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あやしよにふる

外伝 魂きはる

作者: あんみつ

天霧らふ 降りゆく雪の 消なめども 君に逢はむと ながらへわたる



「青葉のことが、好き」

幼い私は、泣きじゃくりながらそう言った。

「だから、どこにもいかないで」

駄々をこねるように。

「青葉、青葉、」

彼の名を呼んで、小さな手を必死で伸ばして。

その声に答えるように、目の前に立つ青年―葵葉はしゃがみ込むと、腕を伸ばして私を包み込んだ。

彼の華奢に見えてしっかりとした体躯に身を寄せて、服の裾を掴む。

二度と離さないように。

きつく。

きゅっと。

「狐の君」

わたしを抱き寄せて、耳元で葵葉はそっと囁く。

彼の声はぞっとするほど静かで、優しくて、甘い。

その声で、わたしの名前を呼んでほしい。

けれど、それだけは叶わない。どれだけ願ったとしても、わたし達を縛る掟がある限り。

葵葉はわたしの名前を呼ばない。呼べない。そんなことはわかっていた。

けれど。

「わたしの、名前を、呼んで?」

わたしの本当の名前を。

―灯華、と。

そう告げた瞬間、わたしに回されていた腕の力が忽然と消えた。

葵葉の顔が目の前に移る。悲しげな表情を添えて。

「それは、できません。狐の君」

「どうし、て?」

訊かずとも、その答えなどとうに出ているというのに。

それをわかっていながら訊ねるなど、わたしはなんと愚かなのか。

「貴女の名前を呼んでしまったら、私は二度と貴女に会えない」

そう。

あの時私の名を呼ぶことがなかったから、貴方は今、此処にいる。

「貴女と共に生きる為に、私は貴方を愛することを止めたのです」

そんなことは、当の昔に分かっていたことなのに。

言葉にされると、どうしてこうも残酷なのか。

「狐の君」

葵葉の右手が、わたしの頬に添えられる。長く細い指が、髪に絡む。

「そんな、悲しい顔をしないでください」

今にも泣きそうな瞳で、葵葉は言う。その表情を見た瞬間、胸が急に苦しくなって、

喉がくっと締め付けられた。同時につん、と目の奥が熱くなったと思ったら、みるみるうちにしかいが滲み、涙が溢れていく。

「ごめんなさい・・っ」

葵葉は何も言わずに、右手を頬に添えたまま、左手で涙を掬う。

掬われた涙の先に見えた彼は、いつの間にか少しだけ、幼くなっていた。

額にあった月の神紋は消え、目の縁を彩っていた隈取もない。

そこにいたのは、かつて自分が愛していた、青葉の姿。

「青葉・・・」

「僕も、貴方のことが好きです。狐の君」

あの頃と何ら変わらない、柔らかな笑顔。

「だから、貴女は生きていてください。僕はまた、貴女にきっと会いに行く」

言って、青葉は両手を放す。その手を追って見て見れば、指の先からはらはらと、花弁が散るように消えていく。

指先から手へ、手から腕へ。

「・・・っ待って!青葉!」

叫んでも、青葉の消滅は止まらない。

「愛しの君」

彼の消えた空間で、青葉の声だけが響いた。

どこまでも穏やかで、慈愛に満ちた言葉だった。


   *  *  *

   

「―きみ、・・・狐の君」

遠くで名前を呼ばれた気がして、反射的に目を開けた。

そこは稲荷大社の拝殿の中だった。柱にもたれ転寝していたところ、本格的に寝てしまっていたらしい。

首を少しだけ動かすと、息遣いが聞こえるほどすぐ近くに葵葉の姿があった。

こちらをひょいと覗き込んで、目が合うと安堵した様に口元を綻ばせた。

「あおば・・?」

「お久しぶりです、狐の君。すみません、起こしてしまって。魘されていたようだったので・・」

「魘されていた・・?」

「何か、悲しい夢でも見たんですか・・?」

「夢・・」

呟いた途端、先程までの会話が一気に思い出され、また涙腺が緩む。

涙が頬を伝うのと、葵葉の指先が頬に触れるのは同時だった。

指の感触も、体温も、あの時と何ら変わらない。

「っごめんなさい・・・」

「大丈夫ですよ、狐の君」

指先で涙を拭いながら。

あの頃とは少し大人びて、落ち着いた声で。

「私はもう、何処にも行きませんから」

微笑んで、答えてくれた。

「ありがとう・・・葵葉」

もう一度、貴方に逢えた。それだけで、十分なのに。

それ以上のことを望むのは、もうやめよう。

己に言い聞かせ顔を上げ、笑って見せる。

「もう、大丈夫」


たとえ愛することはできなくても。

同じ世界でまた生きていける。

今度こそ共に、生きていく。


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