第2羽 小雪とお茶室 -5/5-
私は、『はい…』としか言えませんでした。
今、和室で洋服に着替えています。
きっと、私は、試されているんだ……。
速水さんは…とても心強い味方だけど、決して私を甘やかさない人。
速水さんにも、リスクがあるから当然だけど。
『全て、自分に任せおけばいい』とは言ってくれない。
いいえ。
言って貰っては駄目。
私はまだ未成年だから、土地を借りて、契約する事ができない。
あの森にアトリを建て直すお金だって無い。借金も出来ない。
じゃあ、誰にお金を出して貰うの?――頼れるのは、速水さんしかいない。
……だから、私は、せめて。
明日になったら、速水さんのお祖父さんを自分の言葉で説得しなければならない…。
私は、姿見に映る自分を見た。
着物を脱ぐのを手伝ってもらって、残った長襦袢姿。
「…」
お化粧があっても、まだまだ子供の自分に涙が出そうになって…少し目尻を指で押さえた。
……恥ずかしいです。
当然のように、速水さんに全てやってもらえると思っていた自分が。
(オーナーを、説得する……?私に、そんな事ができるの?)
普通に考えて、もう、アトリはできない。
だって、隼人さんがいないから。
(隼人さん…、私はどうすればいいの……?)
……途方に暮れてしまって、また動けなくなりそう。
(はやとさん……)
鏡に触れようとして、ためらう。
できっこない。
だって私は……人に自分から話かけるのも苦手で…友達もあまりいなくて……。
幼稚園の時も、小学校低学年の時も、時間さえ合えば、隼人さんに会いに行ってて…。
……思い出したくないけど、付き合いが悪いからって、信じられないくらいひどいイジメに遭って。
――お母さんがいなくなって。
もう学校なんか行かない、死にたい、と言う私に、誰も無理をしろとは言わなかった。
お父さんも、…一番支えてくれた隼人さんでも。
お母さんなら言ったかもしれないけど、……お父さんは、私よりひどく落ち込んでいた。
私は、逃げて、閉じこもって。
怯えて、…泣いて、それで…忘れて。甘えて。
身勝手な悲しみに沈んで、お父さんにも隼人さんにもやつあたりして、迷惑をかけて。
今まで、ずっとそう過ごして自分が、本当に恥ずかしい。
何もできなくて、泣いていただけの自分が、悲しい。
アトリで働いて、少し前に進めたと思っていたけど。
(私は、あの頃と何も変わっていない…)
ううん――変わるのが怖いの――。
だけど。
今はすこし、不思議な気持ちです。
速水さんは…まるで…、私が変わる『きっかけ』をくれようとしてるみたい。
もちろん、そんな訳なくて、ただの偶然か、単に親友の知り合いだから、気にかけてくれてるだけです。
この世で一番大切な、隼人さんの、突然の死。
それが私を根こそぎ、外の世界に放りだしたのかもしれません…。
怖くて暗い、立っているだけで、震える世界に。
「…―くしゅんっ」
体が冷えてしまったみたいです。
風邪を引いたりしたら隼人さんが心配します。
隼人さんが――帰って来てくれたら良いのに。
――全部、これから起こる事も、明日のことも、夢ならいいのに。
昨日なんていらない……。
そう思いながら、私は急いで着替えて広間に戻った。
「すみません、着替えました」
速水さんが立ち上がる。
「じゃあ行こう、あれ?兄貴は…?」
速水さんが自分の隣を見ましたが、誰もいません。
「そういえば出雲さん、いませんね…」
私は部屋を見回しましたが…居ないようです。
そう言えば…さっき、会話の途中くらいで席を立ったのかも?
「お手洗い…とかでしょうか?」
「じゃあ少し待とう。すぐ戻るだろ」
― 十分後 ―
………。
………
…………
……………
「遅いですね」「…うん。先に茶室に行ったのか?」
私と速水さんが、十分ほど無言で待っても出雲さんは戻って来ません。
「…探してくるから。ちょっと待ってて。……どこだ??」
速水さんが呼びに席を立ちましたが、心当たりはないようです。
そのまま探しに行きました。
(…お庭でしょうか?)
私は広間から廊下に出て、木細工が綺麗なガラス戸ごしに、庭を眺めました。
――真っ白な庭園。
静かで、まるで、私以外に誰もこの世界にいないみたい。
あ、少し遠くにカラスが一羽、ちょこちょこと歩いています。
そうしたら。
「こゆきちゃん、ミっーけ♡」
――!!!!!!
私は、その声にびっくりして、振り返る事が出来ませんでした。
「……」
そのまま一、二数歩、――すこし離れてから確認した。
「おりょ。どうかした?」
ぎょっとした私を見て、出雲さんが不思議そうにした。
「…あ、少し考え事をしていて」
言い訳して、笑いました。
こんな場所に、他の誰かがいる訳無いのに……。
みっけ、というイントネーションが…。……鳥肌が立つほど似ていました。
「おりょ?…考え中。――何を?」
出雲さんがふわっと笑いました。
とても穏やかな、やさしい微笑みで、私はほっと胸をなで下ろした。
「…ええと、実は」
出雲さんに…明日どうしたらいいか、意見を聞いてみようかしら?
あきらめた方がいい、って言われるかな…。
それとも、何か良いアドバイスを下さるでしょうか…?
だけど。
『貴方なりの「答え」を見つけて下さい』
私は――速水さんの言葉を思い出した。
「……いえ、何でもありません。やっぱり自分で考えます」
…私は、出雲さんに色々尋ねようと思ったのですが、やめました。
「そう??」
「はい」
私は笑いました。
「上手く行かないかも知れないけど、頑張ってみます」
「――そう?」
出雲さんが首をかしげた。丁度そのとき、庭の端に速水さんの姿が見えました。
「あ」
私は思わず声を出しました。
遠くの速水さんも――気が付いたようです。
私の隣で、出雲さんが速水さんに手を振りました。
私も手を振りたかったけど、止めておきました。
「朔、ずいぶん変な場所にいるね?」
出雲さんが腕を組んで、首を傾げました。
「出雲さんを呼びに行ったんですが……」
速水さん、明後日の場所にいます…。
「ふふ。相変わらず……。朔は捜し物が下手だっぴ」
出雲さんが微笑した。
「本当に、いつでも動いて、せわしない。もっとゆっくりでいいのにね?」
「出雲さん…」
出雲さんもあちこち動いていたような気がします…。
ですが、お茶室では別人のようでした。
「早瀬さん、薄茶は美味しかった?」
出雲さんが言った。
「はい、とっても」
私は笑顔で言った。
今日はね、と出雲さんが呟いた。
「そのうち朔を呼ぼう思って、準備をしていたら……向こうから連絡が来た」
出雲さんの静かで心地よい声が、廊下に響きます。
「――茶をやってると、そういうことは良くある。だから一期一会。俺はこうして、また朔と一緒にお茶を飲めるとは思わなかった。朔は抹茶と和菓子は好きだけど、沢庵と落雁と茶室が死ぬほど嫌いだから」
「…速水さんが、ですか?らくがんはご自分で言っていましたが…」
そういえば、少し微妙そうな顔をして、お昼の沢庵をかじっていました。ゆっくり味わって食べていたので、少し不思議に思ったのですが。
「たくあんと…お茶室も苦手なんですか?」
「うん」
私の言葉に、出雲さんが頷く。
「たくあんも落雁も、家に沢山あったから、嫌いになったんだろうね。茶室は……お祖父さんや父さんは、朔に厳しかったから」
出雲さんが苦笑した。
「あ。そういえば、勘当されたと……」
…―あまり聞くのは良くないのですが、聞いてしまいました。
「ああ。それはいつもの喧嘩だから、そのうち仲直りできる」
出雲さんが明るく言うので、私はほっとしました。
出雲さんは腕を組んで庭を眺めています。
「……小雪ちゃん。『一期一会』という言葉は、良く聞く言葉だけど、とても奥が深い。今風に言うと、チャンス…、一生に一度しかない機会を現す言葉でもあるかな?」
「チャンス……」
「そう」
出雲さんが頷いた。
「それ以外に、これから何度でも会える人でも、今日会えるのは一度きり。そう思って、今を大切に……とかね。茶道ではこの考えが方一般的だけど。意味の解釈、出来事の原因、結論や過程はたくさんある。一つの行動が上手く行かなくても、そこで終わりじゃない。例えばほら、空を見てご覧」
出雲さんが晴れた空を見て、いわれるままに私も見上げた。
真っ白な雲が浮いています。
「この日の空、雲の形は二度とめぐり逢えない物だけど、人はみな同じ空の下にいる。今日、朔や小雪ちゃんと、こうして出会って、縁を結んだように…。思いもよらない事が、小雪ちゃんにもあるかもしれない」
「……はい」
出雲さんのお話は、やっぱりちょっと難しいです。
「…小雪ちゃんは、朔とは仲良い?」
出雲さんが言った。
「はい……。あ。いえ…そんなに」
私は先ほどの……無言で過ごした十分を思い出して言った。
真面目な会話の後で少し気まずくて……。
私は髪を撫でたり、手帳や携帯を見たりしていました。
何か話しかければ良かったのに。
「すごく年上だから…?いつも、もの静かで、話しかけにくいです。お仕事中もそれほど…まだあまり…。たまに怖くて緊張します」
「へぇ。朔の第一印象は?総合的に今何点ぽ?」
出雲さんが何気なく言った。
「第一印象…?『他人行儀な、クールでちょっぴり怖い人』という感じ…?点数は…分からないです。あっ、すみません」
聞かれるままに答えてしまって、慌てて謝ると、出雲さんがくすくすと笑った。
「そっか。確かに、クールぶってるけどねー…。本当はすごくやさしい子だから」
「――兄貴?」
廊下の向こうから、速水さんが来ました。
「…これから、朔と仲良くしてやって下さい」
出雲さんが微笑んだ。
■ ■ ■
――そして、後半戦です。
せ、正座に慣れたのか、痺れが蓄積されていて、限界になったのか、足の感覚がありません…。
ついていくのに必死で息も上がりました。
それほど長くは感じませんでしたが、終わって、時計を見ると夕方五時でした。
やっぱり正座に慣れたのでしょうか?
最後のお稽古の後、何とか立てましたが……歩くのは大変でした。
茶室が苦手らしい速水さんは涼しい顔をしていました。私も負けられないです。
(そうです、最後、自分の足で立って退席するまでが、和の戦いです……!!)
あと少しで門……。
「早瀬さん?おつかれさまです。帰りはお送りします」
急に速水さんに声をかけられた。
「え。あ、はい……」
…結局それで、一日が終わってしまいました…。
明日はスカートに、足袋をイメージした白い靴下を履いて、お道具一式を持っていれば十分だそうです。
山ほどあるからと、使った道具を全て頂きました。
「ばいばーい!オツかれい!またね!いつでも来てぴょん~!むしろ呼んじゃう?メールメール!ほらこれお土産和菓子だっぴ!朔っぴもまた来てフツカフツカ!」
「??ありがとうございます」
出雲さんが門前で手を振っています、私は、習ったとおりにお辞儀をしました。
速水さんが頭を押さえて唸った。
「だからぴはやめろって。まだぽの方が…いや、――行きましょう」
速水さんはいつの間にか、洋服に着替えています。この素早さも見習いたいです。
「はい、お願いします」
電車だと駅から少し歩きましたが、車だと四十分かからないくらいでよく知った街に戻れました。
車の中で、足の甲と足首と肩が痛くて…。
明日が心配になりましたが、速水さんが途中で大きいお店に寄って、湿布やお総菜を買って下さいました。
長いお茶会では、四時間以上、もっとかかる場合もあるそうです……。
「そうなんですか……」
再び車に乗った私は、少しうとうとしています。
…外はもうとっぷりと、暗くなって来ていて…。
「あっ…、…そう言えば、出雲さんっておいくつなんですか?」
私は眠気覚ましに尋ねた。
「兄貴?―ああ。見た目は高校くらいから全く変わってないけど、あれで隼人よりも大分年上で確か…」
「――ええっ!!!?」
速水さんに出雲さんの年齢を聞いて、一気に眠気が覚めました。
一体、どうなってるのでしょう…?
「そう言えば、昼ごろ、兄貴と何か話してたみたいだけど」
速水さんが言った。
「ええと。ふんわりした、雲のお話をした感じです…」
私はふんわりした説明しました。
…もしかしたら出雲さんは、途中まで、私達の会話を聞いていたのかもしれません。
「?そう」
速水さんはそれで納得したようです。
「はい」
少し難しかったけど、励まされたような。そんな心地よいお話でした。
「……出雲さんって、素敵なお兄さんですね」
私は言った。
これから、出雲さんとも、速水さんとも、もう少し仲良くなれたらいいな……。
「あ」「そうかな――着きましたよ」
アパートに到着しました。
また速水さんが助手席のドアを開けてくれました。
「今日はお疲れさま。明日は八時半に来ます」
「はい、お願いします。今日はありがとうございました」
階段を駆け上がって振り返ると、速水さんが小さく手を振ってくれた。
■ ■ ■
ようやく、帰ってきました……。
――私は鍵を開けるときは背後を振り返って、警戒します。
癖になっているようです。
「ただいま…」
私はアパートの扉を開けた。
……今日はお父さんは遅いので、誰もいません。
鍵を開けたらすぐに下駄箱の電気を付けます。まだ鍵は閉じません。
部屋の灯りを付けて、誰もいない事を確認して。
私はお土産の和菓子とバッグをテーブルにどさっと置いて、鍵を掛けて、居間に座り込みました。
「はぁ…疲れた…~」
もう、へとへとです……。
速水さんが…お総菜も買ってくれたけど、買い置きのカップ麺で良いかな。
ジャンクフードって美味しいです…。
薄茶も濃茶も美味しかったんだけど、和菓子はしばらく見たく無いという気分です。
速水さんもこんな気持ちなのかしら……?
とても疲れました…。
もうこのまま横になりたい。
(けど、これからが本番です…!)
私は、お気に入りのメモ帳を取り出した。
〈おわり〉