第一章 出会い ~陸~
それから少しして、お爺さんが店の奥から教科書の入った紙袋を持ってきた。お爺さんは紙袋を台に移す。
「ほれ、持ってきたぞ」
紫恩と大地は見ていた本をもとあった場所に戻して、お爺さんのいる方へ歩いていく。大地はズボンのポケットから財布を取り出していた。
だがそこで、紫恩はお爺さんの遠慮のない視線に気付く。横では大地も同じように視線に気付いたのか顔を上げて少し注意してお爺さんに目を向けていた。
紫恩はお爺さんの視線に後ずさりながら、何かしてしまったのかと様子を窺う。
「あの、何か」
「いや、なに。そんなに警戒せんでもなにもせんよ、お嬢さん。何も取って食おうなんて考えちゃいないから安心しなされ」
紫恩の疑問にお爺さんはなんでもないように答えた。
「ご、ごめんなさい」
「なに。儂も不躾だったの。すまんかった。実は最近、占いごとに凝っておっての。お嬢さんと坊主のことを占わせて欲しかっただけなんじゃ」
紫恩は本当に他意のないといった様子のお爺さんの言葉に、感じていた不安も少しずつ消えていった。
大地は占いという言葉に興味深そうにして、二つ返事で了解の意を伝える。紫恩も占いだけなら別にいいかな、といった様子で首を縦に振った。
それを見たお爺さんは我が意を得たりといった様子で唇を歪めていたのだった。
そこからのお爺さんの行動は速かった。店の奥に戻って行ったと思ったら、両手に拳くらいの大きさをしたきれいな水晶や四本の燭台を抱えて戻ってきた。椅子を三つ引っ張ってきて、一つをお爺さんが座るために、それに向かい合う形で残った椅子が置かれた。
二人はお爺さんに促されて、戸惑いながらも座った。
次の瞬間。いつのまにそこに置いたのか、紫恩と大地の座っているところとお爺さんの椅子を囲むようにして燭台が立てられていて、設置された蝋燭の炎がゆらゆらと揺れて辺りを照らしていた。
紫恩は床一面に複雑な幾何学模様が描かれていることに気付く。
あれ、こんなのさっきまであった、かな。
自分だけが気付いてなかったのかと思い、横を見れば大地も驚いた様子を見せている。
目の前の椅子に準備を終えたお爺さんが座ったことで二人は視線を前に向けて座り直した。
「それでは、この水晶で二人のことを占わせてもらおうかの」
お爺さんは右手に先ほどの水晶を持って、ゆっくりとした動作で目の前まで持ってきた。そして、その水晶越しにこちらを覗くようにしてじっと見ている。
最初は大地の方を見ていたが、何かに驚いたような様子で大地の後ろをしばらくじっと見ていた。だが、すぐに表情を戻して、次は紫恩の方に視線を向ける。
こちらを見るお爺さんの顔には大地のときよりも強い驚きがあった。目を見開いて固まったまま汗がにじみ出しているのを窺うことができる。
何が見えたの。
紫恩はその様子に不安を感じた。
しばらくして、お爺さんはゆっくりと息を吐き出し、目を閉じて何かを考える素振りを見せてから口を開く。
「……ふぅ。まず、坊主の方だがの何かに憑かれておる。まぁ、悪いものではない。むしろ良いもののように感じる、守護霊に近いかの。お嬢さんの方には大きな竜が見える。だが、暗い何かがそのさらに奥の方で巣食っておるようにも見える」
大地はその言葉を聞いてどんな守護霊が憑いているのかと好奇心でワクワクとしているようだった。
だが、紫恩はどことなく不吉なことを言われて困惑していた。
それでも、お爺さんの言葉は未だに続いている。
「時は動き出した。水底の奥深くに潜んでいた影が水面を揺らし、困難や痛みを招きよせることになるだろう」
紫恩はお爺さんの口から続いて出た言葉が何を意味しているか分からないが無視してはいけないように感じた。
「まぁ、占いというものは当たるも八卦当たらぬも八卦と言う。儂が言っておいてなんだが、気に病む必要はないだろう、老いぼれの戯言だからの。要は、選択を間違えなければいいだけだからの」
さすがに、二人の様子にやりすぎたと感じたのかお爺さんはこちらに向かって冗談を言うようにして場を明るくしようとしていた。
紫恩と大地は店を出て大通りに向かって歩いていた。それほど長くいたのか太陽はずいぶんと高いところにある。
紫恩はお爺さんに言われたことを気にして未だに不安で暗い顔をしていた。横では大地がそんな紫恩を気遣うように立っていた。
「紫恩、大丈夫だよ。占いは良い結果のときには信じて、悪いときの結果は心の片隅にでも置いておけばいいんだから。それに、最後まで変わった人だったけど、あのお爺さんも励まそうとしてくれたみたいだし」
紫恩は大地が自分のことを励まして元気づけてくれているのを感じて申し訳なさを感じるとともに不思議と元気が出て、胸が暖かくなるのを感じた。
「うん。大地くん、ありがとう」
表通りに戻ってきた紫恩と大地は服屋のある商店街を目指していた。
紫恩は心にわだかまりを残していたが一端忘れることにする。
これから何が起きるんだろう。ううん、忘れよう。今は大地くんに町を案内しないと。
隣を歩いている大地に心配を掛けてはいけないと道案内に集中して気持ちを切り替える。
紫恩はふと大地が出掛けに言っていた“行きたい所”がどこなのか、まだ聞いていなかったことを思い出した。
「あの、そういえば大地くんが行きたいところって、どこに行けば」
「あれ、言ってなかった」
「うん。ただ行きたいところがあるって、だけで」
「そっか、実は俺、―――に行きたいんだけど! いいかな」
キラキラとした目をして、言葉には妙な勢いを持たせこちらに迫る大地を断ることができなかった。
「う、うん……えっ。ええぇーー!」
しかし、紫恩はその目的地がどんなところだったかを思い出して、珍しく大声を上げて叫んだ。
道に二人以外誰もいなかったのが幸いだろう。
「ふむ、面白い。縁の輪とは斯様に面白きものよな」
二人が去った後、本屋の入り口に立ってそう呟いたお爺さんはもう老人とは言えない姿と声をしている。
若者のような張りのある声をして、それでいて重みのある古めかしい言葉使いの声は静かにだが、確かにその場の空気を震えさせていた。
そこにいたのは魔法使いのようなどこか独特な雰囲気を出していた感じはなく、顔や肌に合った皺やシミは艶のあるものになって、少し曲がっていた腰は伸びてすらりとした青年だった。
その身に纏っているのは神職にあるものが着ているような白い着物で、どこか神々しさすら感じる姿だ。
「縁は紡がれたいつかまた会う日が来るだろう」
そう言葉を残して、青年はゆったりとした袖口を掴み人差し指と中指だけを立てた形で目の前の空間を横に一閃するかのような動きを見せた。その瞬間、目を開けられないほどの風が吹き抜けていった。
風が止んだとき、そこには古びた本屋だけが残され、お爺さんだった不思議な雰囲気を纏った青年はいなくなっていた。