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「少佐!標的の発見報告が入りました!」
「うむ」
ブラスキが指揮を取る中隊三十名は、城門の防衛にも市民の避難誘導にも加わらず、逃走したクレイグ司教の追跡を行っていた。一人に対するには大人数だが、下手に放置して内部から破壊工作される可能性を考えれば、致し方ない配置であった。
同僚たちが命を賭けて戦っている中、確実な成果の期待できない仕事を回された彼らは若干苛立っていたが、司教発見の報に喜び、実際に標的を前にすると戸惑いを浮かべるといったふうに、感情を激しくゆさぶられることになった。
「……なにやってるんだ、あいつ」
一人の兵士が思わず漏らした言葉は、その場にいたすべての兵士の気持ちの代弁だった。
目撃情報を元に発見したクレイグは、聖ハノーファー教会の礼拝堂で発見され、そこで神像を剣で何度も斬りつけるという意味不明の行動をしていたからだ。
黙々と、淡々と神像を破壊するクレイグに不気味な思いを抱きながらも、兵士たちはそれぞれ抜剣し、包囲網を完成させる。クレイグはそれに気づいているのかいないのか、顔色ひとつ変えずに同じ動作を繰り返していた。
「トラジスト憲兵隊だ!クレイグ、直ちに剣を捨て、こちらに投降しろ!」
意を決して上げられた警告の声に、クレイグの動きがぴたりと止まる。ゆっくりと振り返ったその瞳は異様なほど充血しており、ほとんど白目の部分がないほどに赤く染まっていた。
「早く剣を捨てろ!十秒以内に手放さなければ、強制制圧を執行する!」
「--おまえたちが信じる神はなんだ?」
ブラスキの手振りで、後方の神鋼弓士が弓を引き絞る。神鋼弓士の矢はすべて神鋼製。【鋼】の段階に至っている神鋼の矢じりが、ぎらりと鋭い輝きを放った。
合図一つで矢の雨が降りかかるような状況下、クレイグはそれが見えていないかのように、譫言のようにブツブツと語り続けた。
「私が信仰していたのは善と英雄の神だった。……今思えば愚かな行為だった。私は無知だったのだ。神の深淵を理解していなかった。偉大で慈悲深い月と狩猟の--」
「放て!」
一向に剣を手放す様子のないクレイグに痺れを切らしたブラスキの命令により、十数本の矢が一斉に放たれた。
訓練された弓士によって撃ち出された矢は、すべて狙いたがわず司教の体へと吸い込まれていく。クレイグ自身も避ける素振りも防御する素振りもみせず、ただ突き刺さるに任せた。
「……そも神鋼とは、善と英雄の神が作り出したものだ。銃による戦いより剣による戦いが見たいという我が儘のためだけに。そんなくだらないことを考える神が尊い存在などとは、あまりにも愚かしい考え方だ」
「なっ!?」
平然と語りを続ける司教に、兵士たちが愕然となる。
矢が防がれたわけではない。その証拠に、矢が刺さった部分からは血が滲んでいる。刺さった矢の数と位置からして、明らかに致命傷であるにもかかわらず、司教の顔に僅かな苦悶も見えなかった。
「……っ!第一小隊の槍士は前へ!」
すぐさま反応した槍士四名が前に飛び出し、クレイグに向けて神鋼の槍を突きこむ。
四本分の槍をその身に受けた司教の体は、その勢いのまま背後に叩きつけられる。司教が斬りつけて傷だらけになった神像に、四本の槍で磔にされる形になった。
クレイグは口から血を吹き出したが、それでも譫言を呪詛のように吐き続けるのを止めない。
「異物である刀剣を交えた戦いなど汚れたものだ。真の戦いとは、その身一つで行われるもののことを言う。己の体のみを用いて行われる『狩猟』。人類が遥か昔に失ってしまったその誇り高き戦いを体現するため、月と狩猟の神の意思を受け継ぐ者には、己の肉体そのものを武器と変える素晴らしき姿が与えられるのだ」
「第一小隊剣士、前へ!首だ!首を刎ねろ!」
クレイグの異様な様子に焦った様子のブラスキが、慌てて指示を出す。第一小隊の剣士二名はその空気に飲まれながらも、自分を叱咤するように雄叫びを上げながらクレイグへと斬りかかった。
そこでようやく、クレイグが新しい動きを見せる。
クレイグは、ゆっくりとした動作で片腕を上げた。その手は自らの血で濡れ、見ようによっては瀕死の人間が助けを求めているようにも見えた。
「『狩り』の意味を知らない者に、私を狩ることはできない」
次の瞬間、クレイグの血液が鋭くうねった。
あまりの速さにどういう軌道で動いたか見えなかったが、クレイグに近づいた四人の槍士と二人の剣士の体が傾き、六つの首が転がったことで、他の兵士たちはなにが起こったかを察した。転がった首は、みな一様に、信じられないという顔をしていたが、それはまだ首がつながっている者たちも同様だった。
「全員、盾を構えろ!弓士は出来るだけ距離をとって射掛け続けろ!剣士は犠牲覚悟で突っ込め!首を刎ね飛ばすんだ!」
兵士すべての顔に、決死の覚悟が浮かぶ。
再び放たれた血の刃は、密集した神鋼の盾によって防がれる。その後方では、礼拝堂内で出来るだけ距離をとった弓士たちが、途絶えることのない波状攻撃を仕掛けていた。
ブラスキの指揮は的確であり最善のものであった。
しかし、同時に最悪のものでもあった。彼らは知らなかったのだ。彼我の力の差が、最善の策を弄したところで埋まるものではないということに。
クレイグはまず鬱陶しい矢を止めるため、血液を槍状に変えて飛ばす。その射程の広さが予想以上だった上、矢よりも高速で飛ばされたそれを避けることは能わず、十名以上いた弓士は全員、血の投槍をその身に受けて悲鳴を上げる間もなく即死する。
血の刃による斬撃以外の攻撃方法を持っていたことに、接近していた剣士たちは少し驚いたが、せっかく出来た隙を見逃すことなく、一斉に斬りかかる。
同時に斬りかかることができたのは五名までだったが、そのうちの一人の剣がクレイグの首を斬り飛ばした。その光景を見た五名の剣士たちは勝利の笑みを浮かべ――その表情のまま、五つの首が宙を舞った。
「自前の牙を持たない犬に、狼が狩れるとでも思ったか?」
「な……に……?」
目の前で起こった出来事が信じられず、兵士たちが呆然となる。
首は間違いなく斬り落とされていた。しかし、その首と胴体は血液によってつながっており、それはすぐに縮まって、首と胴体が元の位置に戻る。首と胴体の付け根からは血液が溢れていたが、生き物のように蠢いており、滴り落ちるということはなかった。
クレイグの顔には相変わらず表情がない。首を斬り落とされたことに対して、蚊ほどにも気にしていない様子だ。その瞳も変わらず充血しており、眼球の血管が破れたのか、血涙が頬を濡らしていた。
もはや穴という穴から血を流し、血に濡れていない部分を探す方が難しい状態で、司教が再び腕を持ち上げる。
「っ!全員、盾を構えろ!」
ハッとして、兵士たちが盾を持ち上げる。しかし、あまりのショックに反応が遅れた数名の兵士が間に合わず、血刃の餌食となった。
三十名いたはずの兵士たちが、とうとうブラスキを含めて六名までその数を減らしていた。
「う、うわわわわわ!!」
「ば、化け物!」
「待て、逃げるな!」
恐慌に陥った兵士たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ始める。
打つ手のない状態で、それは決して間違った判断ではなかったかもしれないが、無作為に一つしかない出口に殺到する様はあまりに無防備だった。
「クソっ!」
案の定、逃げる五名の兵士の背後へ向け、司教が血の槍を放った。
唯一逃げずに踏み止まったブラスキが、かろうじて一本の槍を盾で弾いて軌道をずらすことに成功したが、残り四本の槍はそれぞれ兵士たちの命を奪った。
「ひっ!?た、隊長!」
「振り返るな!走れ!ロベルト閣下にこの事態をお伝えするのだ!」
一人だけ生き残った兵士が立ち止まった気配を感じ、ブラスキは振り返ることなく叫ぶ。
もはや勝つことなど絶望的。ブラスキは一分一秒でも足止めし、部下が逃げる時間を稼ぐことに集中する。ことここにいたれば、少しでも多くの情報をロベルトに伝える以外に有効な手は存在しなかった。
しかし、そんなブラスキの思いは杞憂に終わる。意外にも、クレイグが逃げる兵士を追撃することはなく、兵士が礼拝堂から転がるように走り去るのを見逃した。
「……なんのつもりだ?」
「私の任務は、トラジスト市内で暴れて、外のフランク神国軍を支援することですからね。一人見逃すくらいどうということはないのですよ」
無表情を崩して、クレイグはにこりと笑う。
その優しげな顔と口調はブラスキのよく知るクレイグのものだったが、何とも言えない吐き気を覚えた。顔面が血だらけであることを除いても、まるで別人のように感じられる。
「それに、私のことを軍の人間たちが知ったところでどうするというんです?剣で斬られても槍で突かれても矢で射抜かれても死なない私を、どうやって殺すというのですか?人間を超えた存在となった私を、あなたがたが殺せると思うのですか?」
「……やはり、使徒、か」
常識外の力を目の当たりにし、薄々感づいてはいた。外には月と狩猟の代理神を王に仰ぐ、フランク神国を名乗る兵が押し寄せてきているので、連想しないほうがおかしい。
だが、それがわかったからといってなんなのだ。
クレイグがいつ、どうやって使徒と化したかは不明だが、その能力は神鋼剣士の天敵といっていい。刃物による攻撃が通用しない以上、腕利きの剣士が何百人集まろうと、この男を倒すことはできない。
まだ試していない方法――燃やしたり、電気を通したりなどの方法が有効かもしれないが、本当にそれが通じるかどうかは試してみなければわからないし、効果があったとしても実践できるとは限らない。例えば、人間大の物体を消し炭にするのに必要な火力は、言葉にするほど簡単に用意できるものではない。
その上、こいつは【たかが】使徒に過ぎないのだ。この化物を作り出した代理神という存在を敵に回して、自分たちに勝ち目はあるのか?
思考が悪い方向へと向かっていくのを必死に誤魔化し、虚勢でクレイグを睨み続けるブラスキだったが、そんな彼を嘲笑うかのようなことをクレイグは口にした。
「ああ、誤解しているようですね。私は使徒様ではありません。偉大なる使徒様のご厚情により、力を与えられた存在。……言うなれば、使徒様の劣化コピーのような存在ですね」
背筋に虫が走るような感覚がし、ブラスキは顔から血の気が失せていくのを自覚した。
訓練された兵士の集団三十名を、いとも容易く撃破した存在が、使徒の劣化コピーでしかない。それはつまり、この化物の背後に立つ存在が、ブラスキの想像以上であることを示している。
「に、人間をなめるなよ、化け物」
しかし、声を上ずらせ、止めどない汗が頬を伝いながらも、ブラスキは命乞いをすることなく、剣先をクレイグへと向け続ける。
ブラスキは剣士として特別優れているわけではない。実戦部隊ではなく、憲兵部隊に所属していることからしても、それは明らかだ。だが、敗北が必至であっても、市民の脅威となりえる怪物相手に、戦う姿勢を崩すということは心が許さなかった。
彼は生粋の軍人であり、憲兵部隊の隊長だった。
「おまえからすれば、人間など虫のようなものかもしれない。だがな、人間は虫と違って、無抵抗に踏み潰されてるだけじゃない。虫相手に負けるわけがないと思ったら、大間違いだぞ」
その言葉は、ブラスキに許された唯一の抵抗であったが、クレイグはそれを嘲笑うような笑みを浮かべながら彼のもとへとまっすぐ歩み寄る。
必然、ブラスキの剣が動きを阻むかに見えたが、クレイグはそれを気にすることなく、刃が突き刺さるに任せて歩を進めた。
剣を通して刃が肉を貫く感触を感じながら、ブラスキは、血を涙のように滴らせるクレイグの顔から目を逸らせなかった。剣は根元まで突き刺さり、クレイグの顔を文字通り目と鼻の先に見ることになったブラスキは、悲鳴を上げそうになるのを必死に堪えた。
「素晴らしい。素晴らしい心がけですよ、ブラスキ少佐。まさに軍人の鏡といったところですか。では、そんなあなたに敬意を評し、あなただけは特別扱いしましょう」
「な、なにを」
「なにって、決まってるじゃないですか」
にっこりと、人間であった頃と同じように、優しげな笑みをクレイグは浮かべた。
「お気に入りの虫は標本にする。子どものようにピュアな常識じゃないですか」
◆◆◆
街の中央近くにいるにもかかわらず聞こえてくる砲声に、人々は不安を掻き立てられ、意味もなく慌てた様子で避難所に向かう。
財産やらなにやらを抱えて駆け回る人々をぼんやり見ながら、避難所の場所を知らないジニアは人々の向かう先にとことことついていく。走ったり、乗り物を使ったりはしない。未だに気持ちの踏ん切りがつかないジニアにとって、戦争の恐怖より避難所について曼珠沙華と向き合うことになることのほうが怖かった。
無力感に苛まれ、とぼとぼと歩くジニアは、自分が今どこを歩いているかを把握していなかった。それゆえ、彼女が道中にできた人だかりにぶつかった時、もう避難所に着いてしまったのかと誤解した。
しかし、人々から漏れる会話の内容がどうにもおかしく、避難所に着いたわけではなさそうだということはすぐにわかった。
「お、おい、なんだよ、ありゃあ」
「ひでえな、領主様の仕業か?」
「違うだろ、あれ、ゲルマニクスの軍服だぞ?フランク神国の仕業だろう」
戦時であるというのに、人々は道端で立ち止まって顔を突き合わせる。
小柄なジニアは、人垣の向こうになにがあるのか見えなかったが、通りを見回して自分が中央広場に足を踏み入れたことにようやく気づいた。
ただでさえ気落ちしていたところに、さらなる不快感を思い起こし、ジニアはすぐに中央広場から出ていこうとする。だが、人ごみに押されてなかなか抜け出せない。
やがて、ジニアが人ごみから抜け出す前に十名以上の兵士がやってくると、大声を上げて、話し込んでいた人々を避難所へと誘導する。兵士のうち何人かは、人々が注目していた広場へと駆け足で進んでいった。
ちょうどよかったので、ジニアは兵士の誘導に従って広場から出る方向へと向かう。ただ、最後に一度広場を振り返った。
それは神の悪戯か、それともジニアの目が良すぎたせいか。人垣で見えないはずの中央広場は、その一瞬だけ人の山が割れ、彼女の目に、広場に設置されたそれが映った。
「……ブラスキ」
この街に来てから何かと縁のあった大男の兵士。四肢がかろうじて繋がっているというほどに斬り刻まれたその死体は、広場の中央で、昆虫の標本のように鉄杭で串刺しにされて放置されていた。その周囲には、何十という兵士の死体が、同様に串刺しにされている。
死体に駆け寄った兵士たちが、その無残な死体を片付けている。
ある者の顔は怒りに染まり、ある者は悲しみで頬を濡らし、ある者は感情を押し殺して淡々と同僚を弔っていく。すべての兵士に共通していることは、等しく苦しげであることだった。
それらがジニアの瞳に映ったのはほんの一瞬であったが、彼女の類まれなる動体視力はそれらの一つ一つを正確に彼女の脳に刻み込んだ。
気を失いかねないほどの精神的ショックに、少女の足がふらついた。だが、人ごみの中で倒れるわけにも行かず、人とぶつかりながら、川に流される木の葉のように人の波の中を流されていく。
斬り刻まれた兵士たちの姿が、代理神たちに殺された銀花の姿と重なり、ジニアの胸の内は、怒りや悲しみ、その他のさまざまな苦々しい感情が埋め尽くす。
(復讐は、いけないこと?)
ロベルトにした質問を自問自答しながら、ジニアの目から涙がボロボロ落ちていく。
悔しかった。あの時、自分にクレイグを斬れていれば、こんな惨劇は起こらなかったかもしれないと思うと、たまらなく悔しかった。
だが、曼珠沙華では斬ることができなかった。曼珠沙華に込められた銀花の思いとジニア自身の思い。ジニアにとっては、前者の方が圧倒的に重要なものであったが、それでもあふれでる感情を押さえつけることはできなかった。
「銀花ぁ、曼珠ぅ、私、どうすればいいかわかんないよぉ」
人々の喧騒の中に溶け込む少女の悲鳴。それを聞き止める者は、彼女の傍にいなかった。