現れた第四の男
目覚めの気分はとにかく最悪だった。顔に降り注ぐ日の光をこれほど鬱陶しいと思ったことは、花鶏勇吾の人生で初めてのことだった。
思わず携帯を投げ捨てそうになる。
「……いや、これを捨てると困るな。何が困るかは知らんが、多分困るな」
自分以外の何かに言い訳しながら、投げそうになった携帯をそっとサイドチェストに戻した。あれから福留は何も言って来ていない。もし、何か言ってきたならその瞬間に携帯をへし折りそうだったので、花鶏としてはむしろ助かった。
「勇吾ォーッ! 置きなさい、そろそろ学校の時間でしょうがァーッ!」
「っせえな! 起きてるからちょっと静かにしててくれよ!」
そんな勇吾の気持ちをまるで察していない、無遠慮でデリカシーのない大声が階下から聞こえて来た。あれでも父がいるときはおしとやかなお嬢様のフリをしているのだから恐ろしい、と花鶏は思った。むしろ騙せていると思っているのだろうか。
イライラしながら花鶏は皺ひとつない純白のシャツの袖に手を通し、指定の学生服を纏った。そして少しだけ迷って、携帯を持って階段から降りて行った。
「……母さん、弓狩の奴ってもう来てるか?」
「うんにゃ、今日は来てない。弓狩ちゃんもいい歳だからねえ、もうあんたと一緒に学校行っちゃくれないんじゃないのかい? ほら、早く食べて学校行く! 遅れるよ!」
「遅れねえって、言っておいた通り朝練ねえからさ……早く起きても正直、困る……」
ぶつぶつと言いながら、どうせ母はそんな事聞いてはくれないだろうな、と思った。案の定母はそれを聞かずにテレビをつけ、自ら始めた会話を自らシャットアウトした。ため息を吐きながら花鶏も食事に移った。話題はT港に停泊している船についてだ。
『米軍のイージス艦が停泊』『各地で抗議デモ』『逮捕者も』『とにかく撤退だ』。煽情的なキャプションが躍る。母はそんなことに興味を持っていないのかチャンネルを変えた。
「さてと、じゃあ俺は行ってくる。戸締りとか気を付けてくれよ、母さん」
「なんだい、あんた。朝練ないんじゃなかったのかい?」
「朝練なくても、することはあるよ。ちょっと走ってから学校に行くことにする」
食事をしている時も寝ている時も、便所に行っている時も昨日の会話がグルグルと頭の中を回っていた。こんなもやもやした気分になったのは生まれて初めてだった。あるいは、これまで真面目に物事を考えてこなかった、ということか。ぼんやりと考えながら花鶏は鞄を掴み、逃げるようにして家から出て行った。
ところで、弓狩に呼び止められた。
「……こんなところで待ってないで、中に入りゃよかったのに」
「うーん、なんだかね……私も、一人になって考えたかった……っていうか?」
「……ちょっと一緒に走ろうぜ。俺も何つーか、もやもやしてるんだ」
そう言って、二人は特に合図をすることもなく走り出した。いつも部活で走り込みをしているコースを、遥かに遅い速度でゆっくり回って行った。二人に言葉はない、時々散歩に出ていたご老人が、不思議そうな顔を二人に向けるだけだった。
「なんだか昨日は……とんでもないことに、なっちゃったね……」
先に口を開いたのは弓狩だった。その口ぶりはどことなく重い。
「そうだな、まさか……福留のおっさんが、あんなクズだったなんてな……つっても、俺の携帯勝手に改造したりして、その片鱗はあったんだけどさ……」
「自分に協力してくれた人たちを殺そうとするなんて、どんなことがあったんだろうね」
「分からねえ。福留のおっさんはだんまりだし、トトたちもその辺りの詳しい事情は知らねえってから……おっさんが語ってくれない限り、闇に包まれたまんまだな……」
そう言いながら、花鶏は自分の胸元を見た。福留は骨伝導で花鶏だけに聞こえるよう、携帯を改造していた。だが、特に彼が声を発することはなかった。恐らくこの会話の内容もすべて聞いているだろうに。花鶏はため息を吐いてランニングを続けた。
そんな彼らの前に、一人の少女が現れた。白と黒の装束、トトだ。
「トト……お前、こんな時間にいったい何してんだよ?」
「それはこちらのセリフですねー? 不用意な外出を避けるように、ってお兄さんたちにも通達が行っているはずなんですがねー?」
「話しすり替えんなよ。俺たちは……まあ、単なる暇つぶしとか、そういうもんだよ」
「そうですかー、では私も単なる暇つぶしで……」
そう言ってトトは二人の間を横切ろうとした。特に呼び止める理由も思いつかなかったため、花鶏はそれを止めることはしなかった。が、途中でトトは振り返って言った。
「……というのはウソで。実はルーフィスちゃんを探しているんですよねー」
「ルーフィスって……確か、呼び出された四体の《デモニューロ》の一人だったっけ?」
「ええ。アマゾアちゃんがいなくなったいまとなっては、最後の一人というわけです」
「そういえば、こっちに来た四人って向こうの世界でも知り合いだったのか?」
「いえいえ、偶然その場に居合わせて、更にその中で地球に用があった者だけがこっちの世界に来たんですよ。ですから上下関係とかその辺も一切なし。赤の他悪魔なのです」
悪魔の世界とはもうちょっとかっちりした上下関係によって成り立っているものだと思ったが、予想よりもっとふわふわしたものだったようだ。そもそも、地球に用がある悪魔が少ないのかもしれないのだが。
「……っていうか、お前は何のためにここに来たんだ?」
「私ですか? それはですねー、これを見たくてこっちの世界に来たんですよー」
途端にトトは嬉しそうな顔になって、ショルダーバッグからあるものを取り出した。それは少女にとっては一抱えもありそうな、花鶏のような大人には摘まむだけで済むような大きさの紙束であり、平たく言うならばノートだった。ただし、その表紙は通常のノートではない。極彩色のキャラクターがいくつも散りばめられた、いわゆるキャラものだ。
「……『おジャ仮面プリ丸』? なんだ、こりゃ」
「ああ、これ私の弟が見ているシリーズね……もしかしてあなた、これが見たくて?」
「そうなんですよー。魔界ではブルーレイもどこかに流れて行ってしまいましてねー。最新シリーズも公開されると聞いていたので、こりゃ行くっきゃナイトー」
おジャ仮面プリ丸とはT市ローカルテレビ局が作成している、いわゆる特撮ヒーロー番組だ。『ジャの仮面』と呼ばれるマジックアイテムを手に入れた五人の少年少女たちが変身して悪と戦う、という共通のバックストーリーを持ったシリーズであり、本作で10作品目にあたる。
やたらとドロドロしたストーリーや設定、セリフ回しと、ローカル局とは思えないくらいのド派手なアクションによって子供から大きなお友達まで、幅広い支持を得ている。劇場作品も積極的に制作しており、これのせいで某ハリウッド超大作は『全世界興行収入一位』の看板を掲げられなくなったという逸話もある。
「……なんていうか、思ってたよりずっと俗っぽい理由でこっちに来るんだなー」
「お兄さーん? 例えば私が、どんな理由でこの世界に来たと思ってたんですかー?」
「そりゃ悪魔なんだからさ。人から魂をむしり取るとか、世界を滅ぼすとか手に入れるとか、そういう無駄に遠大で、俺たちには計り知れない理由なのかなー、と」
「電子生命体である私たちがこの世界を手に入れたとしても意味はないですしー。そもそも、人の魂を堕落させるという悪魔像は宗教的価値観の中で形作られたものですよー?」
それはその通りだ。サキュバスやインキュバスといったいわゆる淫魔は禁欲生活によって生じた欲求不満を正当化するためのものだし、そもそも悪魔憑きという概念でさえ、教会にとって反抗的な人間を合法的に処罰するための方便でしかない。そんなふうに悪いことの原因をすべて押し付けられていたのでは、当の悪魔もたまったものではないだろう。
「悪い悪い、なんていうか想像つかなくてさ。別の世界の生き物なんてさ」
「ま、それは仕方がないことですねー。飛ぶ鳥の気持ちが分からないように、水底を漂うクラゲの気持ちが分からないように。地上に暮らす人間は《デモニューロ》の気持ちが分からなくても、仕方がないのかもしれませんねー」
そう言いながらトトはふらふらとした足取りで去って行った。あまりにもふらふらした足取りなので、転んでしまわないかと思わず心配になってしまう。
「ではでは私はこの辺でー。ルーフィスちゃんが見つかって、何があったか話してくれたら、お兄さんたちにも一緒に教えて差し上げますねー?」
そう言って、トトは今度こそ濃い霧の中に消えて行った。
結局、ランニングも長くは続かなかった。気がつけば二人は学校についていて、一緒に道場の前に立っていた。いや、そういう気の短い奴は二人だけではなかったようだ。
なにせ、道場の中からは激しい音と怒号にも近い声が絶えず聞こえてくるのだから。
「どうしたどうした島津ゥッ! そんなんじゃインターハイは遠い夢の彼方だぞ!」
「ヒーッ! お、俺は先輩方と違ってインターハイなんて目指してないんでー!?」
「なに!? バカ野郎、そんな志の低いことでどうする! 目標を低く設定すれば……あとはズルズルと下がっていくだけだぞ! ふぬけたことを言ってんじゃねぇーっ!」
「ひぃーっ!? こ、この人ワケわからねえし滅茶苦茶だぁーっ!?」
道場には竹達信三ことアスラータと、その射程であった島津がいた。
いつもと違うのは竹達が真面目に練習をしていることであり、それに島津を付き合わせていることだ。
「空手ってのは素晴らしい……! やればやるだけ強くなるからな! お前の軟弱な精神と肉体を鍛え直して、俺とともに高みを目指すんだ! 島津!」
「お、俺そこまで行く気は……って、花鶏! 待って、見てないで助けてくれ!」
極限の状況下によって研ぎ澄まされた島津の直観力は、死角になっていて見えないはずの位置にいた花鶏たちの姿を捉えていた。
ターゲットを変えようという腹積もりだろう。
「ああ、悪い島津。俺たち先生に呼ばれてるからまた後でねー」
「なっ……!? こっ……この裏切り者ォーッ!」
「誰かがお前を裏切っているというのならば、それはお前自身の裏切りに他ならない!」
分かるような、分からないようなことを言いながら、アスラータは島津を引っ張って行った。道場からは彼の悲鳴がいつまでも聞こえて来たが、特に親しくはなかったので無視することにした。結局二人はいつも通り、南棟の給水タンクに落ち着くのだった。
「……ここで福留さんと一緒に変身したのが四日前か。遠くに来ちまった気がするぜ」
「あの時は、ほとんど無我夢中だったもんね。あそこでアスラータと会って……」
「そんで、住宅地での殴り合いだ。あれのおかげであいつと出会えたわけだが……」
もしかしたら、アスラータは福留に隷属する存在になっていたかもしれない。あれだけの力を持ち、花鶏にも絶大な力を与えた男が、だ。そう考えると、背筋が寒くなるような気がした。いったい福留功という男は、何を考えて『DAEMON SLAVE』システムなどというものを考え出し、そして作り出すに至ったのだろうか? ぼんやりと、そんなことを考えながら花鶏は横になった。朝、彼の顔面に痛いほど注がれていった日の光はすっかり鼠色の雲によって覆い隠され、消えてしまっていた。
「なぜこんなことになったのか……答えが欲しいかね、花鶏勇吾くん……?」
いきなりかけられた声に反応し、花鶏は跳ね起きた。弓狩の視線の先に何かがいるのを感じ、反射的にそちらを見た。そこには、一人の男がいた。上等なスーツとジャケット、品よく貯えられた豊かな髭。それは幾度か写真で目にした、福留功その人だった。