吸血鬼の天敵
彼女の存在を、奇跡と呼ばずに何と呼ぶのだろう。
一歩間違えば死にかねない地獄の中、エリザは一人の天使が踊る姿を見た。
宙を舞う大量の血液のカーテン。一滴一滴が死をもたらす赤い殺人雨ですら、彼女の美しさを彩る演出であるかのよう。
時に剣となって斬りかかり、時に鞭となって襲いかかり、時に弾丸となって降り注ぐ血液の群れ。生き物のように蠢く血液たちは、それぞれに意思があるかのように変幻自在四方八方からか細い少女の身体に食らいつこうとする。
そのすべてを、少女はすり抜ける。
長くきめ細かな金色の髪を麦穂のように揺らしながら、血液の群れはその一本すら巻き込むことができていない。この少女の美貌の前では、人ですらない物体ですら、触れるのをためらっているのではないかと錯覚してしまう。
もちろん、そんなものは幻想。
ジニアとて、体調を崩すことはあるし、怪我をすることもある。事実、ロベルトとの剣闘においては一度膝をついている。獣じみた身体能力と反射神経を持ちつつも、その肉体の強度は常人とほとんど変わらない。
激しい舞踏で火照った身体からは汗が滲み始め、身体の動きについてこれなかったその水滴が、宙で星のように煌めいた。
彼女は決して、疲れ知らずなどではない。優雅に見えるその動きの中、疲労は着実に積み重なり、いずれ血液の海が彼女の肉体を蹂躙するのは目に見えていた。
――それでも、少女の顔はどこか誇らしげだった。
それは、ロベルトと戦ったときは浮かべなかった表情。いや、彼女が今まで刀をとった中で、このような顔をしたことは一度もなかっただろう。
彼女は一度として、喜んで刀を振るったことはなかった。彼女が刀を手に取るように仕向けるのは、いつだって義務感と使命感。自分にしかできないことだから、誰かに頼まれたから、大切な人が望んだから。
ジニアほど、心と体が結びつかない人間も珍しいだろう。彼女は虫も殺せないほどの優しい心を持ちながら、竜すら斬り捨ててしまえるほどの身体能力を持っていた。
本当は、ジニアは今まで一度も、生ある物を斬ったことがないというのに。
それはある意味で、最悪の悲劇。彼女自身は生き物など斬りたくなくとも、周囲の人間は彼女に彼女の能力に見合った行いを強要する。そして、義務感・使命感が強いジニアは、彼らの願いを聞き入れて刀を振るった。
だが、この度の戦いは違った。
ジニアは自らの意でこの死地に立ち、自らの思いで刀を振るっていた。【エリザを守りたい】という自らの我侭な願いのために。
「はっ!」
僅かに半秒、あるかないかの幕間を縫って、一呼吸分の息を整える。
絶え間無い血液の連撃は、文字通り、少女に息を吐く間すら与えなかった。全身がもっと酸素をよこせと吠え、心臓がもっと速く動けと責め立てる板挟み。
いつ酸欠に陥ってもおかしくない状況の中、ジニアの動きは鈍るどころかさらに速さを増していく。コンマ数秒の死線の中、ジニアは自分の身がなにかに満たされていくのを感じた。
「ああああああああああああああ!!!じね、じね、じねえええ!なぜぇ、あだらないんだあああああ!じねええええええ!」
ジニアの刃が自分には通用しないという自信からか、もはやそのようなことを考えられるような正気が残っていないからか、クレイグは逃げようとすらしない。
闇雲に振り回される血の刃を潜り抜け、電光石火の動きでジニアがクレイグに迫る。
その動きは、ロベルトと戦った時と比べて、遥かに素早く鋭い。
「ああああああああ!!」
迎え撃つクレイグの咆哮に、僅かな恐怖が混じっていたのは気のせいではないだろう。
今のジニアの動きと剣気は、以前の彼女とはまったくの別物であった。もし、この場にロベルトがいれば、眉間に皺を寄せて唸ったことだろう。
ロベルトと戦った時と違い、今の彼女に少女の甘さは存在していない。彼女は明確な戦う理由を見出すことによって、剣士と少女の間に揺蕩う意識を、完全に剣士の方へとシフトさせていた。
だが、真に驚くべきはそこではない。意識の切り替えというのは、一流の剣士ならば出来て当然のことだ。彼らは通常時と戦闘時の意識を完全に切り替え、戦闘時に通常時とは比較にならないほどに身体能力と脳機能を向上させる。異常なのは、ジニアが今まで、そのような切り替えができていなかったということだ。
つまり、彼女は、戦闘態勢でもない状態で、一流の剣士であるロベルトと渡り合うことができたということ。そんな彼女の意識が、戦闘態勢へと切り替えられればどうなるか……
「ううっ!?」
もはや完全に正気を失い、恐怖など感じないはずのクレイグが、迫るジニアに気圧されて一歩後ずさる。
いっそ神々しいまでに研ぎ澄まされた剣気は、感情を失った者にすら恐怖を呼び起こすまでに眩しかった。そして、彼女の戦いぶりを第三者の視点で見ていたエリザは気づいた。
今のジニアこそ、彼女の真の姿なのだと。
人外じみた美貌すら、今では霞んで見える。外見的な記号など、なんと儚いことか。その神がかった剣技を上回る美しさなど存在するはずがない。どんなに素晴らしい宗教画でも、彼女の身から溢れる生と死の脈動を描き表すことなどできはしない。
知らず、エリザの瞳から、理由の説明できない涙が一雫流れ落ち、無意識のうちに神に祈るように手を組み合わせていた。
「ひいっ!?」
眼前できらめく剣閃から顔を反らせ、クレイグが情けない悲鳴を上げる。とうとう己の目の前まで迫ったジニアの姿を見て、クレイグの内に恐怖の情念が完全に蘇ったのだ。
「うわああああああああああああ!!」
恐怖に後押されて振るわれた一刃の血刀は、ジニアの身体に届くことなく、彼女によって振るわれた曼珠沙華による鋭い一刀で斬り払われた。二つに分かれた血刀は、曼珠沙華の名が示すように、空中に赤い花を咲かせて散った。
「あ、あ、あ、あ」
液体でできた刃を金属の刃で破壊することは不可能。ジニアによって切断された血液の刃も、特に問題なく再生するはずだった。しかし、クレイグが腕を持ち上げても、その手から血の刃が飛び出ることはなかった。その事実に、クレイグは呆然となる。
クレイグの身体を巡る使徒の血液に問題はない。ただ、それを刃の形にすることを、クレイグの精神が無意識に拒んでしまったのだ。
斬られた――そのイメージが、あまりに鮮明にクレイグの脳内に残ってしまったがために。
クレイグが血液を武器に変えるためには、本人の想像力が不可欠だった。だが、先刻、ジニアに血刀を斬られたという印象が頭に強く根付いてしまった。それゆえ、彼は【すでに断ち斬られた血刀】しかイメージできなくなってしまい、血刀が作れなくなってしまったのだ。
それは幻痛に似ている。肉体的には問題なくとも、魂に負った傷はいつまでも痛み続ける。ジニアの剣閃は、まさに、クレイグを斬ることができずとも、その気迫だけで彼の魂を斬ってしまったのだ。
「ひ、が、あぁ!?」
精神が崩壊し、恐怖だけが蘇ったクレイグは、尻餅をついて子どものように泣きじゃくる。
「…………ちょっと疲れた」
敵が戦意を喪失したことを知ったジニアは、一息ついて手で汗を拭った。
それは完全なる油断だ。敵が戦闘不能に陥っているわけでもないのに、彼女は戦闘思考を解き放ち、いつものジニアに戻ってしまっていた。
だが、それも仕方のないことなのかもしれない。今のクレイグの精神状態は普通ではない。この状況から反撃の作を考えられるほど、まともな思考回路を持っていると誰が思おうか。
その見解は完全な間違いではない。今のクレイグは、思考能力が極端に落ちている。しかし、【親】である使徒の考えを受信し、そこから戦略を練ることは可能なのだ。クレイグの行動の一部始終は、【親】である使徒に筒抜けだった。【親】と【子】ではあるていど意識を共有できるのだ。
【親】である使徒は考える。
ジニアは確かに驚嘆に値する剣士だ。だが、剣技が一流でも、持っている刀はなまくら。人を斬ることができない。例え斬ることができたとしても、液体が本体であるこの使徒に、斬撃という攻撃手段は有効にはならない。
ゆえに、使徒はこう結論づける。ジニアがクレイグに止めを刺さないのは、彼女にクレイグの息を止める手段がないからだと。そして、それは実に的を射ていた。
そこで、使徒は【子】であるクレイグの精神に介入し、一切の感情のない殺人兵器に変えることにした。ジニアに物理的有効打がない以上、恐怖さえ消し去ってしまえば、彼女がクレイグに勝てる目はない。思考能力が更に下がるのが難点だが、せっかくの手駒を、ジニアというイレギュラーで失うわけには行かなかった。
使徒がそれを実行した直後、クレイグの目から感情が完全に消え失せる。
気配を感じてジニアが顔を上げたのは、クレイグが新しく作り出した血刀を彼女に向かって振り下ろす直前だった。
もはや避けることは不可能。この美しい少女が、死の直前にどんな表情をするのか、嗜虐的な感情を持って、【親】である使徒はクレイグの目を介して彼女を観察した。
迫る血の刃を前に、ジニアは――
「遅い」
と、いつもの無表情でつぶやいた。
ぴたり、と赤い刃が少女の鼻先数ミリの位置で止まる。
?、と【親】である使徒は疑問に思う。攻撃を止めるような命令は下していない。今のクレイグの精神は完璧なまでに崩壊し、死ぬまで暴れ続けるだけの殺戮兵器のはずだ。それがなぜ動きを止めたのか理解できない。
「これでも私は忙しいんだ。来てやっただけでも、少しは感謝してもらいたいものだ」
クレイグの背後から、冷たい男の声が響く。
数瞬して、使徒はいくつかのことに気づく。一つ目は、少女の眼前で止まった刃の位置がおかしいこと。血刀はクレイグの右手から伸びているはずなのに、その刃はまるでクレイグの腹から生えているようだ。二つ目は、よく見れば、その刃は血刀ではないということ。血のように赤錆びた色をしているが、それは間違いなく神鋼剣だった。そして、三つ目は――
「ロベル、ト、なぜ、おまえが……」
クレイグの口を借りて、【親】である使徒は背後へと顔を向ける。
そこには、ゲルマニクス国境軍司令官として前線にいるはずのロベルトが、クレイグの背後から愛剣を突き刺している姿があった。
「なんだ、喋れるのか。それとも、誰かに操られているのか?……まあ、いいか。私がここにいるのに大した理由はない。前線は私がいなくとも維持できるし、おまえの処理は私が一番の適役だった。ただそれだけのことだ」
「ぎざ、ま!ぎざまざえ、じねば――」
刃が身体を切り裂くのも気にせず、クレイグは無理やり身体を捻ってロベルトに掴みかかろうとする。その手から血液の刃が飛び出そうとしたが、すぐに勢いを失って消え失せる。
「よかったな。私の剣はおまえを気に入ったようだぞ」
「あ、あ、わ、わだじのぢが……わだじのがらだが……」
クレイグの身体に突き刺さった刃が、赤黒い明滅を伴って脈打つ。それに伴って、クレイグの身体を巡っていた使徒の血液が、その刃へと吸い込まれていった。
これこそがロベルトの神鋼剣。拷問用の神鋼杭を原料にして作り出した、血を吸う剣。物理攻撃を無効化するはずの、血液の使徒にとっての、まさに最大にして最高の天敵だった。
「ぎ、ぎざまざえ、いなげれば――」
「ありえない仮定を口にするな。うっとうしい」
最後の抵抗とばかりに、力のない指先を伸ばしてくるクレイグを冷たく一蹴する。
その手はロベルトへと届く前に干からびていき、クレイグの身体がミイラのように変貌していく。クレイグ――正確には、それを操る使徒――が最後になにか怨嗟の声を上げようとしたが、それはひゅーひゅーとすきま風のような音を鳴らすだけで終わった。
禍々しい赤剣を突き刺したまま、ロベルトはクレイグの死に様から目を逸らさずに見送った。
「さらばだ、クレイグ司教。あなたには一応感謝している。私の手にかかって死ぬことを慈悲だと思え。汝が血は鋼の肉となり、川は主のもとへ流れ、魂はひとつにならん。……エイメン」
祈りの言葉が終わると同時に、ミイラと化したクレイグの身体がさらさらと砂となって崩れ去った。
クレイグ――偽りの聖職者。
その最後は、修道女に見守られる中、天使と悪魔の手によって主の身元へと送られるという、ある意味、聖職者よりも聖職者らしいものだった。