第12話 その3(前:浮き砲台から外洋艦へ、後:木から鉄へと言いつつも)
引き続き装甲艦艇編です。
これまで見てきたように、クリミア戦争にて英仏は実際に装甲艦艇の一種である装甲浮き砲台を建造し、部分的ながらもその価値を実戦で証明するに至ります。
この出来事に続いて、戦後にはついに外洋での航海や戦闘を考えた艦の中にも装甲を持つ艦が出現します。装甲フリゲートと呼ばれたこの新艦種の登場により、数百年に渡り木造戦列艦が務めてきた主力の座は入れ替わり、今後80年あまり続く装甲艦艇の時代へと突入していくのです。
今回は装甲フリゲートとして最初に登場したフランスの「グロワールGloire」とイギリスの「ウォーリアWarrior」の2隻をメインに、そこへ至る計画や実験などを取り上げていきたいと思います。
・浮き砲台から外洋艦へ
前回から繰り返すになりますが、装甲浮き砲台はあくまで沿岸での活動を目的とした艦艇です。つまり戦列艦やフリゲート以下の艦艇が行うような、外洋での任務に耐えられるものではありません。
しかしながら、これまでの戦訓から外洋艦も炸裂弾対策は必須である事は明確で、前回のキンブルン攻撃にて装甲の価値が証明されたのちには、装甲を持つ外洋艦を望む声も高まっていきます。
それを受けて提案された案の一部を簡単に紹介していくと、研究が盛んだったのは、やはりフランスの方だったようです。
最初にキンブルンにて「トナン」の指揮を執っていたデュプレ艦長(ナポレオン戦争にて活躍したデュプレ提督とは別人)が、新たな装甲艦艇を提案します。その中にはこれまでの装甲浮き砲台に近い艦だけでなく、木造船体に22cmボムカノン16門を持ち、蒸気機関と簡素な帆装で速力11から12ノットを有する巡洋艦(croiseurs)が存在していました。
次に1856年中には、マリエル・ギーネMarielle Guesnetとド・フェランティde Ferrantyという二人の造船技師が同時期に複数の案を発表しています。こちらは何れも木造船体に22cm砲や16cmライフル砲を搭載し、水線部や砲甲板を装甲で防御、速力は11から13ノットという案になります。
余談ですが、これらの案の注目すべき要素として、ギーネは周辺国に警戒されないよう、外観をなるべく既存の蒸気軍艦に近づける事に言及しており、ド・フェランティの案は装甲配置を工夫して、これまでの水線部の全周に装甲を貼る配置とは違う物になっていました。
(具体的には、舷側の装甲が艦尾から6mのところで途切れる形になります。そのままでは艦尾が防御されないだけでなく、後ろから撃たれた時に砲弾が装甲間から内部に入ってしまうので、それをふさぐ形で船体を横断する隔壁を設け、ここにも厚い装甲を設けるようになっていました。また同案では艦橋付近に、装甲を覆われた司令塔を新たに導入した事も確認できます)
話を戻して、彼らの案自体は様々な疑問や反論により具体的な計画へ発展しなかったものの、上記の要素は実際に建造される装甲艦艇でも取り入れられる要素となっていきます。
そして同年末にはこれらの案が登場した情勢から、海軍委員会でもこの種の装甲艦艇の必要性が認識されて、ついに建造計画へと発展します。
以降は公募によって選ばれた造船官カミーユ・オードネAudenet(カタカナ表記があっているかは不明)の鉄製船体を持つ案に加え、それとは別に造船官のトップになっていたデュピィ・ド・ロームが進めていた研究案が取り上げられ、後者の案が先に承認されています。
同案における最初の艦として、グロワールは1858年3月にツーロンの海軍工廠にて起工、1860年8月に竣工して、これが世界で初めて外洋での活動が可能な装甲軍艦が誕生した瞬間となるのでした。
一方の英国はというと、この時期でも装甲艦艇に関してはフランスの後追いという評価は避けられない物でした。
もちろん研究を行わなかった訳ではなく、クリミア戦争中には巨大鉄船グレート・イースタンの建造で知られる造船技師スコット・ラッセルScott Russellが、装甲フリゲートを提案したと回想していて、また後述するように装甲に対する射撃実験もそれなりの頻度で行われていました。しかしながら、いつものパワーバランスが云々という意見を封じ込めて、重い一歩を歩み出す程の動きにはならなかったようです。
結局英海軍にその一歩を踏み出させたのは、グロワールの登場により同艦に対抗する必要があるという危機感だったのです。
英海軍はグロワール建造の報を受けた58年3月、主任設計技師のアイザック・ワッツIssac Wattsにグロワールと同系統の艦を研究するよう命じ、さらに同年11月には民間企業8社へも建造案の募集をかけて挽回を図ります。そして59年4月、比較検証の場を勝ち抜いたワッツの案が最初に建造される艦として認められました。
この艦、ウォーリアは59年5月にロンドンのテムズ鉄工所Thames Iron Worksにて起工、やや工期を遅らせつつも61年8月に竣工しています。
・射撃実験
次はその2隻の解説に移る前に、当時の装甲が持つ防御力について射撃実験を踏まえつつ紹介したいと思います。なお把握できた資料の都合から、英国側の記述が中心になります。
前回までの範囲で判明している事としては、まず被弾時に貫通された場合や衝撃によって装甲が砕けて破片が発生すると、これが大きな被害を与えかねないので、艦を守る上ではそれを避ける必要がある事。そして54年の実験から、厚さ4インチの錬鉄装甲板は一定の距離(400ヤード以内)で68ポンド砲など大型砲に対する防御力に不安があったという風に、装甲の価値を疑問視する風潮も一部であったと思います。
装甲艦艇が主力艦として認められるには、その意見を打ち消す有効な防御力を証明する必要がありました。
図
上記艦艇が建造されるまでに行われた試験を見ていくと、まず1856年か57年(資料によって実施年が異なる)にウーリッジ(Woolwich)にて試験が行われています。
標的は厚さ4インチの錬鉄に2フィートの木材を裏に当てた物で、攻撃は同じく68ポンド砲ですが、54年の実験とは違い最初から常装薬での運用となります。
まず距離600ヤードにおいて、標的は表面の亀裂や板の湾曲を生じつつ耐え抜きますが、(試験的に普通の鋳鉄弾に混じって使用された)錬鉄弾では破片が背後に飛び散る例も確認され始め、400ヤードでの射撃になると表面の破壊や破片の発生がさらに大きくなっただけでなく、錬鉄弾による貫通も確認されています。
これと同時期に別の試験でも同じように結果になっている事から、この防御力は68ポンド砲の集中砲火には耐えられないものだったと言えるでしょう。
上図はこの時の実験を描いたと思われるスケッチで、多数の砲弾を受けた装甲の破壊状況がよくわかります。左の標的は上部が完全に崩壊して、防御の用をなさない物になっているのと、真ん中の標的は防御力が落ちる端の部分を中心に、貫通したか深く食い込んだ痕が多数ある事が分かるでしょう。
ちなみに右は別の実験で使用された厚さ30インチの鋳鉄塊で、これも68ポンド砲によって破壊されて、鋳鉄が装甲に向かない事を再確認する結果になっています。
一方で1858年に入ってから行われた実験では、新たな発見と共に効果に関しては大きな進展を見せています。
まず一つ目は、不要になった浮き砲台「エレバス」並びにアテナ級の「メテオールMeteor」を実際に標的とした実験です。
この二隻の防御構造に関しては前話と重複しますが、どちらも装甲板は4インチの錬鉄板を使いながらも、それが装着される裏側が異なります。鉄製船体のエレバスに比べて、メテオールは船体の強度材を兼ねる意味もあって、より厚い木材を装甲裏に設けていました。
すると実験では、距離400ヤードの68ポンド砲に対して、エレバスは2、3発を受けただけで、砲弾や装甲の破片などが艦内に達する、内部の肘材などが脱落するなどの損傷を負ったのに対して、メテオールは同条件で持ちこたえて(破片はすべて木材の中で止まる)、船体の内部や構造材への被害を防いでいます。
この結果から、装甲裏の木材が厚い程被弾時の破片や衝撃を吸収して、内部を守る効果がある事が認められました。
ちょっと声を大にして言いたいので重ねて書きます。
こういった木材に関しては資料が少ない事もあって、この時代の艦艇を取り上げた書籍など等でも無視される事もあると思います。しかしながら、この時点では木材も全体の防御力を考える上では結構重要な要素だったというのは、もし初めて聞いたのなら知っていてもらえると嬉しい事だったりします。
装甲艦艇の登場は、軍艦が木から鉄へと変化する象徴的な出来事とも言われますが、この防御効果を得るために、装甲の背材として厚い木材を用いる事自体は、1880年代まで続いていくのです。
ただ厚い木材を設けると、その分重量やスペースをかなり食ってしまうので、どうにか防御力を保ちつつ減らす努力は60年代以降行われる事になります。その成果は今回の範囲外ですが、いずれ紹介できればと思います。
話を戻して同年には、標的艦となったフリゲートの船体に4インチの錬鉄を貼り付けた実験がポーツマスでも行われていました。
これは本来、装甲に対する32ポンド砲と68ポンド砲の威力比較であったり、炸裂弾や赤熱弾と言った実体弾以外の効果を検証するものでしたが、実体弾に対して示された防御力がこれまで以上の結果になった点で注目に値します。
鋳鉄弾・錬鉄弾の両方が使用されたこの試験で、距離600ヤードはもちろん400ヤードでも艦内に被害は無く(破片はすべて木材内で止まる)、それどころか距離を100ヤードまで詰めても、装甲に穴が開いて背材が変形するなど破壊され始めますが、木材の中に破片が11インチ食い込んだだけで、未だに背後には損傷は見られません。そして20ヤードでついに破片が飛び散って内部に被害を出るまで耐え抜いたのです。
ここまでの効果の差が出た理由には、先述した背材の違いや、標的が陸上の模型でなく海上の艦艇だった等の事だけでなく、使用された錬鉄の品質に変化があったのではとも想像できるでしょう。
なお赤熱弾や炸裂弾の効果はというと、距離200ヤード外では極めて低いもので、それ以内であれば穴が開いて背材に達するので一部効果も認められています。実際に100ヤードで命中した赤熱弾の中には、船体に着火する事に成功した物もありましたが、簡単に消し止められているので、そこまで期待はできる物でもないようです。
このように成果を見せ始めた装甲に対する試験はさらに続きますが、今回の範囲では特筆すべき所は無いので、省略もしくは後回しにするとして、最も重要な試験まで飛びます。
それは1861年10月、既に竣工しているウォーリアの防御を改めて確認する目的で行われた射撃実験になります。
標的はもちろんウォーリアが持つものを模して(厳密に言うと装甲の装着方法が若干違うものの)、4.5インチ(114mm)の錬鉄板の裏側に18インチ(457mm)の木材を当て、さらに一番内側には船体の外板に当たる16mmの錬鉄板が来るという構造になります。
攻撃側は実際にウォーリアに搭載された砲を中心としており、おなじみの68ポンド砲に、ウィリアム・アームストロングによる革新的な後装式ライフル砲、いわゆるアームストロング砲が加わります。(これだけでなく同氏が開発した120ポンド前装式ライフル砲も使用されました)
この砲は口径7インチながら、椎の実型で重量110ポンドもの大型砲弾を使用でき、実験ではさらに長大な200ポンド砲弾なんてシロモノも動員されていました。
これらの砲は距離200ヤードにて、順次もしくは複数門の同時射撃を行い、以下の29発を標的に発射しています。
68ポンド砲……実体弾4発、炸裂弾4発
110ポンド後装砲……実体弾7発、大型(200ポンド)実体弾6発、炸裂弾3発、中空砂填弾3発
120ポンド前装砲……実体弾2発
これに対して実験後の装甲の状態は、表面こそかなり破壊されていましたが、装甲板を装着するボルトが少数破損した以外は背後への被害(装甲背後に破片が飛んだり、外板が破れて浸水するような損傷)は全くなし。攻撃側に対する完全な勝利といって良いものでした。
少々脱線して、砲弾の割にライフル砲も大した事ないじゃあないか、と思われる方もいるかもしれません。詳しくは今後の内容で改めて扱いたいと思いますが、アームストロング砲に限らず初期のライフル砲は基本的に強度不足で、砲弾のサイズに見合った装薬を用いる事が出来ずに、滑腔砲よりも初速がかなり遅いものでした。そこから実験が行われた近距離での威力は、68ポンド砲に比べて伸びないというか大差ないというのが実情だったとされています。
なお翌年の実験では、アームストロングが新たに試作した10.5インチ滑腔砲(砲身重量12トン、156ポンドの砲弾を68ポンド砲と同程度の初速で発射可能)や、独自の砲弾やライフリングを以って制式砲の座を狙うジョセフ・ホイットワースJoseph Whitworthの120ポンドライフル砲といった、この標的を背材含め破る事の出来る砲も登場します。ただそれが今後の艦艇に搭載されるかというと話は別で、当時想定される敵艦艇からの攻撃を防げる事には変わりありませんでした。
最後にフランスでの実験もわかる範囲で述べると、グロワールを模した標的(120mmの錬鉄と66cmの木材)はヴァンセンヌにて射撃試験を経験しています。
そこでは浮き砲台にも搭載された50ポンド滑腔砲を距離20mにて3発撃ちこまれても耐える事が可能だったと伝わる他、グロワールに搭載される事になる16cm(実際は164.7mm)前装式ライフル砲を使用した試験も行われています。射距離など詳細は不明ですが、こちらも初期のライフル砲だけあって、完全に装甲防御が勝っているという評価に落ち着いたようです。
このように今回見てきた期間において、装甲の持つ防御力は一転して攻撃側に対して優位な状況へと変貌していきました。これに対して攻撃側は、英国の実験で少し出てきたような、現行の艦砲を上回る高威力砲の開発であったり、艦砲に頼らずとも敵に損傷を与えるような方法を模索していく事になっていきます。
これらの状況を踏まえたうえで、次回はようやくグロワール、ウォーリア両艦そのものについて語っていきたいと思います。
参考文献
次話にまとめて記載
画像出典
Howard Douglas, A Treatise on Naval Gunnery fifth edition, 1860(パブリックドメイン)
今回は文字数の都合もあって分割になります。作者の怠慢で二か月半も空けておいて、これだけしか出せないのは申し訳ない限りです。次はなるべく早く投稿できるよう努力したいと思います。