雛鳥の翼
「……うっ」
地獄絵図――まさにその一言に尽きた。
咽せ返るほどの血と内臓と糞尿の臭い。どろりと粘りつくようなそれはエリザの体に纏わりつき、水中を進んでいるかのように足が遅くなる。
彼女が一歩、また一歩進むたびに、足元で血溜りが跳ね、なにか柔らかいものを踏みしめる感触を靴越しに感じる。努めてそれらを避けようとするも、夥しい数の肉塊を避けて通る道は存在しなかった。
「うおおおおおおおおおおお!」
エリザが向かう先の通路から、男の雄叫びが聞こえてきた。
流れの剣士か剣を手にしているだけの一般人か、剣を片手に一人の男が血塗れの司祭服を着た男――クレイグに斬りかかる。
クレイグの服は穴だらけで、絶えず血が滴っている。その手に武器はなく、一見すれば一方的に嬲られているだけの瀕死の男のようだが、絶望に顔を土気色に染めているのは加害者であるはずの剣士のほうだった。
ぐちゃり、と泥の中に足を突っ込むような音ともに男の剣がクレイグの身体に沈みこむ。彼の目や口から血液が滝のように溢れ出たが、その顔はどこか恍惚としていた。
「ああ、剣などという異物に頼るとは、人間とはなんと愚かで悲しい生き物なのか。全身を巡る血流が、我が身を母のように温かく包む感覚を知らないとは。あなたのような無知な迷える子羊を導くことが私の使命なのですね」
「ひっ!?」
自分の身体に剣を突き立てた男に、優しげな笑みを投げかける。しかし、それは返って男の血の気を失せさせるだけだった。
男はすぐさま司教から距離をとろうとしたが、体が動かず、顔を逸らすだけで終わった。いつの間にか、男の身体を波打つ血液が包み込んでいた。
「あなたに、神の祝福を」
「やめろ、やめろおおおお!!」
叫びとともに男の顔に青い血管が浮き上がり始める。血管はどんどん太くなり、男の肉体も一回り大きくなったかと思うと、内側から爆発したかのように弾け飛び、四散した。
飛び散った血と肉と骨はエリザのところまで飛び、骨が頬をかすったのか、エリザの頬にわずかな斬り傷ができた。だが、血と臓物に塗れた姿でそれを気にする余裕などなく、エリザは震える声で口を開く。
「し、司教様?」
肉体的にも精神的にも変わり果ててしまった恩師を前に、つい疑問符を浮かべてしまう。それほど、彼女の知るクレイグと目の前の男はあまりに違いすぎた。
「おや、エリザではありませんか」
エリザに気付いたクレイグが、優しく笑いかける。周囲に死体があふれていなければ、司教の身体が血まみれでなければ、朝の挨拶でもしているかのような穏やかさだ。
「お、お願いします、司教様。こんなことは止めてください。か、彼らはなんの罪もない一般市民です。このようなことをしても無意味です」
今すぐ背を見せて逃げ出したくなる気持ちを抑えつけ、声と身体を生まれたての小鹿のように震わせながらクレイグに語りかける。
そんなエリザの言葉に、クレイグは実に悲しげに、どこか芝居がかった動作で首を振った。
「罪のあるなしは関係ないのですよ。彼らは月と狩猟の代理神様に捧げられた生贄です。私は彼の神への忠誠の証として、彼らを殺す必要があるのです」
「な、何故、殺す必要があるんですか?」
「それは……」
答えかけた司教が、目を見開いて呆然とした顔になる。その瞳からは相変わらず血が滴り、ひどい有様であったが、明らかな困惑の色があった。
「司教、様?」
突如、動きを止めたクレイグに、困惑したのはむしろエリザの方だ。彼女としてはごく自然な問いを放っただけに過ぎない。なにが彼をこのような茫然自失の態に陥らせることになったのか、エリザにはさっぱりわからなかった。
「私は何故こんな無意味なことを?私は誰を殺すつもりだったのだ?いや、そもそも何故私は月と狩猟の代理神など信奉している?」
彼の戸惑いを表しているかのように、クレイグにまとわりつく血液がさざ波のように波打った。
「司教様、大丈夫ですか?」
司教の異常を察知したエリザは、心配そうに声をかける。どれほど姿が変わり、どれほどの罪を重ねようと、エリザにとってクレイグは家族同然の存在だった。恐怖や使命感もあったが、どうしても彼に対して冷たく当たることはできなかった。
声をかけられたクレイグは、今の今まで彼女の存在に気づいていなかったかのように、はっとして目を見開く。
もしかしたら、自分の言葉でクレイグが正気に戻ってくれるかもしれない。そんな淡い期待を胸に抱きながら、クレイグに向かって手を伸ばし――
「おまえは、誰だ?」
伸ばしかけた手が途中で止まる。
エリザも呆然となったが、クレイグはそれ以上にうろたえていた。まるで初対面の人間に親しげに話しかけられ、困惑しているかのように。
「おまえは……いや、私は誰だ?」
「しっかりしてください、クレイグ司教様!私はエリザです!捨て子で赤ん坊だった私をあなたが拾い、修道院で娘同然に育てていただいたエリザです!」
「クレ、イグ?エリ、ザ。そう、あなたは私の……」
突如、クレイグが悲鳴を上げ、頭を抑えてのたうちまわる。彼の頭部は不気味に膨れ上がり、血管の中を蛇でも這いずり回っているかのように蠢いだ。
「司教さ――きゃっ!?」
駆け寄ろうとしたエリザを、クレイグは思い切り突き飛ばした。尻餅をついて倒れるエリザに血走った目を向け、クレイグは搾り出すような声を上げる。
「逃げ、なさい、エリ、ザ」
蚊の泣くような声は、直後の大きな悲鳴に打ち消された。
頭部に留まらず、体中を隆起させはじめたクレイグは、しばらくの間苦しげに暴れ回る。しかし、ややあって隆起が収まると、クレイグの声も同様に収まり、ゆらりと幽鬼のように立ち上がる。
いや、その姿は幽鬼のようなというより、幽鬼そのものであった。
眼球は先ほどの隆起で破裂し、眼窩からは血が止めど無く溢れる。歯は砕かれ、爪は割れ、全身の穴という穴から血液が噴出し続ける。頭部も先刻の隆起で割れ、流れる血流の合間から、僅かに脳が見え隠れしている。
「ご、ろズ、づぎど、じゅりょ、ヴのだいリじ、んざ、バのだめ、ニ」
「司教、様」
ゆっくりと近付いてくる怪物を見て、エリザの瞳から一筋の涙が流れた。
それは恐怖によるものではない。エリザは気づいてしまったのだ。彼女にとって父替わりであった男は、今、死んでしまったのだと。
彼がどのような気持ちをエリザに抱いていたのかは、今となってはわからない。
フランク帝国の諜報員であったクレイグにとって、エリザに対して愛を持って接したことは、【聖職者】という役割を演じるための偽りの行動だったのかもしれない。
だが、先刻、クレイグは確かにエリザに逃げろと言った。
エリザにとって、それがすべてだった。彼が世界すべての人間に恨まれるような行いをしようとも、彼女が涙を流す理由としては十分すぎた。
十五年という歳月はあまりに長い。偽りの感情を偽りのままにしておくことは難しく、憎しみによって覆すには重すぎた。ただ、それだけのこと。
「さようなら、お父さん」
生まれて初めて口にする呼び名。それを受け取るはずだった男は、異形の姿となってエリザの前に立った。
「……ごめんね、ジニアちゃん」
静かに謝罪の言葉を口にするエリザへと、無慈悲な血液の刃が振り下ろされた。
「…………え?」
しかし、来るべき死は、いつまで経ってもエリザの元へは訪れなかった。
それはかつて、彼女がまどろみの中で見た光景の再来。奇跡というの名の神の気まぐれは、二度吸血鬼の魔の手から穢れ無き少女をすくいあげる。
死と絶望に満たされた地獄の中、白刃を携えた天使の如き少女が目の前にいた。
◆◆◆
医療スペースの端、ジニアは医療士たちの邪魔にならないよう、大急ぎで搬送されていく様子を、そして、時折エリザが去った方向へと目を向ける。
初めは何度も手伝いを申し出たのだが、医療士たちは礼を言いつつもそれをはねのけ、すぐに避難するようにとジニアに言い含めた。
男顔負けの剣術と筋力を持つジニアだったが、見た目は十代前半の華奢な少女だ。そのような子どもを、危険な場所に留めておくことなど、医療士たちにはできなかったのだ。
しかし、エリザのことが心配なジニアは、どうしてもその場を離れることができず、そわそわとしながらも大人しくエリザの帰りを待っていた。あまりにも手持ち無沙汰であるため、無断で医療士たちの手伝いをしようかとも考えたが、医術の知識のない素人が下手に病人や医療機材に触るわけにもいかないので、それもできなかった。
『……そんなに心配なら、エリザの様子を見に行ったらどうだ?』
あまりにも落ち着きがないので、見かねた曼珠が、珍しく変態要素のない提案をする。
その言葉にジニアは大きく反応したが、すぐにしょんぼりと肩を落とす。
「でも、エリザは行っちゃダメだって……」
本当なら今すぐエリザのところに駆けつけたい心境だったが、他ならぬエリザ自身の言葉がジニアをこの場に縛り付けていた。
ジニアは時折忠告を無視して突飛な行動に出ることがあるが、誰かに強く言われたことは決して破ろうとしない。それは、親の言葉を絶対だと考える幼少期の子どもの行動によく似ていた。
『くっ、やばい。まるでご主人様の命令に逆らえない忠犬みたいだ。ご主人様の命令は絶対だけど、心配で耳を垂れてるように見える。要約すると、ジニア超可愛い』
「犬?」
両手を頭の上に立てて犬耳の形にし、ジニアはこてんと首を傾ける。血なんて流れてないくせに、曼珠は、ぐほあ、と血を吐くような擬音を立てた。
『し、死ぬ。可愛死ぬ。それはそれで本望だけど、そんなこと言ってる場合じゃねえよな。相変わらず、妙なところで頑固というか。……結局、おまえの行動を縛るのはいつも同じルールなんだな』
呼吸をしない曼珠には無意味なことだが、溜息をつきたい心境だった。
ジニアは、自らの考えより先に他人の意見を仰ごうとする。それは意志薄弱というわけではなく、本能に近いものがある。彼女の出生が無意識に訴えかけるのだ。
それゆえ、それが自分自身を苦しめるようなものであったとしても、彼女は親しい人間に命じられたことを頑なに受け入れる。あるいは、親しい人間の意に沿うように、その者の真似をしようとする。
彼女が、代理神・銀花の真似をして、彼の跡を継ごうと考えたように。
そのこと自体は決して悪いことではない。子どもが親の真似をすることで、人は尊敬する人物の行動をなぞることで成長するものだ。
だが、それでも――
『そんな悲しいこと言わないでくれよ』
それは、曼珠らしからぬ自信なさげな声だった。
『俺は刀だ。どれだけ優れていても、使い手がいなけりゃなにもできない。二年前だって、俺は自分では何もできず、銀花を見殺しにしちまった。使い手が何もしない刀なんて、屑鉄と変わりないんだよ』
「……曼珠?」
今にも泣きそうな曼珠沙華の発言に、ジニアは少し意外そうな顔になる。
今まで、曼珠が弱音を吐くようなことはなかった。いつも冗談を連発し、精神的に未熟な自分を支えてくれる、頼りになる愛しい相方。それがジニアが曼珠沙華に抱く印象だった。
あまりに近しい存在であったためか、曼珠が自分の心を隠すすべに長けていたためか、彼女は曼珠沙華が心の内に抱く苦悩に、今まで気づくことができないでいた。
『だけど、おまえは違う。決まった形から変わらない刀とは違う。血が通い、自由に動くことができるんだ。俺と違って、後悔しないように、自分から動くことができるんだ』
後悔――それは多くの人間を縛るもの。
人生において、一度の後悔もない生き方をした人間はいないだろう。それをバネにして立ち上がるかどうかは人次第だが、曼珠にはそのように生き方を選べることはできなかった。言葉を話せても彼はただの刀でしかなく、自ら行動できるわけではないのだから。
『これは言いつけじゃない。お願いでもない。ただの、俺の願望だ。俺には選択肢はないけど、おまえには無限の可能性がある。後悔するな。後悔させるな。後悔されるな。それを叶えるためなら、俺はこの身が折れることすら厭わない』
その言葉に込められた思いは、愛情ではない。憧れだ。
天才には凡人の苦労はわからないと言う。種族の違いによる苦悩ならば、なおさらのこと。恐らく、この世で唯一の【自らの意思を持つ刀】だけが持つ悩み。彼がジニアに対して異常なまでの愛情を抱くのは、自らの願いを代わりに叶えてくれるかもしれないという切実な祈りの裏返しでもあったのかもしれない。
「後悔しない、選択……」
自ら選ぶ。
それは責任を伴う。自らを傷つけることもある。見ず知らずの人間を傷つけることもある。選択を誤ってしまうこともあるし、正しい選択でも良い結果が残ることもある。
それでも、それこそが子どもから大人への一歩でもある。
僅かに目を瞑って考え込んだジニアは、ややあって目を開いて愛刀曼珠沙華へと顔を向ける。その瞳には、先刻までの心の揺れなど微塵もなかった。
「私、エリザに死んでほしくない」
『……敵は強いぜ?なにより、俺ではあいつを斬れないことは実証済みだ』
「大丈夫」
そっと、愛おしそうにその刀身を抱きしめながら、少女は優しげにつぶやいた。
「曼珠が一緒なら、大丈夫。私も、がんばるから」
蛹から出てきたばかりの羽はまだ弱々しい。だが、一人の少女が空へと飛び立つ準備が、ようやく整った。