前編
とてもしあわせで、満たされている毎日。
ちょっと前まで考えられなかったようなきれいな服を着て、美味しい食事を毎回食べれて、優しい兄がいる。
とても充実した日々。
でも、どうしてだろう。心にぽっかりと穴が開いてしまったような、虚無感。
どうして?
その理由を考えると浮かぶのは、柔らかい月の光りのような金色の瞳の持ち主のこと。
『俺のお姫様』
そう呼んで、優しく微笑んでくれた彼は、もうここにはいない。
私はもともと、裕福な家に父と母と3人で暮らしていた。
私が10歳の時、両親が事故で亡くなった。
突然ひとりぼっちになって途方に暮れていた私に救いの手を差し伸べてくれたのは、叔父だった。
叔父夫婦の家に引き取られて、私は段々と元気を取り戻していった。
2人の従姉たちは優しく陽気で、家事を教えてもらった。
叔父はとても優しい人だった。叔父は商人で家にいることが少なかったが、帰ってくるときは珍しいお土産を持ってきてくれて、私たちを喜ばせてくれた。
叔母はいつも笑顔の耐えない人で、叔父と家族をとても愛していた。私にも料理の仕方や刺繍の仕方を教えてくれる親切な人だった。
そんな叔父の家族に引き取られて5年が経とうとしたあの日、あの日からすべてがおかしくなった。
叔父が仕事先で病にかかり、そのまま帰らぬ人となった。
それを知った叔母の落ち込みようは激しく、叔母は日に日に痩せ衰えていった。
従姉達の必死の励ましでなんとか持ち直したように見えた叔母だが、叔母は変わってしまった。
前まで好きだった家事はいっさいやらなくなり、私に押し付けた。
従姉たちが私を手伝ってくれようとしたが、叔母は従姉たちが家事をするのを嫌がった。
従姉たちが手伝えば烈火のごとく怒り狂い、私に当たった。
それから従姉たちは手伝うのをやめた。
すべての家事を1人で任された私は毎日忙しく過ごした。
忙しさのあまり、あちこちは汚れ、灰をかぶったような姿になった。
そんな私の姿を見た街の人たちは私のことを灰かぶり姫と呼び出した。
叔母の様子がおかしいと思った従姉たちは、町の医師に叔母を診てもらうことにした。
医師は叔父が亡くなったショックで一時的になる病気で、時間が経てばもとに戻ると言った。
しかし、時間が経過するごとに、叔母の私への態度はキツくなっていった。
目につかないところのアザが段々と増えていく。
従姉たちは泣いて私に謝った。
従姉たちは悪くない。叔母も悪くない。
ただ、私の運が悪いだけ。
―――早く叔母の病気が治りますように。
私は毎日、月に願った。
叔母がおかしくなってから1年が経った。
叔母の病気が治る兆しはいっこうに見えない。
私は夜風に当たろうと外に出た。
今日は月がきれい。
ぼんやりと空に浮かぶ月を眺めていた時、上の方から声が降ってきた。
「月が好き?」
「だ、だれ……!?」
周りを見回しても誰もいない。
じゃあ、あの声はどこから聞こえたのだろう?
「こっち、こっちだよ」
私は声のしたと思われる方を見た。
そこには一本の木があった。その木の枝に見知らぬ男の人が座っていた。
「こんばんは、月がきれいな夜だね」
「あなたは……?」
「俺?俺は魔法使い。君を幸せにするためにやって来たんだ」
「私を……?どうして?」
「そりゃあ、言えないなぁ。秘匿事項だからね」
よっと。
そう言って彼は木の枝から飛び降りる。結構な高さがあったのに、彼は難なく着地をして私の目の前に立った。
彼の顔を間近で見ると、特徴的な金色の瞳に目が引き寄せられる。吸い込まれそうなくらい、きれいな瞳。ちょうど空に浮かぶ月と同じ色合いだ。
人好きのする笑顔を浮かべた彼は、私の目を見て言った。
「いい瞳だ。うん、やっぱ来て良かった」
「あの……?」
「おっと。自己紹介がまだだったね。俺はシリル。今日から君の魔法使いになる」
「魔法……使い?」
魔法使いはおとぎ話に出てくる存在で、今ではごくわずかしかいないと聞いていた。
そんな存在が目の前にいると言う。
「ははーん。信じてないな?」
「だって……信じる方が難しいと思う」
「まあ。確かにね。じゃあ、証拠を見せればいい?」
「どうやって?」
「それはもちろん、魔法でさ!」
彼に腕を引っ張られると、体が宙に浮き始めた。
私は混乱するあまり固まってしまう。
徐々に地面が遠ざかっていくのを呆然と眺めた。
「月を空から見るのって下から見るのとは違って格別だろ?」
ほら、見てみなよ、と言われて彼の指す方を見た。
そこには地上で見るのよりも大きい月が浮かんでいた。
「きれい……」
「だろ?これで俺が魔法使いって信じてくれたよな?」
私はしっかりと頷いた。
彼は良かった、と笑う。
「君は今日から俺のお姫様だ。君を絶対に、世界でいちばんしあわせなお姫様にしてあげる」
「でも私、あなたに渡せるような対価を持ってない」
魔法使いに魔法を使ってもらうには、なんらかの“対価”を払わなければならない。それが暗黙のルールだ。
「そうだなぁ……じゃあ、俺と好きなだけデートしてよ」
「それで、いいの?」
「もちろん。もっとも、君にいやだって言われても、俺は絶対に君をしあわせなお姫様にして見せるけどね」
もう決めたから、と彼は優しくにっこり笑って言った。
その笑顔を見たら、今までずっと我慢してきたものが込み上げてきて、我慢できずに溢れた。
私は声を殺して泣いた。
彼は、よしよし、と私の頭を撫でてくれた。
その手の温かさがとても懐かしくて、余計に涙がこぼれた。
「今まで我慢してたんだよな。好きなだけ泣くといい。俺が傍にいるから」
私はとうとう声をあげて泣き出した。
これが、私とシリルの出会いだった。
従姉たちに協力してもらい、シリルとの奇妙な同居生活が始まった。
従姉たちは最初は魔法使いと言うシリルを疑っていたが、シリルが魔法を見せると現金なものでころっと信じた。
シリルの寝る場所がないと困っていると、シリルは問題ないと言って一瞬で黒猫になった。
この姿ならクッションが1つあればどこでも寝れるとシリルは言うので、私の部屋に寝泊まりして貰うことにした。
従姉たちはいくら黒猫の姿とはいえ、男の人とフェリシアが一緒の部屋で寝るなんて、と難色を示したが、シリルが、
「俺、胸のない子は趣味じゃないから」
と言ったのを聞いた従姉たちは安心したようで、シリルが私の部屋で寝ることを許してくれた。
色々言いたいことはあったけれど、私はとりあえず人間の姿に戻ったシリルの足を思い切り踏みつけた。
シリルが家に来てから私はよく笑うようになった。
シリルは暇を見つけては街に連れ出してくれる。対価を払ってもらうよ、と言って。
いつもは寄らないようなお店に寄って商品を冷やかして、屋台で食べ物を買って食べた。
シリルと話をしていると、なんでもないことでも笑えた。笑顔になった。
こんなの対価じゃない。だって、私ばかりが良い想いをしている。
そうシリルに言うと彼は「これは対価で合ってるよ、俺、今楽しいし」と笑った。
ふと気付けば私はシリルのことばかり考えるようになっていた。