PROLOGUE
目が覚めて彼が最初に抱いた感情は、至極単純なものであった。
言葉にするのならば、それはたった二言で事足りる。俗に言う困惑と言う名の感情だ。
沈んでいた意識が覚醒を果たしたて真っ先に視界一杯に飛び込んできたのは見るからに高級そうなシャンデリア、更に視界を周囲に向ければ教会や聖堂でしか見る機会がない聖母を思わせる女性像が描かれたステンドグラスや、そして彼が現在進行形で横たわっている天幕付きベッドなど。
西洋一色で彩られた光景に、彼は見覚えがない。
故に覚醒と同時に狼狽するのは人間として当然の反応であった。
「何処だよ、ここ……」
実に月並みな言葉である。
あるが、同時に変えようのない事実だ。
どうしてこのような場所にいるのか、その理由を彼は知る由もない。
如何に記憶を呼び起こしても、見知らぬ一室にいる切っ掛けとなった前後の記憶が完全に陥落していては自問したところで満足のいく答えが出ぬのは当然と言えよう。
となれば、この奇怪な現象の謎を解く為には自分以外の者から情報を得るしかない。
どう言った経緯であれ、この部屋、もとい建物の所有者が必ずいる。
ごく普通の一般市民をこのような高級感溢れる部屋に寝かせたのかは、答えは家主から直接聞き出すしかあるまい。
一先ず横たわっていたベッドから身を下ろして――まるでタイミングを見計らったかのように閉じられていた白い扉が独りでに開いた。
これはまた珍妙な来客者である。
東京の秋葉原、大阪のオタロードではよく見かけるメイド喫茶。文字通り来客者をご主人様、或いはお嬢様と呼んで色々と楽しむちょっとお高いオタク系の喫茶店であるが、そこに所属しているスタッフは皆メイド服を制服として着用している。
ただ、入室者のメイドは萌えを意識したフリル付きのゴスロリ型メイド服ではない。
ヴィクトリア朝時代当時のメイド達が着用していた、所謂原点とも言うべきヴィクトリアンメイド服を纏っている。
外見からして二十歳前後だろう。腰まで届く栗色の長い髪と翡翠色と言う大変珍しい瞳が印象的な若く可愛い女性だ。
「エイキ様!? お目覚めになられたのですね!?」
入室者は目に大粒の涙を浮かべている。
その様子から喜びの色を浮かべていることが伺える。
伺えるが。
「えっと……どちら様ですか?」
当然過ぎる疑問を、エイキと呼ばれた少年はメイドへとぶつけた。
確かに自分の名前は衛鬼である。間違いはない。
しかし、しかしだ。何故彼女が此方の名前を知っているのか。
仮に雇い主から名前を聞かされていたとしても、彼女との面識がない衛鬼からすれば涙を浮べられる程喜びを露にしていることが理解出来なかった。
そんな衛鬼の心情を他所に、メイド服の女性は激しく狼狽し始める。
「そんな……エイキ様! 何も憶えておられないのですか!?」
「いや憶えているのも何も……俺とその、アンタは初対面だろ? それともどっかであったけど俺が忘れてるだけだったりする?」
「まさか、エイキ様が……記憶喪失になられているなんて」
「……は?」
訳がわからない。
記憶喪失とは言葉の通り記憶の一部が欠如する症状である。
典型的なもので言うなれば知人や友人達や、最悪自分自身のことさえも記憶を失う。
だが普通に過ごしていれば記憶喪失などと言う大層な症状を患う機会はまず皆無と言っていいだろう。
だが、記憶喪失を患っている感覚は一切湧かない。
この見知らぬ一室にいることに繋がる記憶を除けば、自分が何者かと問われれば、確固たる自信を持って名乗ることが出来る。
従ってメイド服を纏う女性に関する情報は何一つとして記憶の中に存在しない。
「なぁ、アンタは本当に誰なんだ? て言うかここ何処なんだよ。て言うか日本だよな、いつの間にかイギリスとか海外に来ちゃってるとかそんなネタじゃないよな?」
「エイキ様本当に何も憶えておられないのですか!? 私ですミリアです!」
まるで埒が明かない。
美人でスタイルがよくても、彼女から此方が望む答えは得られそうにない。
となれば、自分自身の目で現状を確かめる他ない。百聞は一見に如かず、である。
今度こそベッドから降りて、衛鬼はそのまま部屋を出ようとして。
「そうだ。俺の荷物とか何処にあるんだ? 携帯電話とか財布とか見当たらないんだけど」
貴重品が手元にないことを指摘する。
豪華すぎる一室の持ち主だ。わざわざ一般人の財布からなけなしの金をくすねるようなせこい真似はしないだろう。
だが、貴重品であることに違いない。
特に携帯電話は個人情報が凝縮されている小さなパソコンも同じだ。
盗み取られていないと考えたくはないが。
「その、エイキ様。けいたいでんわ、とはなんでしょうか? それににほんやイギリスとは一体……名前からして何処かの国でしょうか?」
「はぁ!?」
おかしい。
訳がわからない。
今時の小学生ですらも当たり前の様に持っている文明の利器たる携帯電話を、それ以前に日本やイギリスと言う国の名前すらも知らないと言われた瞬間、思わず頭を抱えてしまう。
――あまりにも無知すぎる。
生まれたての赤ん坊か、余程の辺境の地で育ち現代の教育を満足に受けられなかった人間であったならばまだ辛うじて納得も出来よう。
しかしメイドの女性は、前者は勿論として後者と言う雰囲気も感じられない。
だが、誰もが知っている物を彼女は知らないと口にした。
その様子から嘘や冗談で言っている素振りも見受けられない。
「あの、エイキ様、私何か失礼なことをしたでしょうか……」
「いや、もういい。もういいから……」
これ以上彼女を相手に問答は無意味と、先程そう結論を下したばかりではないか。
自嘲気味に小さく笑い、ふと一つの疑問が脳裏に浮かび上がる。
――馬鹿げている。
即座に否定する。
けれども否定すればする程、疑問は消えるどころか巨大化し続けやがては興奮へと変わった。
「……なぁ、もう一度だけ聞くけどさ、ここってマジで何処なんだ?」
それは自身の考えすぎだと言い聞かせるように、衛鬼は尋ねる。
「……ここはイリュド大陸の東に位置するオリトリンデ。そしてエイキ様が今おられるここはオルトリンデ城です」
相変わらず、彼女の言葉には嘘が宿っていない。
膝が震えそうになる。
もしだ。もしメイドの女性の言っていることが事実だと仮定しよう。
――刃崎衛鬼は一体何処にいる?
衛鬼はとうとうその部屋を飛び出した。
白く長い廊下を駆け抜ける。後ろから慌ててメイドが追い掛けてくるが気にしてはいられない。
騎士甲冑や見るからに高級そうな絵画が飾られているが、テレビを初めどの家庭にも必ずあろう家電製品の類が置かれていない。
防御性を本当に考慮しているのかと冷静な時であれば疑問を投げ掛けていた騎士甲冑を纏った女騎士とすれ違い、調教師であろう女性から調練を受けている見たこともない生き物を横目にして――遂に理解する。
既に日本でない、否、地球そのものでないことはわかってしまっている。
だが。
「嘘だろオイ……」
当てもなく、ただ答えを欲する気持ちだけで我武者羅に廊下を走り続けた先に辿り着いたバルコニーは町の全体を見渡せた。
木やレンガを主体とした建物が群集している街並み。
大小新旧様々なビルも、自動車も、アスファルトで塗り固められた人工の道路も、現代のものが何一つとして存在していない。
衛鬼はこの現象について知っている。
誰でも気軽に楽しめるライトノベルで多く取り扱われているのは異世界を題材とした、所謂ファンタジー小説。
更に掘り下げていけば純粋なファンタジー小説よりも、現代の日本人が何かしらの要因で異世界に召喚される、或いは偶然にも行ってしまった、と言った系統の作品が極めて多く未だに高い人気を誇っている。
即ちこの現象は正にそれなのだ。
「おいおいマジかよ!」
衛鬼は興奮した様子で叫び声を上げていた。
現実では決して起こり得ない。だからこそ様々な妄想が生まれライトノベルと言う形を得て出版される。それを手に取った読者は更に妄想を膨らませ、また新たな物語が次々と紡がれていく。
その現実では起こり得ない現象が、現実となった。
ライトノベルを手にしている読者及び手掛けた作者達からすれば誰しもが羨むだろう。
月並みな言葉であるが、視界一杯に広がっているのは確かに中世の西洋を連想させるファンタジーならではの光景。
鎧や剣で武装している人間が町中を堂々と歩いていることが理として成り立っている。
「大丈夫なのエイキ!」
背後より発せられた声に衛鬼は振り返った。
先程のメイドとは違う、また新たな女性が慌しく駆け寄ってくる。
黄金で装飾された美しい鎧――と呼ぶには露出度が高く腹部を丸出しにしている時点で鎧よりも色物衣装ではあるが――と白いマントを纏い、小さな王冠を燃え盛る炎の如く鮮やかな真紅色の長髪を生やした頭頂部に乗せている。
歳は自分と差ほど変わらない年頃の娘だ。しかし外面は万人が美を感じよう。
そして背後に控えている女騎士達もまた、美人の一言に尽きる。纏っている鎧については、最早ツッコミは入れないことにする。
ついでにメイドの姿もあった。
「えっと、どちら様?」
「なっ!? そんな……貴方の母親のフィリスよ! そんなことも忘れてしまうなんて……」
「は、母親……!?」
衝撃の言葉がフィリスと名乗った女性の口より飛び出した。
――有り得ないだろ。
心優しく、若くして刃崎衛鬼を出産したことから周囲の友人の母親と比べて若く綺麗と言われる自慢の母の顔を忘れる程記憶能力は欠損していない。
少なくとも何かのアニメのコスプレと思われても仕方ない際どい格好をする母は持っていない。白いエプロン姿がよく似合う、至って普通の母親だ。
「やはり、階段から落ちて頭を打ったことが原因かと……」
「そんな……あぁ、エイキ! どうして貴方がそんな目に……!」
衛鬼は理解した。理解してしまった。
涙を浮かべ震えた腕で優しく抱き締めてくる彼女もまた、その言葉に嘘の感情は宿っていない。
異世界に現代日本人である自分がいる。この事実は変わりない。
ただその方法が召喚や偶然と言う原因ではなかった。
そもそもどうして気付かなかったのか、二度目となる自嘲気味な笑いを心中に浮べて、改めて衛鬼は己の手に視線を落とした。
廊下を全速力で走っている時。距離にして凡そ十メートル前後、いつもならばあっという間に駆け抜けられる筈が思っていた以上に時間を費やした。
発している声も今にして思えば随分と高い。
そして今目にしている衛鬼の手は、皺も渇きもない充分な潤いで満たされた小さな小さなものだった。
以上から導き出される結論は、一つしかない。
――俺、死んじゃったのかよ……。
転生――それは死した人間が何かしらの要因で異世界の住人として転生し、第二の人生を歩む作品を差す。保持した前世の記憶や技術を転生先独自の技術と複合させて誰しもが思いつきもしなかった技術で周囲を驚かせ魔物相手に無双し可愛いヒロイン達に囲まれてハーレムの人生を送る。
男ならば誰しもが萌えるシチュエーションだ。
地球生れ日本育ちの刃崎衛鬼は死に、異世界の住人として転生を果たしていた。