谷の住人。
丁寧にお礼を言って、私たちはインフォメーションコーナーを出る。
控室には姿見がなかったので、改めて着替えた自分の服装をチェックする。
白いレースのトップスに水色のロングカーディガンを羽織り、マロンカラーの膝上スカートで秋らしさを出してみる。
なかなかシックでオシャレにまとまっていると自分のチョイスを自賛してみる。
「セリカちゃん、秋らしいねぇー」
その声に振り返ると、
白のニットワンピのフードに髪の毛を収め、赤いふちのメガネをかけているお兄ちゃんがいた。
ニットワンピは襟ぐりが大きく開いていて、白人ならではの美しいデコルテが眩しく、大き目のポケットも実にかわいらしい。
さらによく見ると、ワンピの裾の下からキャミの裾が出ている。
私の視線に気づくと、お兄ちゃんがそれに答えてくれる。
「あ、このキャミがね、下のところが二段ラッフルになってるから、ワンピースの裾から出したらかわいいなと思ったんだよぉ」
そう言って、ふふふと軽く裾を持ち上げて見せるお兄ちゃん。
もう、何というオサレ子ちゃん。
内心、私もぐふふと笑っていると、お兄ちゃんがお慌てた声をあげる。
「は、花咲さん!」
まただ。
お兄ちゃんの視線の先を見ると、オレンジ色のスカートの裾を太腿のラインまで持ち上げているバカがいた。
「何やってんの……」
「いや、あたしもマネしようと思って」
「あんたは足が長いんだから、キャミの裾が見えるまで持ち上げたら太腿までいっちゃうでしょうが! ただでさえ短いの穿かせてるっていうのに。あんた、足出すのあんだけ嫌がってたじゃない」
花咲は中のキャミもスカートと共に引っ張り上げるものだから、もうパンツが見えそうだ。
「いや、だって下パンスト穿いてるし」
そう言って、花咲は黒のパンストに包まれた自分の腿肉を指差す。
「パンストの下はパンツだろうが! そんな薄いパンスト透けるに決まってるだろ!」
「あ、ほんとだ」
自分のスカートの中をを覗き込む、残念な美人の姿がそこにあった。
よりにもよって白かよ……。
ってか、何のサービスだよ。
ハッと思い、私が周りに視線を巡らすと、そこらの男連中が慌てて明後日の方向に目を移す。
いくら花咲の成長が早いっていったって、それは小学生にしてはだ。
そんな子供の太腿にこれだけの視線が集まるなんて、この世の中どうかしてる。
世の晩婚化は、つまりはロリコン化ってことじゃないだろうか?
パレードで後手に回った私たちは昼食でも同じ有様で、店の中で落ち着いて食べられるようなところはすでにどこもいっぱいだった。
「ごめんねーミチルちゃん。せっかくだからかわいいお店に連れてってあげようと思ったんだけど」
ようやく空いたスナックコーナーのテーブルに座ると、お姉ちゃんが花咲にそう謝った。
「いえ、全然構わないです。こういう外で食べるのも久しぶりですし、気持ちがいいです」
何ともよくできた利発そうなお子様のお返事。
とてもさっきまで自分のパンツを覗いていた女とは思えない。
「えと、じゃあ皆ピザでいいんだよね。買ってくるけど、ひとりじゃ持って帰ってこれないから誰か一緒に行ってくれる?」
「はい!」
元気よく手をあげたお兄ちゃんをあっさりスルーすると、お姉ちゃんは私を指名した。
「ボ、ボクも運」
「いや、セイラはあたしと席番をしておこう」
花咲がお兄ちゃんのセリフを先回りして封じる。
花咲も経験から学んでいる。
お兄ちゃんに運搬作業をさせてはいけないということに。
こんな人が行き交う中を飲み物なんかが載ったトレーを手に、無事ここまで戻ってこれるわけがないのだ。
お兄ちゃんはお利口な頭をもっていながら、自分のスペックをまるでわかっていないようなところがある。
私とお姉ちゃんがカウンターでピザとドリンクを受け取り、何の問題もなく席から戻ってくると、私たちが座るテーブルの周りにはあらゆる野鳥が群がっていた。
「な、何かすげえ鳥が集まってくんだけど」
花咲が私の顔を見るなり困惑の声をあげる。
お兄ちゃんはテーブルの上で跳ねていたすずめを当たり前のように手のひらにのせ、地面に降ろしてあげていた。
しかし、そんな光景も私とお姉ちゃんからしたら今更驚くほどのことではない。
またかといった程度のことだ。
ピザをつまみながら、私は花咲にお兄ちゃんの伝説のひとつを語ってやる。
あれは小二のときだ。
近所で飼っていた土佐犬が逃げ出して、学校に入ってきたことがあった。
当時お昼休みだった校内に放送が流れ、全学年の児童と教師が手近な教室に避難した。
私は真っ先にお兄ちゃんの教室に駆け込むも、あれだけの特徴のかたまりなので、その姿がないことはすぐにわかった。
お兄ちゃんがお昼に誰かと遊んでいるとは考えられず、共によその教室で避難しているという可能性は低い。
心配が頂点に達した私は、先生の制止の声より先に教室を飛び出した。
ちょうどそのタイミングだった。
廊下の先に心配の対象と原因が一緒にこちらに歩いてくるのを私は目にする。
土佐犬の背中にお兄ちゃんの姿があったのだ。
その獰猛な顔をした獣と、うっかり地上に降り立ってしまったような美しい天使。
絶対にないコラボレーションに心配を通り越して、私のは完全にパニックになった。
当時、お兄ちゃんのクラスの担任をしていた男の先生が、掃除用具入れからほうきを取り出すと、廊下に飛び出て柄の方を土佐犬に向けて構えた。
剣道を嗜んでいたというだけあって見事な姿勢だったが、近くにいた私には先生の足が小刻みに震えているのがよくわかった。
しかし、それも仕方ない。剣道はあくまで対人の競技なのだ。
相手と剣先を交えながら、お互い次の手を探り合う。
それこそ達人レベルの腕でもない限り、犬を相手にどうこうなるとも思えない。
土佐犬の方も先生の敵意と脅えを感じ取り、ぐるると凶暴に喉を鳴らしている。
そんな緊迫した空気の中、先に動いたのは土佐犬でも先生でもなかった。
「ほうきをおろしてください」
土佐犬の背中からよたよたと降りると、お兄ちゃんは犬を庇うようにして小さな体を目いっぱい広げる。
「怖がってるからぁ。早くおろしてください」
そう言われたからといって、ほうきをおろせるはずもない。
それどころか目の前の生徒を守らなければならないと余計に力がこもる。
その次の瞬間、教室から様子を覗いていた生徒たちが悲鳴をあげる。
お兄ちゃんが土佐犬の首の辺りを撫でたのだ。
すると、撫でられた方は気持良さそうにその場で腹を見せて仰向けになった。
隙を見せれば、ときに飼い主すらも襲われるという闘犬を、当時たった七歳の子供が完全に手なずけてしまったのだ。
お兄ちゃ曰く、
「目を見てちゃんとお話すれば、絶対噛んだりしないんだよぉ」
らしい。
なるほど。
んなわけない。
ただ、お兄ちゃんならライオンの檻に入れても大丈夫な気はする。
当時、お兄ちゃんが青っぽいワンピースを着ていたことから、しばらくの間密かに「ナウシカ」と呼ばれることになる。
お兄ちゃんはムーミンの谷か風の谷の住人となら、うまくやれるに違いない。
そんな昔話をしながら、ピザを食べていると、お兄ちゃんの口の端にトマトソースがはみ出る。
どんなに上手に食べたところで、お兄ちゃんの小さなお口ではピザを直接手で食べるのは難しい。
家で食べるときはいつもナイフとフォークを使って小さく切り分けてながら食べている。
うふふと思って、私がそのかわいらしい口元を拭いてあげようと紙ナプキンに手を伸ばした瞬間、
「セイラ、口にソースついてんぞ」
花咲がお兄ちゃんの口元を指で拭うと、それをそのまま……そのまま口に入れた。
「ええー!」
思わず漏れた私の声に、お兄ちゃんと花咲が驚く。
「な、何だよ」
「何でもないよ! お兄ちゃん、もっと、もっとがぶっと食べて!」
「む、無理だよぉ。口に入らないよぉ……」
私はお兄ちゃんの口にぐいぐいとピザを押しやる。
ちきしょー。あんな手段があったなんて、私ともあろうものがとんでもない手抜かりだよ……。