第10話 装甲の研究と導入その1(クリミア以前 鉄造軍艦の研究から初期の計画案まで)
前回までは攻撃側の進歩を扱いましたが、今回より防御側の対抗として、鉄の装甲板が艦艇に導入される流れを追っていきたいと思います。
字数や投稿ペースの関係もあって、初回はクリミア戦争前の計画案までを扱います。中々地味な内容と言わざるを得ませんが、日本語の資料では殆ど無視される範囲の情報も載せてみたので、楽しんでもらえれば幸いです。
はじめに
古来より甲冑や盾など、身を守る道具に金属素材を用いる事は広く行われており、中でも鉄製の物は性能が高く、最上級の防具として用いられていた事はよく知られています。一方で船の歴史においては、19世紀半ばまで原材料は常に木材中心で、これは軍用艦艇においても変わりはありません。
つまり防御力を強化したい時には、使用する木材を厚くする、もしくはより質の良い物に替えるのであって、金属素材を用いた装甲が広まる事はありませんでした。(腐食や貝類の付着を防ぐため、銅や鉛を貼ることは広く行われていたものの、これは厚さからして防御力を持たない物でした)
もっとも近代以前より、金属の盾を艦上に置いたり、防御を目的とした金属板を貼った艦艇の記録や伝説は少数ながら存在します。金属を用いれば防御力に優れた艦を作る事が出来る、そんな発想自体は古くからあるもので、アメリカ海軍を代表する艦艇の一つである「コンスティテューションConstitution」の逸話※も、19世紀に入ってからの出来事ながら、同じ事が言えるでしょう。
※ 1812年の米英戦争でイギリスのフリゲートと一騎打ちした際に敵弾を弾き返し、それを見た船員が同艦の舷側を鉄に見立てた逸話。もちろん同艦は鉄で出来ていたわけではなく、その高い防御力はヨーロッパのオーク材よりも頑丈なライブ・オークが使われていた事による。
それにも関わらず例外的な使用に留まったのは、やはり工業力の不足による部分が大きいと言えます。当たり前ながら船は一隻でも甲冑よりはるかに大きく、また後述するように大砲の威力も順次向上する中では、厚さも十分な物が必要です。
それを満たすサイズの鉄板を大量生産する技術的なハードルは高く、仮に出来たとしても、それに費やしたリソースを通常の軍艦建造に充てた方が効果があるようでは意味がありません。
そんな時代が終わりを告げるのが、近代における工業力全般の進歩という事になるのですが、これに関連して、まずは欧州における製鉄技術の変遷を軽く見ておきましょう。
・欧州の製鉄技術
まず中世末まで唯一といって良い製鉄法は、塊鉄炉と呼ばれる小型の炉を用いて、融点以下の低温で鉄鉱石を鉄に還元。取り出した鉄塊をハンマーで鍛えて仕上げると言うものです。これは字面からも分かるように手工業色が強く、一度に得られる鉄の量も限られる方法でした。
一方で中世末頃から、水車による送風能力の強化に加え高炉と呼ばれる炉が導入され、ついに鉄を溶かす事が可能になります。これで溶けた鉄を取り出しつつ順次操業を続ける事も可能になったので、生産性は大きく向上します。その代償としては燃料の木炭消費も跳ね上がり、木材資源の不足を招くという問題が発生しますが、これに対しては18世紀より石炭由来のコークスを燃料に切り替える事で解決し、大量生産に十分な体制が作られていきます。
ただし高炉で得られる溶けた鉄(銑鉄もしくは鋳鉄)は、特性として炭素を多く含み、そのままでは装甲板に適さない種類の鉄でした。炭素量が多いと融点が下がり、溶かして好きな形に鋳造が出来るものの、同時に硬く脆い性質になります。さらに以前の製法による鉄のように鍛える事も出来ず、コークス由来のリンや硫黄といった不純物も残っていて、これも脆さに拍車をかけています。
つまり装甲を含め強靭さが要求される製品には向かないと言う事で、そういった物へは炭素量の少ない錬鉄という鉄が必要でした。
(これ以外にも両者の中間程度の炭素を含む鋼が存在しますが、これについては次回以降扱います)
これを得るには最初に述べた塊鉄炉の他、銑鉄から余計な炭素を取り除いて、錬鉄に変えるという方法が存在します。後者は簡単に言えば、銑鉄を再び熱して炭素やその他不純物を燃やしてしまい、ハンマーで鍛えるという、生産性が良いとは言えない方法ですが、これも時代が下るにつれ改良されていきます。
中でも18世紀後半にイギリスのヘンリー・コートが考案したパドル法は、未だに手作業に頼る工程もあって大量生産とは言い切れませんが、一定の量を安定して生産する事が可能な製法でした。さらにコートは錬鉄を仕上げる際にハンマーに代わって機力の圧延機を導入し、この作業でも過去の作業より効率を上げています。
このように19世紀に入った時点で、高炉にパドル法、さらに蒸気機関を用いた鍛造機械の高性能化という要素も加わり、装甲製造に十分な製鉄技術が確立された状態へと進んでいくのです。
・鉄造船
ここでやや脱線しますが関連事項として、鉄の船体を持つ船についても少し触れたいと思います。
十分な量の錬鉄が生産できると言う事は、これを装甲として貼るのと別に、船自体を鉄で作ってしまおうという発想も実現可能になります。理論上、鉄の強度は木材よりもはるかに高く、これを用いればより頑丈で大型な船や、同サイズの木造船よりも軽く性能の高い船を作る事が可能になります。他にも鉄は不足しがちな木材よりも安定して供給が可能という利点もありました。
実際にパドル法の導入から間もない1787年、早くも初の小型鉄船(厳密には艀)が完成し、1822年の「アーロン・マンビーAaron Manby」にて、初めて外洋航行可能な蒸気船に用いられます。その後は船底が錆びるだの、コンパスを狂わせると言った課題を改善しつつ、少しずつ数を増やしていきました。
一方で海軍にとって、頑丈で軽い鉄船は歓迎されたと思いきや、少なくとも英国海軍では強い反対意見に晒されます。当時の軍艦でも内部の骨組みなどに鉄材を用いる事は普通に行われましたが、船体の外板を鉄にする事には特に忌避感があったようです。
この場合の外板というと装甲とは異なり、船体強度を確保する程度の比較的薄い鉄板が用いられます。それらは大砲の砲弾を防ぐ事が出来ないばかりか、貫通された際の被害が木造船よりも激しいのが主な問題点だったようです。具体的には、いびつで塞ぎ辛い形の破孔が空きやすいのと、飛び散る破片の殺傷力が木材よりも高いのが問題とされました。
英国にて1846年から54年にわたり何度が行われた射撃実験では、外板の厚さが5/8インチ(約16mm)以上の場合、砲弾が砕けながら貫通するので特に許容できない被害が出る事、そして1/2インチ(約13mm)未満ならきれいに貫通してくれるので被害は少ないものの、船体強度が不足するのでどのみち使えないという結論が出ています。
同実験で確認された鉄船の欠点は、装甲を設ける際にも同じく注意すべき点と言えるでしょう。実験では意外と薄い鉄板でも砲弾を砕けると判明しますが、だからと言って艦内部の被害を防げるとは限らず、逆に木造船よりも被害が拡大する事すらあり得ます。それを防ぐため、炸裂弾実体弾を問わず想定される砲弾の威力をよく検証し、それらを確実に防ぐ事の出来る防御力が装甲には求められるのです。
なお鉄造軍艦自体は、上記の問題もあって普及するのは装甲艦と同時期にまでずれ込むことになるのですが、問題が露見する前の40年代前半に少数が就役しています。
主な艦としては、第九話にも登場したメキシコの「グアダルーペ」やアメリカのスループ「ミシガン」、そして厳密には軍艦とは言えない艦ですがイギリス東インド会社の「ネメシス」などが存在しました。三番目の艦はジャンク船を吹き飛ばしている絵でも有名なように、アヘン戦争で装甲艦よりも一足先に実戦を経験しています。
・初期の装甲案
本格的に装甲の話に入るとして、装甲を有する艦艇に関する提案並びに計画は、前述した製鉄技術の進歩を経た19世紀初頭より登場し始めます。これらの案は、実際には50年代後半より始まる実用化に繋がる物も含まれているという事で、代表的な例を紹介していきたいと思います。
まずは全く繋がらなかった例からとなりますが、英国は元々の海軍力に秀でる事からか、新兵器である装甲の導入にはあまり興味を示しませんでした。
数少ない例としてジョン・ポッド・ドレイクJohn Podd Drakeという技師が要塞用の装甲を研究する中で、蒸気軍艦も機関を守るために装甲を施す必要があると提案した事、また1846年には、薄い錬鉄板を重ね合わせた装甲に対する実験が行われ、32ポンド砲への防御力は十分ではないと判断された記録が存在する程度です。
一方で米国では発明家のスティーブンス親子により、実用化まであと一歩の所まで計画が進んでいた事が知られています。
まず1812年、第七話でも少し触れたジョン・スティーブンスが装甲を施した自走浮き砲台の構想を発表します。この頃は米英戦争の最中で、英海軍の襲来に備えて沿岸防御の必要性が高まった時代でした。同時期にロバート・フルトンが建造した蒸気軍艦「デモロゴス」も航洋性に欠け、実質的に自走浮き砲台的な艦だったとされています。
同艦は舷側を非常に厚い(なんと60インチ)木材で防御したのに対して、スティーブンスの案はそれを鉄の装甲で代替する事で差別化を図った物と言えるでしょう。
同案は実現する事もなく、戦争も終わって浮き砲台の需要はなくなりますが、30年近くたった1841年に再び注目を浴びます。ジョンの跡を継いだ二人の息子、ロバートとエドウィンの兄弟は新たに浮き砲台を計画、これが議会に承認されて「スティーブンス・バッテリー」の計画名で建造にこぎつける事に成功しています。
これが装甲艦艇の建造という意味では世界初の試みという事になりますが、設計の不備や建造費の不足、ロバートの健康問題(57年に死去)などが重なり計画は幾度も中止され、何度か復活するも結局完成する事はありませんでした。
関連して行われた実験によると、錬鉄板で至近距離から放たれた滑腔砲の実体弾を防ぐには、口径の1/2から2/3の厚さが必要である事、その防御力は16倍の厚さのオーク材と同等である事などが結果として出ています。当初装甲厚は4.5インチ(約114mm)とされましたが、当時の米国では大口径滑腔砲の研究が進んでいた事もあって、最終的には厚さ6.7インチ(約170mm)の錬鉄板が設けられる予定だったそうです。
また装甲に傾斜を加える事で、命中角度が浅くなり防御力が上がる事もこの時点で確認されており、そこで水上の部分を内側に傾斜させて、屋根のような形にする事も考案されます。この形式は南北戦争にて一部の艦が採用し、研究結果が受け継がれる形になりました。
そして最後に、実用化の流れの中で最も大きな役割を果たした、フランスでの事例を紹介します。
同国で最初に動いたのはやはりと言うべきか、陸軍のペクサン大佐でした。自身の大砲により艦艇の火力が向上すれば、対抗として防御力を上げる必要がある、彼はそんな考えに基づいて、1809年に鉄板の効果を検証、これを取り入れる事を提案しています。
ただ以前触れたように、彼の求める海軍戦力は小型で軽快な艦艇を多数揃える方向に傾いていくのですが、一応20年代の著作でも艦艇の装甲化に触れており、特に沿岸防衛に装甲を施した浮き砲台を用いる事を推奨しています。
ちなみに彼は通常の艦艇が装甲化された場合、互いの砲撃が通用しなくなるので接舷からの白兵戦が主な戦闘法になる可能性が高く、そこでは英艦艇よりも陸兵を多く載せているフランス艦艇が優位になるはず、と予想していました。実際の所この予想は外れますが、砲撃以外の攻撃法(主に衝角による体当たり)が注目されると言う点では、的を得た部分もあると言えるでしょう。
そして34年には、自ら射撃実験を実施し、鉄板が他の材料に勝るとして導入を再度提案するに至りますが、結局その場でも採用される事はありませんでした。当時の関係者の回想によると、装甲に関してはペクサン以外からも多数の意見が寄せられていたが、その度に重量の問題などで却下されていたとの事です。
それでも多数の意見が寄せられていた、という発言が示す通り、フランスでは装甲に対する期待は大きく、いったん不採用となっても実験はさらに行われます。中でも43年から45年にガヴル(Gâvre)で行われた実験では、12mmの板を12枚重ねた装甲(合計厚144mm)が30ポンド砲に対し、近距離でも十分通用する防御力を持つと証明されました。
そして45年、造船技師のデュピュイ・ド・ロームDupuy de Lômeは装甲を施したフリゲートを提案。世界で初めて、外洋での任務を考えた艦艇に装甲を施すという、歴史的に重要な艦艇案が誕生します。
元々ド・ロームは蒸気機関の有効性に大きく期待しており、思い切って帆を廃して機関のみで航行する艦艇を作ろうとしていました。すると機関が破壊されてはいけないので、装甲で防御する必要性に行きついたという流れです。その為、彼が後に設計する最初期の装甲艦(次回以降で解説予定)とはややコンセプトの異なる物でした。
この案は鉄造船体で重量軽減を図り、全長68.3mで排水量2,366トン。15mmの板を6枚で重ね、合計厚90mmの装甲を備える予定でした。ただ同案では、現行の艦砲で最大級の物を耐えるには、重ね合わせ装甲の場合177mm程は必要だと予想しており、実際に後の実験では防御力不足も判明、実現には至りませんでした。
ただ装甲艦艇の案はこれだけでなく、47年にはジェルヴェーズGervaiseという人が、フランスでも浮き砲台を計画していたようです。こちらも同じく鉄船で、舷側の水線部は154mm、砲甲板横は97mmとより重装甲でした。武装は36ポンドカノン砲と、22cmシェルガンを合計で30門搭載となります。
こちらも評判は良かったと伝わっていますが、この時期になってフランスでも鉄船の安全性を不安視する声が高まり、承認されていません。
このようにフランスでもかなり研究が進んでいた事になりますが、この時点ではいずれも頓挫。そればかりかジェルヴェーズの案を最後に、フランスでも新たな計画や実験は行われなくなってしまいます。1847年から6年程の間は、装甲艦艇にとっては世界的な空白の時間となりました。
これが急変するのは1854年、またしてもクリミア戦争の影響を待たなければなりません。
今回はここで一旦で終わるとして、次回以降はクリミアで初めて就役し実戦を経験する装甲浮き砲台や、その後に主力艦の装甲化が行われるまでの流れについて、より詳しい実験などを交えて紹介したいと思います。
主な参考文献
有坂鉊蔵 『兵器考. 砲熕篇 海軍砲熕 小銃』 雄山閣 1936年
上野喜一郎 『船の世界史 上巻』 舵社 1980年
島立利貞 『鉄の文化誌』東京図書出版刊 2001年
Alexander Holley, Treaties on Naval Ordnance and Armor, 1865
Henri Paixhans, An Account of the Experiments Made in the French Navy for the Trail of Bomb Cannon, 1838, translated by John Dahlgren
Howard Douglas, A Treatise on Naval Gunnery fifth edition, 1860
Paul Dislère, La Marine Cuirassée, 1873