第一章 出会い ~壱~
紫恩は道場を出てすぐの所にある井戸に来ていた。
紫恩は髪を留めていた結い紐を解き、道着と袴を脱ぐ。それらを井戸の端の所に落ちないようにタオルと一緒に置いて肌襦袢だけになる。座って、近くに置いてあった桶を持ち井戸の中に投げ入れる。滑車に通されている縄を引けば、井戸から汲まれたきれいに澄んだ水が桶のを満たしていた。その水を頭から被るように浴びる。そうすれば、棒術の鍛錬で全身に籠もっていた熱が解放されて、きれいな肌に滲んでいる汗が流されていく。
冷たい水とまだ肌寒さの残る朝の風が柔らかな肌を撫でるのを感じて紫恩は身体を震わせる。
「ううっ、ふぅー。疲れたぁ」
ずっと受けてばかりだった。でも、よくなってるって褒められたのはうれしかったな。
紫恩は先ほどの鍛錬の様子を思い出していた。鍛錬を始めたころから比べて激しさの出てきた剛志の上段から来る一閃を凌いだところまでは良かった。だが、性格が出たのか態勢を整えても守ってばかりだった。それが、攻めなきゃという気持ちとぶつかり一呼吸分の遅れを生んでしまった。
そのことに俯いて、沈んだ表情をして落ち込んでいた。しかし、剛志からの猛撃をなんとか防ぎ、その勢いを利用してすぐに持ち直したときの棒捌きを褒められたことを思い出し、表情に明るさと元気が戻っていく。
しかし、それも長くは続かなかった。後数日もすれば始まる高校の入学式があることを思い出したのだ。
「学校かぁ。知らない人もいっぱい来るし、友達できるかな? というより、それ以前にわたしから話しかけられるようにならないと、だよね。―――それに」
そう言うと、紫恩は再び俯く。自らの手を静かに、そして悩み苦しむような表情をして見詰めるのだった。
どうして、こんな力がわたしにあるんだろう。
紫恩は子供のころから人見知りがちなところがあり、仲のいい友達というものがいなかった。かといって、クラスメートや先生、近所の人たちと全く話しができないわけではなかった。話し掛けられれば、何かを尋ねられれば答えることはできたし。事務的な事であれば自分からもなんとか話しかけることもできた。だが、そこ止まりだった。
そのうえ、自分が周りと違うということを気にしている紫恩は誰かと仲良くなるということを怖がっていた。
紫恩はいつもなら水浴びを終えて汗を流したらすぐにタオルで水気を取って、自分の部屋に戻り着替えを済ませて朝食を作っていた。しかし、今日は、時間を忘れるほどに鍛錬でのことを思い出して反省したり、もうすぐ始まる高校生活への不安に思いを巡らせていた。そんなときだ。
ギッ、ギギィ。ギィィー。
屋敷の重い両開きの門がゆっくりと内側に開く音がその場に響いた。
紫恩は普段この屋敷を出入りする者が自分と父以外にはいないことを知っている。来訪があるとすれば、郵便や近所の人たちぐらいである。
そのことからかなり朝早くはあるが、今回もそうだろうと思って、慌てて家の中に戻ろうとタオルと道着と袴に手を伸ばす。
が、その手が届いた時には門が開け放されてしまった。そこから出てきたのは紫恩が想像したどれでも無かった。
「えっ?」
「あ、すみまっ!………」
そこには何かを言いかけたまま、ボーッと突っ立ている少年がいた。
少年は白い無地のYシャツにボトムスをシンプルに合わせた服装をしていてた。
薄い茶髪は朝日の光を浴びて風に揺れていた。
男の子。それも優しそうで、きれいで。こういうのを王子様って言うのかな。
紫恩は予想していた訪問者と違い、それも自分と同じぐらいだと思われる年の少年だったことに虚を衝かれて、呆然とした様子でそんなことを考えていた。
だが、紫恩は少年の様子がおかしいことに気付く。頬には赤みが差して、自分の方に目を向けたままで、入ってきたときの、家の中に一歩踏み込んで門に手を掛けたままの姿勢で固まっていたのだ。
どうしたんだろう?
そして、少年の視線の先をたどって、おかしな様子の意味に気付いた紫恩は、漸く自分が水浴びをしていた途中だったこと、自分が今どんな恰好かを思い出した。
「っっ!」
結い紐を解いたことで広がった烏の濡れ羽色の髪は艶を持って背中に張り付き、深い海のような濃い青色の瞳は濡れている。ここまではまだ良い。それどころか、肌襦袢が透けて下着や肌が微かに見られてしまっていた。
そんなとんでもない恰好を距離があるとはいえ、少年に晒している。その事実は紫恩の顔にたちまち熱が集中して赤くなるのには充分だ。悲鳴を上げることも忘れ家の中へと走り去っていった。
その場には忘れられた少女の道着と袴と、呆然とした様子で立ち尽くす少年が残されているだけだった。
そこに、道場から出てきた剛志がやって来て、屋敷の入り口の所に少年がいることに気が付いた。
「おや、大地君。着いていたんだね。今、来たところかい」
「……っは。あ、叔父さん」
ぼんやりとしていた少年は剛志に声を掛けられてやっと正気に返り、目の前にいる剛志の存在に気が付いたようだった。
「ん。どうかしたのかい? まぁ、そんなところにいつまでもいないで家に入ったらどうだい。ここまで、遠くて疲れただろう」
少年は剛志に連れられて家に入っていった。
このとき、逃げ去って行った紫恩の身体から微弱な黒色の電気が漏れ出ていたのだが。そのことに気付く者は誰もいなかった。