悪魔からの招待状
「ただいま戻りました!」
事情聴取を無事終え、聖ハノーファー教会の宿舎に帰ってきたエリザは、開口一番、元気な声で帰りを告げた。自宅に帰ってきた子供のような発言の仕方に、その声を聞いた修道士たちの顔には苦笑と安堵が浮かぶ。
エリザが吸血鬼事件に巻き込まれたことは、軍の方から連絡が来ていた。大事ないことも伝えられていたのだが、実際にエリザの声を聞くことで、ようやく心の底から安心できたといったふうだ。
「おかえりなさい、シスター・エリザ。吸血鬼事件の犯人に襲われたと聞いたときは肝が冷えましたが、元気なようでなによりです」
四十過ぎの中年司教が、優しげな笑みでエリザを迎え入れる。本来ならエリザの態度をたしなめるところだが、人の良さそうな神父は、まずエリザの無事を喜んだ。
「ただいまです、クレイグ司教様。ちょっと貧血になっちゃいましたけど、軍の方がきちんと治療してくれたので、元気満タンです!」
「ふふ、そうですか。では、憲兵の方々には、あとでお礼の品でも持っていきましょう。しかし、シスター・エリザ。今日は念のため、大事をとって早めにお休みなさい。自分ではわからない疲労が溜まっているかもしれませんからね」
「あっ、はい。ありがとうございます、司教様」
クレイグに礼を言ってから、エリザはきょろきょろと辺りを見回し始めた。何かを探しているような様子に、クレイグは首を傾げる。
「どうかしましたか、シスター・エリザ」
「あの、司教様。今日、女の子が訪ねてきませんでしたか?」
「?礼拝堂になら、お祈りに来た方がいますが……」
クレイグの言い方からして、ジニアが教会を訪ねてきていないことをエリザは察した。あれだけ印象的な少女なのだから、訪ねてきていたとしたらすぐに思いつくはずだ。
観光すると言っていたので、まだ街を練り歩いているのだろうか?エリザは少し心配になる。
吸血鬼事件のこともあるが、それがなくともトラジストは物騒だ。多くの剣士が集まる土地なので、野卑で荒々しい人間が多い。無用心に出歩いて吸血鬼に襲われた自分が言える義理ではないが、エリザはジニアに何かあったのではないかと不安になった。
「私を助けてくれた女の子が、教会を訪ねる予定だったんです。泊まるところがないそうなので、それなら教会にと私が勧めて……。勝手なことをしてすみません」
「そうでしたか。教会にお泊めすることは別に構いませんよ。教会は迷える民を救う場所。それが我らが家族の恩人ならば、なおさらです。細かいことは後で伺うとして、そのような方は来ていませんね」
「やっぱり……あの、司教様」
「探しに行く、と言うのならダメですよ、エリザ」
エリザの言葉を先取りして、厳しい口調でクレイグが言う。エリザがオシメをしている頃から知っているクレイグにとって、少女がどのような行動に出ようとするかなどお見通しだった。
「昨夜、あなたが吸血鬼事件に巻き込まれたと聞いて、みんな心配したんですよ?容姿を教えていただければ、私が探しに行きますので、あなたは早く休みなさい」
「でも……!」
それでもなおエリザが言い募ろうとすると、横合いから一人の修道士が口を挟んできた。
「あの、クレイグ司教、今、シスター・エリザの紹介で来たという少女が礼拝堂の方に来ているのですが……」
その修道士が言い終えるより早く、エリザはぱっと礼拝堂の方へと走っていった。何人かの先輩修道士がすれ違いざまに注意するが、構わず礼拝堂に急ぐ。
果たして、礼拝堂には、彼女が探していた人物の姿があった。
「よかった、ジニアちゃん!遅いから心配したんですよ?どうでしたか、この街は……って、なにがあったんですか!?」
エリザの顔色が、青褪めるのを通り越して、真っ白になっていた。もとより白磁のように美しく白い肌ではあったが、今では血色を失い、白蝋のようだ。
一瞬、エリザの脳内に最悪の予想が浮かんだが、ジニアの服装に乱れた様子はないので、すぐにその考えを否定する。しかし、それではなにがあったというのか。
「大丈、夫」
「全然大丈夫そうじゃないですよ。とりあえず座りましょう。えーっと、曼珠さん?なにがあったのか、差し支えなければ教えていただけませんか?」
『……あー、すまん。警告を無視しちまった』
その一言で、すべての状況を把握した。見てしまったのか、あれを。
見るなと言われれば、逆に見たくなってしまうお年頃だ。中途半端な忠告ではなく、もっと強く言っておくべきだったとエリザは後悔した。あの光景は、ジニアのような幼い少女には刺激が強すぎる。
「すみません、少し席を外しますね。厨房でなにか温かい飲み物を作って持ってきます。ジニアちゃんは座って待っていてください」
ジニアが頷くのを確認してから、エリザは席を立つ。
入れ違いに礼拝堂に入ってきたクレイグ司教に、二・三言なにかを告げてから、エリザは急いで厨房に向かった。
クレイグはエリザとは逆に、ゆっくりとジニアに歩み寄り、にっこりと爽やかな笑顔を浮かべた。
「はじめまして、私は、当教会を預かります、司教のクレイグと申します。シスター・エリザがお世話になったようで、私からもお礼を言わせていただきます」
「……ん」
『おーう、よろしく~』
曼珠が話すのを初めて聞いたクレイグは、一瞬目を丸くするが、すぐに平静を取り戻してジニアの隣に腰掛ける。奇抜な相手に狼狽えないのは、聖職者として多くの人間の悩みを聞いてきた人間ならではだった。
「トラジストに来てから、いろいろ災難に見舞われたようですね。しかし、トラジストにはいい部分もたくさんあります。今夜はゆっくり休んで、明日から観光を楽しんでください。一晩経てば、今までのことは悪い夢だったと思えるようになりますよ」
ニッコリ笑ってクレイグは怯える少女の頭をなでる。月並みのセリフだが、彼には人の心を落ち着かせるような雰囲気があった。
「……領主さまは、なぜあんなことを?」
少し心が落ち着いたのか、ジニアが問いかける。まだロベルト・ブルダリッチのことを知ろうと思う気持ちに変わりはないようだ。
「治世のため、と言う他ないですね。公開処刑というのは、犯罪防止の意味合いが強いんです。処刑法が残酷であるほど、罪を犯そうとする人は減りますからね。……ただ、ブルダリッチ卿の場合、心を病んでいる可能性も否定できませんが」
「病気?」
「あの方は幼少の頃から、多くの死の中で生きてきました。心を支えてくれる方が傍にいれば話は別ですが、ブルダリッチ卿は今日に至るまでずっと孤独に過ごしてきた方です。心の中に闇がわだかまっても、致し方ないでしょう」
ジニアは曼珠に聞いた話を思い出す。
ロベルト・ブルダリッチは、成人した直後にトラジストの指揮官に任命されたという話だ。ということは、わずか十五歳で国家存亡の重荷をその肩に担ったことになる。その重みはいかほどのものであったのか、想像することもできない。
「誤解しないでいただきたいのですが、ブルダリッチ卿は、決して恐ろしいだけの方ではありません。教会や孤児院へ多額の寄付をしてくださいますし、論功行賞に関しては貴賤の区別なく行う方です」
クレイグの弁解にうなずく。
恐らく、良くも悪くも合理主義の人間なのだろうと予想する。今までの情報を総合すると、そのような印象を受けた。
と、そこでエリザが戻ってきた。その手には、紅茶の入ったカップが握られている。
「お待たせしました、ジニアちゃん。どうぞ飲んでください。熱いから気をつけて」
受け取ったカップに口をつけると、思った以上に熱く感じてジニアは少し驚いた。息を吹きかけて冷ましながらゆっくり飲むと、ジニアの年齢に合わせたのか、紅茶は砂糖が多めで甘かった。実際、その味付けはジニアの嗜好に合ったので、思わず少女の口元が緩む。
その愛らしい所作を見て、エリザとクレイグの頬も緩んだ。
『うむ、やはりマイエンジェルは笑った方が可愛くて、いろんなところが熱くなるな。いや、でも、小鹿のようにプルプル震えるジニアも、あれはあれで何か目覚めそうな……』
しかし、そんな温かな雰囲気は、神鋼刀の呟きでぶち壊しにされる。
エリザは、こいつ、実は呪いの刀なんじゃないかと割と本気で思った。
ジニアの情操教育にも悪いし、どうにかして黙らせることはできないかと考えていると、礼拝堂の扉が開け放たれて、巨漢の軍人が大股で入ってくる。ジニアとエリザにとっては記憶に新しい、憲兵部隊長のブラスキ少佐だ。
「少佐?どうかしましたか?事情聴取なら先刻終わりましたけど、まだなにか聞き忘れたことでも?」
「うむ、たびたびすまない。クレイグ司教にも、事前連絡を入れずにお邪魔して申し訳ない。シスター・エリザ、それとジニア殿、非礼は重々承知なのだが、なにも言わずに自分についてきてくれないか?」
ブラスキは同情的な態度で、しかし有無を言わせない威圧感をまとって話しかけてくる。
その様子にただならぬ事情を感じたクレイグが、ジニアとエリザをかばうように、ブラスキの前に立ちはだかる。
「彼女たちは今、肉体的にも精神的にも疲れています。明日にすることはできないでしょうか?頭が回らない状態では、お役に立てるものも立てないと思いますが」
「……そんな責めるような目で見ないでください、司教。自分は上官の命令でここに来ただけなので、決定権はないのです」
「上官の命令?」
「はい、吸血鬼事件の目撃者たちを、屋敷の晩餐会に招待しろ、と」
晩餐会という、この場に相応しからぬ単語に、クレイグが目をしばたかせる。
好色な貴族が、ジニアとエリザを手篭めにしようとでも考えているのだろうか?ジニアはもちろんだが、エリザもかなりの美少女だ。特にぱっちりと開かれた翠の瞳は知性的な輝きを放ち、見るものを引き込む美しさを持つ。一目見て、モノにしたいと思う男もいるだろう。
だが、トラジストにおいて婦女暴行は重罪とされている。ブルダリッチ卿の敷いた法は厳格で、強姦などしたら、貴族であっても死刑は免れない。それも、この世のものとは思えない残忍な処刑法で。
そこまで考え、もしや、とクレイグの頭に悪い予感がよぎる。
「あの、ブラスキ少佐。私たちを招待したいと言った方は、どういった身分の方なのでしょうか?」
エリザも同様の疑問を持ったのか、ブラスキに尋ねる。答える前のブラスキの緊張した態度を見て、彼が返答する前から、どのような答えが返ってくるかがクレイグにはわかった。
「君たちを招待したのは、ロベルト・ブルダリッチ少将。ゲルマニクス国境軍の総司令官にして、このトラジストを含む、ブルダリッチ領の領主であらせられる伯爵閣下だ」