第11話 その2(装甲浮き砲台と初の実戦投入)
相変わらずのどん亀ペースな上に今回も細切れになりました。このペースだといつになったら次の話ができるのやらという感じですが、とりあえず進めます。
・フランスでの復活
1847年以降落ち着きを見せていた装甲艦艇の開発は、クリミア戦争の勃発により再び注目される事になります。
特に第9話でも紹介したシノープの海戦におけるトルコ艦隊の悲劇的な壊滅は、これからロシア軍と対峙する英仏にとって大きな衝撃を与えます。対露戦では自国の木造艦隊も同じ運命をたどるのではないか、実際には杞憂に終わる事になる警戒心は、以前までは拒絶されていた装甲艦艇の建造を受け入れされる流れへと変化していきました。
最初に動いたのはやはりフランスで、1854年には皇帝ナポレオン三世の鶴の一声もあって、まず装甲で防御された浮き砲台の計画へ着手します。ここでいう浮き砲台とは、一般的にイメージされる沿岸防衛を行う艦というよりは、陸上砲撃時に敵砲台の反撃を吸収しつつ攻撃を行うという、海に浮かぶ攻城塔のような役割の兵器でした。
実際にクリミア戦争ではセヴァストポリの攻防がメインになったように、主に防御に徹するロシア側の拠点を英仏が攻撃する展開が当初より予想されていました。この浮き砲台はそう言った作戦の支援用に特化した艦艇という事になります。またフランスはアメリカ独立戦争に関連して行われたジルラルタル攻撃で同系統の艦を投入した実績(その時は要塞側の赤熱弾で壊滅)があり、長い年月を経てこのアイディアが復活した形でもあると言えるかもしれません。
建造に当たっては再び装甲の効果を検証するため、同年ヴァンセンヌ(Vincenne)にて射撃試験が実施されています。
標的は42cm厚の木材に取り付けられた一枚板の錬鉄板で、厚さは100mmと140mmの二種類。これに30ポンド砲と22cmボムカノンが距離300mから射撃を行った結果、標的が現行の艦砲に対して有する防御力が実証されました。
詳細を見ていくと、実は100m、140mm厚の両方とも、狭い範囲に30ポンド砲の実体弾が集中して命中した場合、装甲が崩れ落ちて防御力を失ってしまいました。ただし一撃で貫通されたり装甲を破壊されて内部に被害を出す事はなく、一定量が命中するまでは防御力を保っていた事になります。そしてその量は1平方メートルの広さに前者が14発、後者が19発にも達します。
当時はマスケット銃で撃ち合うような距離で海戦を行っていた頃の名残が強く、片舷の被弾数が三桁に達するというのも十分に考えられた時代ですが、よほど命中箇所が偏らない限り、通常の海戦でこのような数が集中するとは考えられません。
そして22cmボムカノンに対しては、実体弾に対するデータこそないものの、炸裂弾の直撃に対して30ポンド砲と同じ程度には耐えられる事も証明されています。ここから厚さ100mmの錬鉄でも、主要な艦砲の攻撃に対して有効な防御力を持っていた事になるのです。
・クリミア戦争中の仏英浮き砲台
図
こうして建造された装甲浮き砲台を紹介すると、まずは上記の経緯で計画されたフランスの「デヴァスタシオン(Dévastation)級」が史上初の艦となります。同級は5隻が計画され、1854年8月に最初の二隻が起工。55年6月までに全隻が完成しています。(画像は同級とは別ですが、姿は近いものと思ってもらって構いません)
全長50m強で沿岸活動用に喫水の浅い船体を持つこの艦は、基本は木造で、舷側の大部分、具体的には水線部やその上の砲甲板の側面にあたる部分に装甲を貼って防御しています。装甲はクルーゾーやリヴ=ド=ジエの工場で製造されたもので、厚さは上記実験よりも厚い110mmに。その代わりに裏側の木材が20cmまで薄くなっていましたが、同等の防御力を持つと思われます。
武装は装甲で守られた砲甲板上に並べられた50ポンド砲16門を中心として、一部上甲板にも12ポンド砲など小口径砲を数門搭載しています。
動力は蒸気機関と簡素な帆の併用、厳密には沿岸活動が中心なので前者が重要となりますが欠陥もあり、最大速力は計画時6ノットよりも遅い3ノット台に留まっています。ただしそれ以外の航行性能、旋回性能や安定性などは、沿岸用の艦としては特に問題のないものであったようです。
一方でフランスと共に対露戦へ突入するイギリス海軍でも、装甲浮き砲台の建造が行われました。ただし前回触れたように装甲の導入には熱心ではなかった風潮が続いていたのか、建造は自発的な研究というよりはフランス海軍との情報共有の末に進められたものだったようです。
(イギリスも対露戦では陸上攻撃用の専用艦が必要な事は認識していましたが、この答えとして計画されたのは装甲艦艇ではなく、9話にて触れた小型軽快なクリミア砲艦の大量建造でした)
まず計画されたのは「エトナAetna級」の5隻で、火災に見舞われた一番艦を除く4隻が55年中に完成しています。(なお上図は本級の一隻である「トラスティTrusty」を描いたものです)
同級は基本的にはデヴァスタシオン級の英国版と言えるもので、相違点としては一部船体サイズの違いのほか、主兵装が英国の68ポンド砲である点、最大速力が5ノット台まで改善している点などがありました。また装甲は厚さが4インチ(102mm)と若干薄い代わりに、裏側の木材が18から23インチと非常に厚いのも特徴と言えそうです。
そして英海軍はこれに留まらず、新たに「エレバスErebus級」3隻の建造を行います。これは前級とは打って変わって、早くも英国なりの独自色を出した艦であるという点で大きな進歩を見せていました。
その特徴を見ていくと、まず船体は外板含め鉄製が主体になります。鉄製船体に対する拒否反応は前回紹介しましたが、問題の一つであった破片の発生は、装甲で敵弾を防げるのであれば関係ないとのことで、ハードルがかなり下がっていた状況でした。
もう一つの特徴として船体形状が変化し、舷側が内側に30度程傾斜して上すぼみになるような形(いわゆるタンブルホーム)になっています。これは防御力強化の意味を含んだ改良で、傾斜装甲(もしくは被弾経始)の実践例としては最初期の物と言えそうです。
この二つの新要素により設けられる装甲も影響を受け、前級と同じ4インチ厚の部分は水線部のみとなり、それよりも上部は3.5インチまで削減して重量を軽減。また裏側の木材は船体外板として19mmの鉄板が加わったため、6インチとかなり薄いものになっています。
これらの艦の計画時、英国はヴァンセンヌ実験の情報を把握していましたが、独自に装甲の効果を検証しておこうと、1854年9月にポーツマスで射撃試験を行っています。
(なお戦争終結後には、エトナ級とエレバス級の一部がさらなる装甲艦艇の研究のため射撃実験に供される事になります。両クラスが持つ防御力はその際に改めて検証されますが、この件は次回触れたいと思います)
ここでは厚さ4.5インチの錬鉄板が使用され、その裏側には4インチのモミ材のみと薄目の木材が取り付けられていました。
攻撃はまず32ポンド砲から始まり、距離360ヤードから実体弾を10発撃ち込まれるも、いずれも内側に被害は出ず。
次に68ポンド砲が使用され、遠距離(距離1250ヤード)から実体弾2発を受けるも、これ特に問題なし。そこから距離を400ヤードにまで近づけつつ、なぜか弱装薬を使用するという謎の条件で10発を受けるとかなり亀裂が走り、最終的には同距離・常装薬で放たれた一発で装甲・木材ともに大きく破壊され、防御力を失った状態になりました。
以下の結果からこの目標もヴァンセンヌ同じく、よほど被弾が集中しない限りは当時の艦砲に耐えられる事を証明したと言えるのですが、英海軍としては不満が無い訳でもなかったようです。
第9話でも触れたように、当時の艦砲でも石壁で守られた要塞を崩すには、かなり近距離まで接近する必要が認識されていました。すると最初からそのような距離で、68ポンド砲等の大型砲を受けた場合、より少ない被弾数で装甲を破られるのではないか、つまり浮き砲台に適した距離での戦闘を前提とした場合、わざわざ装甲を設けても効果は少ないのではないかという意見になります。54年のバルト海作戦で英艦隊を率いたネイピア提督も、このような意見を発していた事で知られています。
こうして早くも登場した装甲不要論に関しては、これ以上の詳細な実験が行われずに、否定も肯定もされないままになりますが、その前に装甲浮き砲台群の中でも、デヴァスタシオン級の3隻が実戦で要塞と相対する機会を得る事になります。
今回は最後に、クリミア戦争で唯一の実戦例であり、装甲艦艇にとっては史上初の戦闘でもあるキンブルン(Kinburn)要塞への攻撃を紹介しつつ、ここから分かる浮き砲台の効果などを考えて終わりたいと思います。
・初の実戦 キンブルン攻撃
デヴァスタシオン級の3隻は55年9月末には黒海入りして艦隊に加わるも、この時すでに最大の目標であるセヴァストポリは陥落、そこで連合軍の新たな目標となっていたのがドニエプル川の河口に当たるキンブルンでした。同地は河口から延びる半島の先端に、石造りの砦と2か所の砲台を有し、計81門の大砲(主に32から18ポンド砲と若干の臼砲)で守られています。
これに対して攻撃側は、戦列艦10隻とフリゲートからスループまでの17隻からなる主力艦艇に加え、スヴァアボルグ攻撃でも活躍したクリミア砲艦22隻に臼砲艦11隻といった対地攻撃艦を動員。この戦力に加えて新戦力として、「デヴァスタシオン」「トナンTonnante」「ラヴLave」という三隻の浮き砲台が参加する形になります。
攻撃側はかなり恵まれた戦力を有する上に、これまでの戦訓を生かした戦い方により、10月17日に行われた攻撃で防御側を圧倒します。要塞側の大砲は少なくない数が露天砲だったのもあって次々と沈黙。砲撃により砦の石壁にも着実にダメージが蓄積させていって、ロシア側は戦意を喪失。最終的には5時間あまりの攻撃で、英仏は一隻の艦も失う事なく要塞を降伏に追い込む事に成功しています。
そして本題である浮き砲台の効果について触れていくと、三隻は主力艦艇や臼砲艦とともに半島の南西側に展開し、砦からの距離は600から700ヤード程度と、最も近い場所に投錨しています(資料により1km付近であったとの記述もあります)。
結果としてデヴァスタシオンが64発(舷側29発、甲板35発)、トナンは65発(舷側55発、甲板10発)を被弾し、艦隊の中の被弾数が集中する形となりました。
2隻の被害はというと、砲門から入った砲弾により人的被害(併せて22名が負傷し、デヴァスタシオンでは二名が死亡)が出たのみで、装甲を貫通した砲弾は一発もありませんでした。(ラヴに関しては被弾数などが不明ですが、死傷者が出ていない事から特に被害を受けなかったと思われます)
以下の記録を見る限り、少なくともこのキンブルン攻撃において、浮き砲台は装甲で敵要塞の反撃を防御し、味方を支援するという建造目的を達していると言えるでしょう。
一方で細かい部分を見れば、その活躍を否定的に見る事も出来ます。まず敵砲台の大砲がすべて32ポンド以下と小型で威力不足であった点、そして若干距離を取った事もあってか、英仏の攻撃は石壁を完全に崩すには至っておらず、仮にそのような距離に接近していればまだ防御力を発揮できたか不確実な点。
さらにデヴァスタシオンは意外にも非装甲の甲板へ多数を被弾しており、その割には被害が無いままでしたが、これは被弾角度が浅かった為であり、大落角の臼砲弾や、高所にある大砲から撃ち下ろされた場合、被害が出ていたかもしれない点。
最後にそもそもの話になりますが、クリミア砲艦と臼砲艦の砲撃だけでも、このクラスの要塞なら(多少被害が増しつつも)落とせていたという意見も否定はできません。
つまり上記の疑問を解消するような結果とは言い難い面があるもので、おそらくはより強固に構築させ、強力な火砲を有する要塞、それこそクロンシュタット攻撃などに動員されていれば、その限界を含めた現実的な価値を知る事も出来たかもしれません。もちろん実行に移されなかった戦いを想像しても、どうしようもない事ですが。
ただ、このように重箱の隅をつつく事ができるデビュー戦であっても、装甲を有する艦艇が初の実戦で一定の能力を見せた事に代わりはありません。それは装甲艦艇への期待が高まる中で、待ち望まれていた歴史的な事件であったと言えるでしょう。
終わりに
今回紹介した浮き砲台の建造と実戦投入は、ついに海軍艦艇が装甲化される流れを避けられないものとする出来事でした。しかし何度も言うように、浮き砲台自体は陸上攻撃や沿岸戦闘の為に建造された専用艦で、戦列艦など既存の艦艇に置き換わる存在ではありません。また装甲の価値に関する疑問も残るなかで、防ぐべき艦砲は初期のライフル砲が登場するなど進歩を続けています。
この時点より第二次大戦まで続く装甲艦艇の時代が始まるかと言うと、まだ乗り越えるべき障壁を残したあと一歩の段階と言うべきでしょう。
次回はそう言った問題を解決して英仏で登場した本格的な装甲艦と、そこへ至るまでの計画や実験などを紹介したいと思います。
参考文献
David Brown, Before the Ironclad, Seaforth Publishing, 2015
+前回の分
画像出典
Alexander Holley, Treaties on Naval Ordnance and Armor, 1865(パブリックドメイン)
今回も閲覧ありがとうございました。
8/26追記 ヴァンセンヌ実験の射距離を見落としていたので追加しました。