第14話 その5(人間の鎧と艦艇の装甲、鉄板以外じゃダメなんですか?)
大変長らくお待たせしました。
かなり時間が空いてしまったので、前回の予告の中から、変わり種装甲の部分だけを先行で公開します。これまでとは結構毛色が違う内容ですが、お楽しみいただければ幸いです。
はじめに
まず前回までは、19世紀以降の装甲艦艇について、初期の実験からクリミア戦争の浮き砲台、装甲フリゲートの建造に至るまでの流れを見てきました。そこで用いられた艦艇用の装甲は、基本的に厚い錬鉄の板であり、それを背板と共に舷側や前後の隔壁といった装甲範囲に敷き詰める形で装着するものだったかと思います。
一方で同じく防御のための装甲というと、人体を守るための鎧は遥か昔から存在します。そして鎧の構造には、艦艇用の装甲と同じような物(鉄板もしく鉄片を組み合わせて板状にしたもの)とは別に、鉄の鎖帷子や青銅の鎧、他には革や布、木など有機物を用いたものなど、様々な防御法があった事が知られています。
それでは、それらの防御法を当時の艦艇へ使用する試みもあったのでしょうか。この疑問に対する答えとしては、決して主流にはならなかったが確かに存在し、計画だけでなく実際に採用され実戦を経験した例すらある、というものになります。
今回はそういった、脇道に逸れた装甲案の一部を紹介したいと思います。
木の鎧
まずは当たり前の話ですが、木は長らく船の主な材料だったので、そう言った船では、船体の木材が装甲的な役割を持つ事になります。例として戦列艦の舷側では、最大で厚さ30インチ(76.2cm)にも達する木材が使用されています。ただしこの厚さでも、当時の近距離戦闘では防御力に限界があるものでした(第一話に掲載した滑腔砲の貫通力を参照)。
これ以上の特筆すべき厚さを持つ艦としては、初の蒸気軍艦である米海軍のデモロゴスが存在します。米英戦争に沿岸防御用の浮き砲台的な役割が期待されたこの艦は、舷側になんと60インチ(152.4cm)と、戦列艦の二倍もの厚さの木材を使用していました。
上述した貫通力と比較すると、こちらは32ポンドクラスの主要な艦砲にも、近距離で十分な防御力を有していた事になります。
一方で厚くとも木材の欠点として、赤熱弾や炸裂弾など焼夷効果のある攻撃に弱い点が挙げられますが、それらの砲弾は当時の艦船で使用される事が少なかったので、来襲する英海軍から本土を守る上では適当なものだったのでしょう。
またこの他にも南北戦争時の河川砲艦には、装甲艦と対比して「ティンバークラッドTimberclad」というそのままの呼ばれ方をしていた艦種が存在しました。
ただこちらで使用された木材は、艦砲クラスの防御を目的とした厚さではなく、あくまで装甲艦と違って木の装甲しか持っていない、という意味での呼び名となります。
(同じような名前として「ティンクラッドTinclad」と呼ばれる砲艦もあり、こちらは実際にブリキの装甲を貼ったのではなく、木造の船体に申し訳程度の薄い鉄板を貼った事から「ブリキ艦」的な皮肉が込められた名称なります。)
革の鎧
次に動物の皮革を用いた装甲は、やや年代が遡る18世紀の例ですが、アメリカ独立戦争中に発生したジブラルタル攻囲にて使用された事が知られています。強固な要塞を有する同地を攻略できずにいたフランス、スペイン海軍は、切り札として要塞からの反撃を吸収する防御力を持った陸上攻撃用の浮き砲台10隻を建造、投入します。
これは文字通りクリミア戦争で投入された装甲浮き砲台の祖先にあたる兵器なのですが、皮革の使用に関しては、攻城塔や破城槌といった陸上用の攻城兵器にて防火用に使われていた例があるので、そちらからの応用だと思われます。
なお防御構造の中で皮革が貼られたのは甲板のみで、これは艦の上空や甲板上で炸裂した曲射砲弾への防御を期待されたものでしょう。
対する舷側の構造にも触れておくと、こちらは木造の船体の外側にもう一層木の外板を設け、この間に鉄の格子、コルク、濡らした砂を充填する、厚さ1.8mの複合構造となっていました。厚さからくる実体弾への防御力はもちろん、特に脅威となる赤熱弾を砂の層に留め、着火を防ぐ構造は特筆すべきものと言えるでしょう。内部にはさらに砂が乾かないよう海水ポンプの管を通すなど徹底しており、設計者側も防御力に大きな自信を持っていたようです。
ただ実戦では、この構造も不十分な面を露呈し、結局のところ第二話で述べたように、要塞の赤熱弾により壊滅的な被害を負ってしまう事になります。
ちなみに後のフランスはこの失敗にめげず、共和政時代にはレンガを用いた文字通りの海上要塞の計画もあったそうなのですが、出典が曖昧なのと、今回の趣旨とはちょっと異なるので詳細は割愛します。
布の鎧
繊維質を用いた防御自体は、通常の艦艇でも広く用いられており、これは直接砲弾を弾き返すというよりは、被弾時に飛び散った弾片や船体の破片から乗員を守るものでした。19世紀以降の艦艇でも、防御としてハンモックなどを上部構造に括り付けた写真はよく知られているかと思います。
一方でより直接的な防御を狙った例としては、また南北戦争の○○クラッドシリーズに当たる「コットンクラッドCottonclad」と呼ばれる砲艦群が存在していました。こちらは名前の通り、南部連合が主要生産品である綿を用いて防御を施したものです。
構造は木造の船体の外側に薄い鉄板の外板を設け、その間に圧縮したコットンを詰めたもので、前述したティンバークラッド、ティンクラッドよりも一段階手が込んだものと言えそうです。また砲弾を直接防御する効果があったかはともかく、外板を貫通した際に発生する破片の威力を吸収したり、仮に水線部まで充填されていた場合、破孔からの浸水を防ぐ効果が期待できるので、間接的な防御力という意味では向上した部分があったかと予想されます。
実戦経験もいくつかあり、1862年6月の「メンフィスの戦い」では、ミシシッピ川に展開した8隻のコットンクラッドが、9隻の北軍砲艦と戦闘を行っています。この艦種にとって最も大きな戦闘となりますが、北軍側に純正な装甲艦が多数存在していたこともあって、8隻の内7隻が撃沈もしくは大破擱座して大敗北に終わります。ここから見ると、やはり装甲艦とは比べられない面があると言わざるを得ないようです。
しかしながら他の例を見ると、1863年1月の「ガルビストンの戦い」では、南軍の「バイユー・シティBayou city」が、北軍の外輪軍艦「ハリエット・レーンHarriet Lane」を降伏させ、武装商船「ウェストフィールドWestfield」を放棄に追い込むなどして勝利。また同年二月には、夜間に二対一という有利な状況ながら、「ウェッブWebb」が衝角戦の末に装甲砲艦「インディアノーラIndianola」を撃沈するという戦果を得ています。
このように採用した防御の効果はともかく、一部で活躍した艦種であった事が伝わればと思います。
青銅の鎧
ここから金属を使用した例に入るという事で、まずは鉄以前に主流だった青銅鎧について。
これまでの常識として、青銅は鉄よりも柔らかく装甲には向かないものですが、一方で鉄よりも腐食しにくく、常時海上に居る艦船へ使用する上では利点となる可能性を秘めていました。
その点からフランスでは、実際に射撃実験を行う段階まで研究を行っていたようですが、案の定結果は芳しくないものでした。青銅そのままでは柔らかすぎて防御力を持たずに、スズの含有量を増やしても急激に脆くなる、亜鉛を加えても大差ないという結果に終わります。実際に採用した例も無いようです。
鎖の鎧
最後はチェインメイル。鎖を用いた防具の利点といえば、鉄板とは違って装着者の動きに合う柔軟性を持っている点となります。そこから板金鎧が普及した後も、関節部分などを守る補助的な防具として使用された例も知られています。
一方で艦艇では、そんな点は気にする必要は無いので、防御力に劣る鎖を使用する利点は存在しないように思えるかもしれません。ですが南北戦争では、急場しのぎの防御策という面が大きいものですが、舷側を錨鎖で覆って防御を試みる例が複数確認できます。
錨鎖の輪は細いものでも1.5インチ(38mm)以上の太さがあり、一部が重なり合う事も含めれば、防御力は馬鹿にはできないものがあります。もちろん当時の艦砲を十分に防ぐには、鉄板でも4インチ以上は欲しいので、不足は否めないでしょう。しかしながら木造船にとって特に脅威となる、炸裂弾の威力を削ぐ可能性があるだけでも価値があったと言えるかもしれません。
もっとも有名な使用例は、1864年にフランス沖にて北軍の「キアサージKearsarge」が、各地で通商破壊を行い恐れられていた南軍の「アラバマAlabama」と一騎打ちを行った「シェルブールの海戦」です。この戦いでキアサージは、100ポンドライフル砲、8インチシェルガン、32ポンド砲など、自艦に負けない武装を有するアラバマへの備えとして、舷側の機関部周辺に錨鎖を巡らせて防御を施していました。
海戦は一時間あまり砲撃戦の末に、キアサージがアラバマを撃沈して勝利します。開戦後の報告書によると、同艦は帆やロープ類などを除いた部分に合計14発を被弾し、うち上甲板より下の範囲に命中したのは6発、防御範囲ではその中の2発のみでした。一発は右舷の舷門近くに命中した実体弾で、鎖を抜いたあと船体に食い込んで停止。もう一発は炸裂弾が船体中央の船側砲の下に命中し、こちらも鎖を抜いた後に炸裂し、外板に被害が出ています。
これだけでは鎖の効果は判断し難いものがあり、海戦自体の勝敗を分けたのも射撃精度の面が大きく、その点では防御を施した影響は殆どなかった(乗員の士気に影響を与えた可能性はありますが)と見てしまっても良いかもしれません。
なお興味深い事に、この防御方法は太平洋を越えて、幕末の日本へも伝わっていました。時の大坂城代松平信古によると、幕府がオランダから購入した蒸気フリゲート「開陽丸」は、鳥羽伏見の戦いを前に大阪湾にて停泊中、舷側に防御のための鎖を垂らしていた姿だったと記録されています。
終わりに
今回は最初に述べた通り、やはり脇道に逸れた防御案という面が強い内容になりました。特に南北戦争に登場した物は、戦争自体が双方準備不足で勃発した上に、炸裂弾の普及や装甲艦の登場など海戦の様相が変化する最中だった事から、その中で対応を試みた試行錯誤の結果という側面が伺えるのではないでしょうか。そして実際の効果の程は上で見てきた通りですので、結局装甲艦といえば、厚い錬鉄板による防御というのが常識のまま落ち着いていく事になります。
一方で人間が鎧などの防具を身に着ける場合には、胸甲と兜だけという風に、人体の中で特に重要な部分のみを守る時もあれば、小手や脛当てなど補助的な防具を加えて全身を固める場合もあります。装甲艦も同じように、厚い錬鉄板という同じ装甲板を用いても、防御範囲や重視する部位の違いなどから、装甲配置に特色が出る点は誕生時より確認できる事柄でした。それは後の時代(艦艇に装甲が用いられなくなるまで)にも続くのですが、こちらも後日解説できればと思います。
今回もご覧いただきありがとうございました。次回以降はもう一話装甲板の製造や背板の話、鋼の研究など補足内容を扱った後、今度こそライフル砲の話に入っていきます。
主な参考文献
江差町教育委員会『開陽丸〈1〉―海底遺跡の発掘調査報告』1982年
United States. Naval War Records Office, Official Records of the Union and Confederate Navies in the War of the Rebellion, 1897
更新する度に思うのですが、毎回読みづらいタイトルになってしまうのが悩みです。どうすべきでしょうか……。