第一章 出会い ~参~
割ってしまった食器をかたずけ終わるまでその場が落ち着くのにはしばらくの時間を必要とした。
それから、場が落ち着いて今は三人でテーブルを囲んで、お茶を飲み先ほどのことで乱れていた心を落ち着かせていた。
紫恩は食器を壊してしまったことを気にして、どうしようもなく恥ずかしくなり俯いて表情を隠している。
ふと思い出したように剛志が二人の方を向き、口を開く。
「そういえば、大地君。君の荷物だけど、もう届いて君の部屋に運んでおいてあるんだよ。紫恩、大地君を部屋に案内してあげなさい」
「うん、分かった。……あの、部屋は二階にあるので」
紫恩は剛志に言われて立ち上がり、居間の引き戸を開けた。それから、大地の方に振り返り声を掛けて、部屋を後にする。そんな紫恩を追うように大地も居間を出ていった。
紫恩は二階の廊下で左に顔を向ける。
「えっと、目の前にあるこの部屋が書斎になってて、その隣がわたしの部屋、です。わたしの部屋を挟んで、向こうの奥にある部屋。ここが石川さんの部屋です」
紫恩はそう言って目の前にある部屋の引き戸に手を掛ける。
その部屋はきれいに掃除されていた。隅の方にぽつんと未開封のダンボール箱が数個積まれていて、勉強机がその横に置かれているだけだ。
「ありがとう。これから、ここが俺の部屋か」
大地はお礼を言いながら部屋に入っていくと、辺りを見渡してはしゃいでいる。
最初はすごく落ち着いて見えたけど、思ってたより子供っぽいんだ。
紫恩は明るくてうらやましい、といった感じで大地を見ていた。
「この机は叔父さんが?」
「あ、それは、お父さんが勉強するのに必要だろうって」
「そっか。叔父さんにあとでお礼言わないと。……それとさっきのこと、朝食の前のことなんだけど。まさか水浴びしてるなんて思わなくて、本当にごめん」
紫恩はいきなりの大地の行動にギョッとした。
大地が黙り込んだいたと思ったら急に後ろに振り返り、こっちを見て申し訳なさそうな表情をして頭を下げてきたのだった。
紫恩はいきなりの事に慌てて反応する。
「いっ、いえ。こっちこそ、ごめんなさい。人が来るかもしれないのに、あんな恰好でいつまでもいたから」
「それでも、本当にごめん!」
「えっと、その、わざととかじゃ、ないんですよね」
元々あれは自分がいつまでもぐずぐずとしていたところに、大地が居合わせてしまったということだった。大地に対して戸惑うことや恥ずかしさはを感じることはあっても怒ったりはしていなかったのだ。
「それはもちろん」
「それなら、いいんです。だから、頭を上げて下さい」
それを聞いて大地は頭を上げて明るい表情を見せる。
「ありがとう」
「い、いえ、こちらこそ」
なんとなく申し訳ない気持ちになり、紫恩まで頭を下げてしまった。
姿勢を元に戻すと目が合った。すると、どちらからともなく笑い声が口からこぼれた。
先ほどからお互いに頭を下げては上げてと繰り返していた。その様子がなんだかおかしくなって、紫恩も大地もたまらず笑っていたのだった。
落ち着いた頃、大地があっ、と言って真顔で。
「そういえば、朝はいつもあそこで水浴びしてるの」
と聞いてきた。
紫恩はその疑問に戸惑ってしまう。それを見て大地が「ごめん、これから一緒に暮らすから気を付けないと、って思ったんだ」と申し訳なさそうな顔を見せる。
「う、うん。その、鍛錬のあとの水浴びが習慣になってて」
「そうなんだ、気を付けるよ」
「その、石川さん。ごめんなさい」
鍛錬が日課になり、最初は恥ずかしかった水浴びも今では自然なものとなっていた。
やっぱり普通じゃないよね、こんなの。
紫恩はふと鍛錬を始めることになったきっかけを思い出して落ち込みそうになってしまう。
「うん、それはいいけど。う~ん」
大地が何かを悩むように顎に手をやり唸りだした。紫恩はそれをどうしたのかと窺うようにして様子を見ていたが、少しして大地の荷物が最低限であることに気付く。
「あの、石川さん、何かありましたか。……あ、他に必要な物ならお父さんが用意してくれているので、大丈夫だと思いますけど」
「いや、そうじゃないんだ」
紫恩の考えは違ったようで、大地はかぶりを振る。それなら、どうしたんだろうと思っていると。大地は何かを決めたかのように頷く。
「うん。あのさ、俺のこと〔石川さん〕じゃなくて大地でいいよ。あ、さん付けもなしね。それで、俺も紫恩って呼んでいいかな」
「えっ。名前で、ですか」
お互いのことを名前で呼ぶ、という提案に戸惑ってしまう。
「うん。〔桜井さん〕だと叔父さんも苗字が桜井で同じだし。それにこれから色々と一緒なんだし、仲良くってことでもさ」
紫恩は悩んでいたが、やがてゆくっりと口を開く。
「えっと、その。だ、…大地、くん」
紫恩は絞り出すような声だったが、なんとか頑張って大地の名前を呼んだ。
それに大地は満足したかのように頷き、紫恩の方に歩み寄り右手を前に出し伸ばしてきた。
「うん、紫恩。改めてこれからよろしく」
「よ、よろしくお願いします」
紫恩は今まで名前を呼び合うような仲の良いあまりいなかった。それなのに、目の前の相手は同年代なうえに異性で、男の子だ。
恥ずかしくなり顔を下に向け、恐る恐るとゆっくり手を伸ばす。それはすぐに暖かい感触によって包み込まれる。
紫恩は自分よりも大きくて暖かい手に驚いて、下げていた顔を上げて大地の方を見上げる。
すると、そこには暖かな笑顔と優しげに覗いてくる双眸で満たされていた。
「うん。これで俺たち友達だね」
「えっ、友達、ですか」
「そう。名前を教えて、お互いに名前で呼び合ったからね」
「とも、だち」
そう言われた紫恩は友達という言葉に不安に感じた。が、大地の目を見ているとホッとしたようなものに包まれ安心する。顔にはうれしさと気恥ずかしさで朱が差している。
二人の間にはさっきまでの気まずさは見当たらず、少し距離が近づいたような感じがあった。二人は時間が止まったかのように静止している。
そこに二人を呼ぶ声が一階から聞こえてきた。
「紫恩、それに大地君。ちょっと来てくれないかい」
その声に二人は返事をして、居間のある一階へと階段を下りて行く。
このとき、紫恩の心の中で小さく温かな何かが芽生え始めていたのだが、それに気づくことはなかった。