタル包囲にて、これを使用した要塞側がフランス・スペイン艦隊に大損害を与えて撃退した例が知られています。
ここからも対艦用として非常に有効な手段であった事がうかがえますが、艦艇側がこれを用いる場合には不都合な点がいくつかありました。最も大きいのは、砲弾が飛び込んで来る可能性の高い砲甲板上に炉を置いて火を焚く必要がある点で、つまり敵艦に火災を発生させるのと同じくらい、自艦で火災が起こるのを覚悟しなければならなかったのです。
そして一部の例外を除いてそのリスクを冒した艦は少なく、水上戦闘で使われる事は殆どありませんでした。
その例外としては革命戦争中の1795年、イギリスのフリゲート「ライブリー(Lively)」がフランスのコルベット「Tourterelle」と交戦した際に、赤熱弾を食らって帆と操具の一部を焼失したことが知られています。この戦いで「ライブリー」に大きな損傷はなく、コルベットを大破降伏させて決着がつきますが、フランス海軍では総合力で勝るイギリス海軍に対抗するため、リスクを冒してこのような強力な兵器を求める傾向がありました。また帆に損傷を与えたことから、赤熱弾はフランス海軍の帆装狙いの戦術とも相性が良かったと推測されます。
もう一つはカーカス(carcass)と呼ばれる物で 、図4のように複数の穴が開いた中空砲弾、前回紹介した所の「shell」の中に、可燃性の混合物を充填した砲弾です。
東ローマ帝国の時代には「ギリシャの火」と呼ばれる成分不明の焼夷兵器があり、これを入れた容器をカタパルトで敵に飛ばす事もあったようです。17世紀後半にフランスで登場したこの砲弾も、時代や手法は異なりますが、目的は似た物と言えるでしょう
当初のカーカスは手作業で着火してから装填する必要があるという、大変な危険を伴う砲弾でしたが、後年には発射ガスに触れることで自ら着火することが判明。燃え盛る火の玉になって飛んでいき、可燃物に命中すればそれに火をつけます。ただしギリシャ独立戦争にてこの砲弾を使用したフランク・ヘイスティングス(Frank Hastings)艦長によれば、木造船への効果は赤熱弾に劣っていたそうです。さらに構造上衝撃に弱く、平射砲よりも曲射砲での使用が望ましかった点、そして自艦に火災のリスク増すのも変わらない点から、こちらも主要な艦艇での使用は控えられました。
・炸裂弾(榴弾)
上で触れたように内部に炸薬などを詰めた砲弾を「shell」と呼びますが、カーカスなど炸薬以外を詰めた砲弾も「shell」に分類されることから、より厳密に「explosive shell」と表記される場合もあります。
炸裂弾自体は11世紀の宋の代に存在していましたが、大砲から撃ちだす物は15世紀の欧州で登場したと言われます。当時は爆発した際の音からボム(bomb)と呼ばれ、長い間臼砲や榴弾砲といった曲射砲の砲弾として用いられていました。
構造は図5にあるように炸薬が充填された中空砲弾に、内部に接する深さまで信管を差しこんだものになります。当時の信管は木や紙の管の中に導火薬を詰めた曳火信管と呼ばれるもので、機能としては時限信管の一種、もう少し砕いて言うと漫画的な表現で出てくる爆弾の導火線と似たようなものです。
カーカスと同じように装填前の手作業、後年には発射ガスにより導火薬が燃焼を始め、一定時間管の中で燃え続けて奥に達すると炸薬に引火する仕掛けです。燃焼時間は管の長さなどで調節可能で、うまく爆発のタイミングが合えば目標に命中するだけでなく、敵艦の甲板を破って奥深くの弾薬庫で爆発させたり、敵部隊の上空で爆発させて広範囲に破片を降らせたりと、最大限の効果を発揮することが可能になります。
逆に言えば、適切なタイミングで爆発できるかによって効果は大きく左右され、短すぎれば敵に被害を与えない場所で爆発しますし、逆に長すぎれば爆発する前に消火されて無力化してしまう事もありました。さらに海面で反跳するなどして信管が濡れると不発になりやすいのも特徴で、これは曲射砲ではともかく、のちに平射砲でも炸裂弾が用いられ始めると問題とされました。
このような欠点こそあれ、爆発の威力に加え火災を発生される炸裂弾は木造船に対して絶大な効果を発揮しますが、これもカーカスと同じく19世紀初頭までは構造上の不具合から平射砲で使用する事はできず、臼砲など曲射砲のみに限られました。(時事ネタですが今年の大河の第一話でも臼砲で炸裂弾の実験をするシーンがあったと思います。失敗してましたが)
そして曲射砲は精度の問題があり、それ以前に被弾時には誘爆の危険性あるというデメリットが強調されため、主要な艦艇では使用されませんでした。
その代わりに陸上砲撃用に臼砲を主兵装とする専用艦が建造され、もっぱらそういった艦で盛んに使用されました。
(アメリカ国歌には「ボム」が空中で爆発する様が歌われていますが、これは1812年米英戦争にて、英海軍の臼砲搭載艦が行った艦砲射撃に由来するものです)
一般的に平射砲で炸裂弾が使えるようになるのは、1820年代にフランス陸軍のアンリ・ペクサン(Henri Paixhans)大佐が開発した大砲、いわゆるペクサン砲の登場以降とされています。この砲に関する実験や与えた影響などは今後の章で詳しく取り上げたいと思いますが、3、40年代に各国はこのペクサン砲に準ずる艦砲を採用し、主要な艦艇でも炸裂弾を用いるようになりました。その中にはペリー艦隊の艦も含まれていました。
そして海戦が炸裂弾の打ち合いになれば、戦列艦を含む木造軍艦が持つ防御力ではとても耐えられないのでは、という考えも同時に生まれ、クリミア戦争でそれが証明されると、対抗する形で鉄の鎧をまとった艦、装甲艦が主力となる時代へ突入していきます。
ちなみに炸裂弾の名称の一つである「榴弾」は、砲弾がザクロ(フランス語でgrenade)の実のように弾ける様から来ているとするのが有力です。今日「grenade」を語源とする単語はフランス語や英語では手榴弾を指し、大砲の炸裂弾を表す際には使用されませんが、ドイツ語など他の言語では使用している例もあります。オランダ語もその一つで、大型の炸裂弾をボム、より小型の物をガラナート(granaat)と言い、この用語が西洋砲術と共に幕末の日本に伝わった結果、榴弾という言葉の源になったと考えられます。
最後の図6は散弾の一種でもある榴散弾で、18世紀末に英国のヘンリー・シュラプレル(Henry Shrapnel)により開発されたことから、彼の名前をとって「shrapnel shell」とも呼称されます。(実は16世紀のドイツで似たような砲弾がすでに存在しましたが、この時代まで忘れられていました)
初期の榴散弾は「spherical case (球形ケースショット)」と呼ばれる事もあるように、乱暴に言ってしまうとボムの中にキャニスターの散弾を混ぜた物です。中空弾の中に入った散弾はキャニスターとは違い勝手にばらける事はなく、曳火信管で調節された時間に爆発して散弾をばらまきます。つまりキャニスターよりもはるかに有効射程が長く、なおかつ信管の調整次第ではこれまでのように近距離射撃も可能と、より幅広い場面で使用できました。
陸戦ではキャニスターに取って代わっていった榴散弾ですが、海軍の方ではちょっと違う流れを辿っています。今までキャニスターがやっていた接舷時の掃射に加え、長い射程を生かして陸上砲撃にも使える便利な砲弾として需要はあったはずですが、ペクサン砲以降でもすぐさま艦砲に採用されたわけではないようです。どうやら初期の榴散弾を高初速の平射砲で用いた場合、普通の炸裂弾よりも腔発を起こしやすい問題があったようで、これを解決したボクサー大佐の改良砲弾が登場するのはライフル砲の登場を控えた1850年代になります。
この他には照明弾やガス弾もこの時点で開発されていましたが、あまり資料が無いので割愛します。
以上のように、滑腔砲の時代にはメインである平射砲に一番強力な砲弾(炸裂弾)が使えない、というジレンマを抱えつつも、球形実弾以外にも多種多様な砲弾が生み出され、使用されていました。(この中にはライフル砲でも形を変えて受け継がれた砲弾もあれば、共に消えていった物もありますが、これは今後の章で扱う予定です)
そしてライフル砲の開発が盛んに行われ、滑腔砲の地位が脅かされ始めた1850年代にも、新たな砲弾が開発されていた事が知られています。と言う頃で、次回はそういった滑腔砲の末期に登場した焼夷弾の一種、マーティンの溶鉄弾を紹介したいと思います。
「第三話 遅れてきた大物:マーティンの溶鉄弾」
主な参考資料
有坂鉊蔵『兵器考. 砲熕篇 一般部』雄山閣 1936年
『開陽丸 : 海底遺跡の発掘調査報告. 1.』江差町教育委員会 1982年
業鹿力多・般牒兒・多児冷他『海岸砲術備要』山崎屋清七他 1852年
H. Garbett, Naval Gunnery, 1897
Howard Douglas, A Treatise on Naval Gunnery fifth edition, 1860
画像出典
図1 Naval Gunnery, 1897 パブリックドメイン
図2、5 『海岸砲術備要』1852 国会図書館デジタルアーカイブより(保護期間満了)
図3、6 Thomas Longmore, Gunshot Injuries, 1895 パブリックドメイン
図4 ウィキメディアコモンズ(https://commons.wikimedia.org/)より パブリックドメイン




