第15話 装甲板に関する補足(前:「鋼の時代」はまだまだ先、後:カタログ上では見えない部分も)
お待たせしました
まずは今更な気もしますが、10話にて予告していた鋼の話から始めましょう。
・「鋼の時代」はまだまだ先
鋼とは銑鉄と錬鉄の中間の炭素量を有する鉄の事であり、錬鉄より硬く鋳鉄より強靭な金属です。それに加えて錬鉄のように鍛える事が可能で、さらに熱処理によって硬さや強度を大きく変化させる特性を持っていると言う風に、装甲にとって理想的な材質となる可能性を秘めていました。
一方でその製造には手間がかかり、19世紀半ばになるまでは大量生産が難しいものでした。
産業革命以前のヨーロッパで主流だった製鋼方法は浸炭法と呼ばれるもので、一度製造した錬鉄に適当な量の炭素を吸着させる事で鋼を得る方法です。浸炭法で製造された鋼は浸炭鋼とも呼ばれます。(19世紀末より戦艦などに使用された装甲にも同名の物がありますが、炭素を吸着させる部分が共通するだけで別物です)
また18世紀半ばには、イギリスのベンジャミン・ハイツマンが坩堝法を発明。坩堝の中で浸炭鋼を溶かして、不純物を取り除いた均質な鋼を製造する事に成功しています。
しかしどちらの方法も、一度錬鉄を経た状態から鋼を生み出す製法である事から手間がかかり、また一度に得る事の出来る量が限られる点も問題となります。のちに登場したパドル法も、炭素を完全に除いてしまう前に中身を取り出せば、理論上鋼を得る事が可能であり、実際に鋼の生産も行われていたとされますが、タイミングが難しく大量生産へは繋がっていません。
これらの状況は1855年、ベッセマー転炉の発明により一変します。銑鉄から一気に鋼を得る事が可能になるこの方法は、以前の方法とは比べ物にならない短時間で大量の鋼を生産できる革新的な物でした。そしてこれ以降、大量生産された鋼が工業製品に用いられる「鋼の時代」に突入していく、というのが一般的に語られる歴史になります。
しかしながら装甲の話では、最初期の装甲艦で錬鉄が使用された事実からも分かるように、この時点では鋼は使用されていません。
ベッセマー転炉は不純物の一種であるリンを取り除けずに、原料によっては非常に脆い鋼になってしまうという問題点があったりもしましたが、それ以前に当時の装甲で最も重要なのは強靭さであって、その面で錬鉄に劣る鋼は装甲材質としても劣るという評価が下されていた事になります。
実際の例としては、1958年に4インチの鋼もしくは坩堝法による低炭素鋼(当時の文献では「homogeneous metal」と表記される)の装甲板を旧式の木造艦に装着して、68ポンド砲による射撃実験が行われました。
その際には距離400ヤードから射撃が行われたにも関わらず、どちらの鋼板も同条件で錬鉄板を100ヤードから撃った場合(12話参照)と同程度の損傷を受けており、錬鉄板よりも強度に大きく劣るものと判断されています。
この他には1864年、鋼の装甲に興味を持ったロシア海軍が英仏より鋼板を輸入して試験を行っていますが、こちらも採用に至る程の性能は認められていません。
これ以降、実際に鋼の装甲が用いられるようになるのは、ベッセマー転炉の欠点を解消したトーマス転炉や平炉法などの製造法が登場し、また砲弾自体も硬化処理を施すなどして貫通力を増していった1870年代末まで待たなければなりません。
それまでは装甲板に関しては、「錬鉄の時代」が続いて行く事になるのです。
以降は初期の装甲艦が用いていた錬鉄板に話を戻して、(普通は装甲厚と材質ぐらいしか書いてないであろう)カタログスペックだけでは見えてこない部分、主に装甲板の製造や装着法に関するちょっと詳しい部分に入っていきたいと思います。
・装甲板の製造元
まず装甲板の歴史の中で特徴と言える事として、少なくとも英仏など主要海軍国において、その製造は海軍工廠などではなく、民間企業が中心であった点が挙げられるでしょう。
理由としては一部推定になりますが、当時は産業革命後の鉄道需要などを受けて、多くの鉄鋼会社が勃興していた時期でもありました。その中で新たな事業として、装甲製造を含む兵器産業に注目した企業が少なからず存在した事、また英海軍は鉄船の建造でも一時期は民間に頼っていた事から、単純に技術的にも民間企業の方が優れていた事も推測されます。
具体的な製造元の名前を挙げていくと、イギリスは以前より鉄鋼業の中心として栄えていたシェフィールド(Sheffield)の企業が有名であり、中でもジョン・ブラウン社John Brownのアトラス鉄工所とチャールズ・キャメル社Charles Cammellのサイクロプス鉄工所が代表と言えるでしょう。
またこの二社は後に造船業へも進出し、海軍艦艇の建造に大きく関わっていく事でも知られています。(同地の鉄鋼会社出身としてはヴィッカース社Vickersが最も成功した会社と言えますが、業界への参入はもう少し後になります)
他の製造元はロンドンのミルウォール鉄工所Millwall iron works、ロザラム(Rotherham)のサミュエル・ビール社Samuel Beale、ジャロー(Jarrow)のパルマー造船製鉄会社Palmer shipping and iron company、リバプールのマージー製鋼製鉄会社Msersey steel and iron company、ジョセフ・ホイットワース社、アームストロングのエルジック工場など。もちろんウォーリアを建造したテムズ鉄工所、ブラックプリンスを担当したネイピア社のパークヘッド鍛造所Parkhead forgeもこれに加わります。
またフランスの場合、有名所としてはクルーゾー(Creusot)のシュナイダー社Schneider、そしてリヴ=ド=ジエ(Rive-de-Gier)のペタン=ガーディッドPetin et Gaudetが有する鍛造所の二つとなります。
後者は兵器会社として著名なシュナイダーと比べると、あまり聞きなれない名前かもしれませんが、のちにサン・シャモンSaint-Chamondの名前で知られる会社の一部と言えばピンと来るかもしれません。
他に装甲を製造していた場所としては、アルバール(Allevard)のウジェーヌ・シャリエールEugène Charrière、ルーアン(rouen)のロブニエール社Laubenière、ニエーヴル(Nièvre)の国営鍛造所といった名前が確認できます。
・装甲板のサイズについて
装甲区画は艦のサイズにもよりますが、普通は数十メートル以上の長さがあり、これを一枚で覆うような装甲板を用意するのは当然不可能です。そこで区画内に複数枚の装甲板を敷き詰めて装着する形になります。例としてウォーリアの場合は15フィート×40インチ、重さ約4トンの装甲板を使用していました。
この場合、装甲板の端の部分は少なからず防御力が落ちてしまう場所になるので、なるべく一枚一枚の面積が多い装甲板を使用している艦の方が、端の部分に命中する確率が少ない分優れている事になります。ただし装甲板のサイズが大きすぎれば技術的な問題から品質が落ちてしまう事も指摘されており、その点のバランスをとる必要がありました。
・ハンマー対圧延
装甲板はパドル法で製造された棒状の錬鉄を原料に、これを蒸気ハンマーか圧延機のどちらかを用いて鍛えなおす事で製造されます。ウォーリアの装甲板はハンマーによる物で、姉妹艦ブラックプリンスはハンマー中心ながら一部に圧延板を使用、次のディフェンス級の2隻ほぼ圧延板のみと、その選択は製造元によって異なるものだったようです。
少なくとも1860年ごろの時点では、どちらの方法も当時の4.5インチ程度の装甲板なら、品質的に満足の行く物を製造できるとありますが、同時に圧延機では製造できる厚さに限界があり、ハンマーは仕上がりにムラができる点が指摘されていました。そしてイギリスの場合は1861年に、ジョン・ブラウン社が圧延法に改良を加えた事もあって、時期が下ると圧延板のみが使用されるようになっていくようです。
・装甲の品質
この時代の装甲も後の時代と同じように、厚さ材質ともに変わらない物でも、(上記の製造元や製造法を含む)様々な条件によって、実際の防御力が異なる事も普通にありました。
具体的なデータは把握していないのですが、イギリスでは射撃実験の結果から、装甲板をA1~3、B1~3の六段階で評価しており 4.5インチ厚の場合、最高品質の物(A1)と平凡な物(B1)の間には、1インチ分ほどの防御力の差があるとする記述も存在します。
またある時にフランス企業の装甲板を輸入して試験を行った所、A1クラスの品質だと評価されていましたが、のちに追加で購入した物はそれ以下の品質であり、やはりばらつきが存在したと事が確認できます。
また当時英仏米の三カ国で行われた試験を見ると、フランスで製造された装甲板、特にペタン=ガーディット製の物が優れていたという印象を受けます。
・再びアーマーボルトや背材の話
12話並びに13話と重複する内容ですが、錬鉄の装甲板はアーマーボルトによって裏側の背材と共に装着されるのが基本の形となります。そしてこの時代は装甲そのものだけでなく、この背材やボルトを含めた構造によって防御力を発揮する物でした。
まずアーマーボルトについては、当初は装甲板や背材を貫通する形であった為、先端の露出部分の近くに被弾した場合、破損したボルトの破片が艦内部に飛び散り被害が出る可能性があった事。また装甲が砲弾に耐え続けていても、衝撃で多数のボルトが折れるか緩むなどすれば、装甲板が脱落してしまう恐れもありました。
そこで13話で見たように、フランスでは全体を貫通しない木製ボルトを導入、イギリスも大型化とワッシャーに改良を加えたボルトを開発して、基本的に満足の行く強度を確保しています。
一方で他の対策として、ボルトその物ではなく装甲板の構造を工夫して、この問題を解決しようとする研究も存在しました。
上の図はアメリカの装甲艦「ガリーナGalena」の断面で、複雑に重なり合った装甲板の中にボルトの先端が隠れるように装着して、直接砲弾が命中しないよう工夫しています。
仮に装甲板を一枚外す必要が生じた場合、どこまで手間が掛かるのか気になるところですが、それ以前に同艦は素の装甲厚が3インチ程度と薄かったので、実戦投入された南北戦争では防御力不足で大きな被害を受けていたりもします。
次に厚い木材が用いられる背材は、鉄の装甲が導入されたこの時代でも、被弾時の衝撃を吸収して船体構造への損傷を減らすほか、装甲が破られた際に発生する破片を吸収するなど、防御上非常に重要な役割を有していました。
しかし十分な厚さの木材を設けるとなると、重量や占拠するスペースの大きさが問題になり、防御力を犠牲にせずにこれを減らそうとする研究も進められていきます。
その例の一つとして上の図は スコット・ラッセルが考案した装甲標的になります。約4.4インチの錬鉄板の後ろには木材を全く用いず、その代わりに薄い鉄板を複数枚重ねて背材とするもので、鉄の部分の合計厚は8インチ強になります。
(なおボルトも全体を貫通しないようになっていて、被弾時の対策をしているのが確認できます)
この標的は1862年に110ポンドライフル砲と160ポンドの球体弾を用いる10.5インチ砲により試験されており、後者の命中弾では背材の破片が飛んで、防御を一部破られています。これだけなら厚い背材を設けたウォーリアの装甲標的が受けた被害と大差ないと言えるものですが、装甲背後に設けられた肋骨への損傷は同標的よりも激しいものでした。
そこから砲弾による装甲への貫通力とは別に、命中時の打撃力に対する防御としては劣るものだった事になります。
また1861年より建造されたイギリスの装甲艦「マイノーターMinotaur」は、ウォーリアより大型の排水量1万トンを超える艦であり、舷側装甲の錬鉄板は5.5インチと1インチ厚いものを使用していました。しかし背材に使用される木材の厚さは9インチに半減しており、それによって射撃試験ではウォーリアの標的に劣る結果を出してしまいます。
この事は背材の需要性を大きく強調する結果として注目されたのですが、実は使用された発射薬が違う物で、単純に比較できる結果ではなかった点も指摘されています。
それでも装甲板が1インチ厚さを増したにも関わらず、背板の構造により明確に防御力が向上しなかった一例と言えるでしょう。
一方で防御力を損なわずに背材の削減に成功したのが、63年より建造された「ベレロフォンBellerophon」より導入された構造となります。
図は同艦を模した標的の断面図で、構造を見ていくと、外側から錬鉄の装甲板、背材の木材、船体外板の鉄板(その内側にはそれらを固定する肋骨)があり、これだけならウォーリアから変わらないものでした。
その中で新たに追加されたものとして、図の左で確認できるように、木材の中に一定間隔で鉄製の縦通材が取り付けられています。これにより被弾時のクッション効果を保ちつつ、必要な厚さを減らす事に成功したのです。(元々はチャルマーズと言う人が考案した標的を参考にしたものですが、その標的とは違って縦通材は装甲へ負担がかからないよう、直接触れない程度の長さになっているのが大きな変更点です)
これにより装甲板と木材の比率はウォーリアの1:4から、本艦では装甲6インチ木材10インチの1:1.67まで削減。鉄材が増えた分、本艦の時点では重量効率はそこまで向上していないのですが、以降の艦はさらに木材の比率を減らしていき、攻撃側の進歩により必要とされる装甲厚が増加するなかで、貴重な重量削減を担う事になります。
最後に鉄製船体を持つ艦は、背材のさらに背後に鉄の外板が設けられますが、これも装甲や木材の破片を受け止める事で、防御力に大きく寄与します。そしてウォーリアなどの外板は5/8インチ(約16mm)でしたが、上記ベレロフォンや以降の艦では1.5インチ(38mm)や1.25インチ(32mm)となっており、この部分も強化(確認できませんが木材が減厚した補償かもしれません)されている事が分かります。
また面白い例として、イギリスが63年より建造したロード・クライドLord Clyede級装甲艦は、木造船体を有し、当然鉄の外板は必要ない事になるのですが、本級はわざわざ1.5インチの錬鉄板を背材の内部に別途設けています。つまり重量的には外側の装甲板を1.5インチ増強できたにも関わらず、外板が有する防御効果を再現する方を選択した艦となります。
・一枚板VS積層板
装甲艦の登場から60年代までに用いられた装甲は、必要とされる装甲厚に製造技術が追いついていた事もあり、厚い一枚板の物が基本でした。
しかしながら例外も存在し、特に米国の装甲艦は一部の艦を除いて、殆どが薄い鉄板を重ねた「積層板」を使用していた事で知られています
上の図は米海軍の装甲艦「ディクテーターDictator」の断面図で、水線部には1インチの錬鉄板を最大で6枚用いて、42インチという分厚い背材に固定しています。
(なお装甲のすぐ後ろには厚さ5インチの板が一部に存在し、これを含めた部分の厚さは11インチになります。ただしこれはあくまで、構造の補強を目的に一定間隔を空けて設けられた物なので、防御力は限定的です)
本艦のような積層板による装甲は、当然砲弾の貫通を防ぐ上で、同じ厚さの一枚板の装甲板に劣るものでした。具体的な資料には少々欠けるのですが、同時期のイギリス海軍では6インチ積層板は4インチ厚の一枚板に劣ると主張されており、仮にそうであれば、数字の上での厚さよりもかなり防御力に劣る事になります。
それにも関わらず積層板を採用した理由については、製造技術の限界から、厚い一枚板の装甲で品質を維持できなかったという点が第一に挙げられます。しかし当時の論説を見ていくと、米海軍関係者もその点を認めつつも、積層板には一枚板の装甲よりも優れる点もあると主張しているようです。
その一つ目は砲弾の(貫通力へは弱くとも)打撃力へは強いという点で、つまり度重なる被弾により装甲が割れて、崩壊してしまうような状態になり辛い事になります。この点はイギリス側の実験でも認められているようです。
そして二つ目はボルトへの負担が少ない点です。前述したように英仏海軍共にボルトの破損対策を行っていましたが、これはあくまで建造後の健全な状態を想定したものです。実際の艦艇は、航海中に絶えず軋む船体構造と、変形しない装甲板との間で負担が掛かり、この二つを繋げるボルトやボルト穴の強度が低下します。
そのような状態で強い打撃力を有する攻撃を受ければ、装甲が脱落する可能性はより高い物になります。対する積層板は、それ自体が柔軟な構造を持つことで、負担が掛かり辛い点で優れるとの主張になります。
そして当時の米艦艇では、貫通力よりも打撃力に優れた大口径滑腔砲を広く採用していた事で知られています。そういった艦艇と戦闘を行う上では、この二点が事実であれば積層板の方が好ましい面があるのも納得できる事かもしれません。
終わりに
まずは今回もご覧いただきありがとうございます。個人的に装甲関連はこだわりたい部分だったので、本作では国内の書籍等では中々見られない内容にも一部踏み込んでみたつもりです。
ですが自分の怠慢もあって、利用できる資料の表面をなぞった程度に過ぎないというか、まだ埋まった情報はたくさん残っている状態です。できる事なら拙作をきっかけに、この分野に興味を持って掘り返してくれる人が出てきてくれれば、なんて勝手な事を思っていたりもします。
今回で装甲メインの話は一旦おしまいとして、次回以降は予告通りライフル砲について語る予定です。
最初は基本的なライフリングの種類などを紹介すると思われますが、それとは別に今回も話題に挙がった「貫通力と打撃力」に関する議論なども取り上げたいので、結局装甲に関連する話にも戻る事になりそうです。
主な参考文献
H.M.S Excellent, Experiments with Naval Ordnance, 1866
Edward Reed, Our Iron-clad Ships, 1869
David A, Wells(ed.), Annual of Scientific Discovery, 1863
その他以前に挙げた本など
画像出典
図1、2 Alexander Holley, Treaties on Naval Ordnance and Armor, 1865(パブリックドメイン)
図3 George Holmes(ed.), Transaction of the Institution of Naval Architects,1879(パブリックドメイン)
図4 Our Iron-clad Ships, 1869(パブリックドメイン)