オープン前話 加倉井カオル -1/2-
こちらの話は、1章-1で隼人のアパートを出た直後から始まります。
隼人のアパートを出たカオルは、二階の部屋を見上げた。
「……」
「皆さん、すみません……、今あの子は不安定なんです。その…私の妻の事もあったもので」
小雪の父親が頭を下げる。
「小雪ちゃんのお母様も、火事でお亡くなりに?」
カオルは聞いた。知らなかった。
ストーカーに遭い引きこもっていたというのは、隼人から聞いていたが…。
「ええ…」
小雪の父が溜息を付いた。
皆がいたたまれないと言う表情をしている。
「小雪に良くして頂いて、ありがとうございました」
「いえ…」
カオルはそれだけしか言えなかった。
「兄さん、僕は皆さまを送るから、速水さんと小雪に土地の事を」
「ああ。では皆様、本当に、ありがとうございました…」
隼人の両親が何度も頭を下げ、階段を上がっていった。
「あの、…もしかして土地、…手放すんですか?」
カオルは小雪の父親に尋ねた。
「ええ…そうみたいです。さあ、乗って下さい」
隼人のアパートはアトリからさほど離れてはいなかったが、焙煎士の倉持、パティシエの寿以外は皆、行きは速水に乗せて貰ってきていた。アパートのすぐ近くの24時間パーキングまで歩く。カオルは免許はあるが車を持っていない。
「じゃあ、これで…」「皆、元気でな」
それぞれが車に乗り込む。
二人はまた勤め先を探すと言っていた…もう会うことも無いだろう。
カオルが助手席に座り、桂馬、乙川が後部座席に座った。
「速水君、大丈夫かしら…」
カオルは先程の様子を思い出し、呟いた。
彼は明らかに憔悴しきっていた。
まだ速水と付き合いの短いカオルにとってそれは、かなり意外だった。
なんとなく、もっと大人で冷たい人だと思っていたのだ。
物腰や言葉使いが必要以上に大人びているせいかもしれない。しかし、考えてみればカオルの弟の響と一つしか違わない。
「あの、速水サンって、店長とはつきあい長かったんですか?」
桂馬が聞いた。
あるいは小雪の話題は重すぎる。そう思って言ったのかも知れない。
「確か、中学入る前、小学生の時に、隼人と知り合ったって言ってたけど…」
カオルは速水に初めて会った時の事を思い出して言った。
「私、隼人に喫茶店やるから、働かないかって言われて、面白そうだから乗ったんだけど。…初めて速水君に会ったのは…荷物運んで来た時かしら。只の配送さんだと思ってたわ」
「俺もッス。あの人、豆とか詳しいみたいですけど、珈琲は煎れられるんッスかね?」
桂馬が少し笑って同意する。
乙川は黙ったままだ。
カオルは隼人の言葉を思い出す。
「うーん、一応出来るみたいだけど。お店には配送と締めと掃除しか来て無かったし…、あ仕込みもやってたわね。私も彼の珈琲は飲んだ事無いわ」
暫く話す。
「僕、隼人さんと働きたかったです」
「乙川君…」
そうしているうちにカオルの家に着いた。
「二人とも…じゃあね。お父さん、ありがとうございました」
「はい」
そして手を振った。
車が遠ざかっていく。
アトリ…。
隼人から連絡があった時は驚いた。
彼とは講習会で隣の席になっただけだったからだ。
そして講習会の後、何となく番号を交換して。
…今でもその流れは不思議で仕方無い。ナンパ?と一瞬思ったし、断ろうとも思ったが。
『ほら、カワラヒワが鳴いているし』
一瞬、この人格好いいなと思った自分はかなりおかしい。
それ以後連絡も無く、音信不通だったのだが。
『今度お店を作るんだけど、良かったらどうかな。オープニングスタッフで』
そう電話で誘われた当時、カオルは有名チェーン店で勤め、たまたまそれに疲れていた。
有名店の型にはまった接客、態度のわるい客…、人間関係。もちろんいつもの事だが、それにうんざりしていた。慣れているはずだったのに。
人と接するのは嫌いでは無い。むしろ好きだ。喜びも大きい。やりがいもある。
…だが、たまたま。
『どこでやるの?』
カオルはそう聞いていた。
『ほら、音大の近くに森があるだろう?その一角を借りて小さな店を開くつもりなんだ』
『あ、けっこう近い…』
それが自宅から結構近かった。自転車で十分弱のあの森か、すぐに分かった。
『おや。そうなのかい?』
『ちょっと考えてみる。…うーん…、あの森よね…』
考えてみる。なぜか、それで電話を切れないほどに心が動いた。
『それで、もし良かったらオープン前から、僕のいとこの女の子に色々教えてあげて欲しいんだ。小雪は働くのは初めてだから』
隼人はそう言った。
『え、女の子?…働くの?幾つ?』
いとこが働くとは、…アットホームな感じかも知れない。
『中学をもうすぐ卒業するから、十五歳』
『え、若っ!』
カオルは思わず言った。つまり、高校生?
『小雪は、少し事情があって。高校は行かずに。僕は彼女と、それと。もう一人、カラスの為にお店を開くことにしたから』
『カラス?』
言って、いつもの例えだというのは分かった。…きっと、そんな感じの人なのだろう。
隼人は笑った。
『まだお店は建て始めたばかりだから、オープンは十一月一日かな』
『冬に始めてお客さん来るの?』
カオルは少し心配になった。
「―あ、そこです。ありがとうございました」
カオルは車から降り、溜息をついて家に入る。
自慢では無いが、かなり大きな家だと思う。
以前は家族で茨城県に住んでいたが、弟が音大に進学するので引っ越したのだ。
…両親とも音楽家、母はバイオリニスト、父はピアニスト、弟は音大生。
だけど自分はバリスタの端くれ。
ピアノやバイオリンも出来ない事もないが…あの憎たらしく完璧な弟に比べれば、カオルに音楽の才能は皆無だった。
…今は日中なので家には誰もいない。
カオルは珈琲を煎れ、年季の入った黒いソファーに座った。
これからどうしようかしら…。
失業の事情を両親に話したら、良い機会だし暫く休めと言われた。
飲食業は忙しい。
二週間くらいしたら、求人でも探そうかしら。
アトリみたいな、小さなカフェを。
アトリは――、結構、楽しかったのだ。
小雪はびっくりするほど可愛いし、真面目だった。
イジメ、ストーカーに遭って不登校になったと聞いていたが、本人を見てなるほど、これは確かに虐められるかも…と思った。
彼女は中学生にしては背が高くて、モデルのようで。クラスで悪目立してしまったのだろう…。
人混みが苦手で休日は出かけないと言っていたが、渋谷などを歩いたらスカウトされるかもしれない。
『カオルさん!』
はたはたとついてくる、ちいさな妹が出来たみたいで。
隼人は…見て分かる、彼女が心底好きなのだ。
何と言うか、彼女をいきなりチーフにしたりと、隠しきれない本気さが伝わって来た。
将来は夫婦でアトリを経営する気に違いない。
…その前に、赤字でつぶれるかもしれないけど。
何となく、隼人には経営センスが欠けているような気がする。もちろん開業できたのだから、それなりに手腕はあるのだろうが…。一年もつか?と言うところかしら…。
カオルは溜息を付いた物だった。
…だが、そうなったらそうなったで、自分は雇われの身だ。また何処かへ行けばいい。
それまで少し、ここで羽を休めるのも良いかもしれない。
カオルが速水に初めて会ったのは、開店準備の最中、小雪に接客を教えている時だった。
表に車が止まった。
『ああ、カラスがやって来た』
『カラス?』
小雪が首を傾げた。
そして直ぐに、段ボール箱を抱えた彼が入って来た。
店のロゴ入りのキャップを目深にかぶって、男性には珍しい長い髪を束ねている。
服装はほとんど黒。
確かに、カラスだ。
『これ頼まれてたやつ。ピック済み。伝票にサインしろ。事務所に運べ』
『はいはい』
隼人は顎で使われている。
『自己紹介をしといてくれるかな』
隼人は運びながら言った。
『ああ…、初めまして。速水と申します。早瀬小雪さんに、加倉井カオルさんですね。どうぞよろしくお願い致します』
速水は帽子を取って微笑んだ。
『え、ええ。初めまして』『は、はい!』
カオルは態度の変わりように驚いた。
と言うか…この美形度は、普通じゃ無い。小雪も頰を染めている。
『彼、ジャックはこの店の副店長で、主に仕入と事務担当で、共同経営者だよ。僕が知らない事は彼に聞けば分かるから』
隼人が奥から戻って来た。
『そうなの?良かった!』
共同経営と聞き、カオルは思わず言っていた。ジャックとは何か分からなかったが、変人隼人の言うことだし気にすることは無い。そういう鳥もいるのかも知れない。
『??』
小雪が首を傾げる。
『ほら、隼人だけじゃ心配だったのよ。経営とか、明らかにセンス無さそうだし』
『カオルさん…』
小雪も実は同じだったのだろう。クスクス笑っている。
その隼人はいつの間にかカウンターにいた。時計を見ている。
時刻はもうすぐ十二時。
『おや、ジョウビタキが鳴いたしお昼にしようか』
とか言いつつ、カウンターで飲み物を用意し始めた。なかなかの手際の良さだ。
『しばらくかけてお待ち下さい』
速水が言って、慣れた様子で食器を用意し、あっと言う間に完成させる。
カオルと小雪はお任せで、四人掛けの席の片側に並んで待った。
そして速水が優雅な手つきでテーブルに並べる。
『お待たせいたしました。さ、食べましょう』
速水は明らかに接客経験者だ。速水が盆を置きに戻り、その間に隼人が席に着く。
『これ、出すランチ?』
『うん。とりあえずね。お店も出来たし、そろそろメニューも考えようか』
隼人は相変わらず、のんびりしている。
『デザートは誰が作るの?』
カオルは隼人と速水に聞いた。
『寿さんはパティシエなので。朝は俺が仕込みを手伝います』
席に着いた速水が答えた。
カオルは微笑んだ。…隼人はこんなだが、彼に任せておけば安心だろう。
『そう―、いただきます』
カオルはフォークを取った。
『頂きます』
小雪も笑顔で。
その日のランチは、とても美味しかった。
その頃から、毎日が楽しくて仕方無くなっていた。
初めは閑古鳥だったお店もだんだん、口コミやら一見で人が集まるようになった。
側の音大女子は弟の響を目当てに来るらしい。
スタッフが集まったら宣伝、と言うどうにも微妙な店長の方針は…今思えば、人が苦手な小雪の為だったのかも知れない。
隼人は、実はとてもできる男。それはスタッフの皆が分かっていた。
イタリアのスクールで資格を取り、オーストラリアでも修行。
中々そこまで出来る人は居ない。
けれど…。その隼人が…。
なんでこんな事に。
小雪は、立ち直れるのだろうか。
速水は、大丈夫だろうか。
カタン。
カオルは玄関の開く音に顔を上げた。
いつのまにか、テーブルにうつ伏せになって、眠っていた。
珈琲は冷めるとカップの汚れが落ちにくい…。
「姉貴、ただいま」
弟の響だ。
「お帰り」
「どうだった?」
開口一番に響は聞いて来た。
「お店、やっぱり無くなるみたい…」
声が沈むのはしょうがない。
「…そうか。残念だが、仕方無いな…」
カオルは、弟が小雪目当てで通っていたことを知っている。
「うん…」
カオルはカップを片付け、自室に入った。
適当に扉を閉め、ベッドに倒れ込む。
…、アトリ…。
上手くいってたのに。
(隼人は頼りないけど、やっぱり頼りになって。速水君はなんか凄くて、密かな目の保養で。…倉持さんはこんな小さな店にもったい無いくらいのベテラン焙煎士。パティシエの寿君の作るケーキは超絶品。小雪ちゃんは頑張り屋で、意外に俊敏。桂馬君は…、乙川君もこれから―。)
上手く行ってたのに!
せめてお店があれば、また出来たかもしれないのに。
いっそ自分が速水を巻き込んでも良かったのに。
駄目だろうけど、やらないかと聞くだけなら。出来たかもしれないのに…!!
涙を堪えきれなかった。
「…何でよ…、隼人…」
カオルは、一瞬、隼人を格好いいと思ったのだ…。
最も、すぐに付き合いきれないと気が付き、あきらめたが。