復讐者たちの白昼夢
フランク神国とゲルマニクス王国、両国の軍がぶつかり合う喧騒は、南門から大きく離れた憲兵庁舎にも聞こえてきた。
ジニアはその音に僅かに反応するが、すぐに顔を俯かせる。
彼女はブルダリッチ伯邸での騒ぎのあと、憲兵の本拠地であるこの場所に連れてこられていた。なにかあった場合、憲兵が多くいるこの場所なら対応できるという判断だ。
しかし、現在、憲兵庁舎にはジニア以外の人間はいない。憲兵たちはトラジスト住民の避難誘導のために出払っている。
ジニアはエリザとともに避難所に行くように言われたのだが、彼女はそれを拒否して憲兵庁舎に一人留まった。エリザもジニアと一緒にいることを望んだのだが、ジニアに強く請われ、後ろ髪を引かれながらも避難所に向かった。曼珠沙華とともに。
「曼珠……」
曼珠を持って行って貰うように頼んだのは、ジニア自身だ。そうであるにも関わらず、ジニアの胸は張り裂けそうなほど痛んだ。
それでも、ジニアは一人になりたかったのだ。
クレイグを斬れなかった時、ジニアは銀花や曼珠に拒絶されたように感じた。実際にはそうではないと頭ではわかっていても、心の中では納得できない。
ジニアは銀花の背中を追って生きてきた。彼はジニアにとっての憧れであったし、銀花も彼女がそういう生き方をすることを望んでいるのだとずっと思っていた。
だが、銀花から貰った神鋼刀でクレイグを斬れなかったということは、今のジニアの生き方は銀花が望んだ生き方ではないということだ。では、どうすれば、自分は銀花の望んだ存在になることができるのだろう?それとも、曼珠沙華はただ形見分けとして渡しただけで、彼の望みとは関係ないことなのだろうか?
ジニアは、先刻からそのようなことを延々と考え続けている。ジニア自身は気づいていなかったが、銀花の生き方をなぞろうとしたり、曼珠沙華の言葉に従って生きてきたジニアにとって、一人で考え事をするというのはほとんど初めての経験だった。
ふと、堂々巡りし出す考えを中断するように、ジニアが顔を上げる。
庁舎に入ってくる人間の気配を感じたのだ。意識を深く潜り込ませながらも、このようなことには敏感に反応するのはさすがと言えた。
現在、丸腰のジニアには、敵に襲われた場合に対処する方法がない。だが、ジニアには大して緊張する様子はなかった。いつもの無感情に加え、自暴自棄な気持ちがまったく混じっていなかったとは言えない。
やがて、ジニアのいる部屋の扉が開かれる。入ってきたのは少々意外な人物だった。
「一人か?」
ジニアは機械的に頷く。相手もさして興味のなさそうな冷たい瞳で返してきた。
「なんで来たの?」
「不貞腐れて動かない子どもがいると聞いてな。指揮の合間に少し時間ができたから、顔を出してみることにした」
「嘘つき」
ロベルト・ブルダリッチは、ジニアの返答の意味を測りかねて片眉を上げる。だが、ややあって納得したような顔になるとひとつ頷いた。
「女というのは時折呆れるほど勘がいい時がある。人間の恐怖を操るのは簡単だが、女の思考を先読みするのは難しい。……いつ気づいた?」
ジニアは答えずに、ぼうっと宙を眺めていた。ロベルトはそれを返答と受け取り、問い詰めようとはしなかった。お互いに言葉数は多い方ではない。傍から聞いている者がいれば、意味のわからない会話だったが、二人にはそれで十分だった。
「念のため言っておくが、誰にも話すな。……もうおまえに用はない。とっとと避難所に行け」
一体、なんのために来たのか、来て早々にロベルトは部屋から出ていこうとする。そんな彼をジニアはなんとなく呼び止める。
「ロベルト」
少女の声に、ロベルトは足を止めて振り返る。
その目が何の用かと問いかけるが、何か言いたいことがあって呼び止めたわけではない。ただなんとなく一人が寂しくなって、無意識に声をかけてしまっただけに過ぎない。
なかなか口を開かなければ、すぐにでも出ていくだろうと思ったが、ロベルトはこちらがなにかを言い出すのを律儀に待ち続ける。結局、ジニアは思いついたことを口にした。
「復讐は、いけないこと?」
「…………」
一瞬、ロベルトの瞳に悲しげな色が宿る。
それは本当に僅かな間のことで、すぐさま絶対零度を取り戻し、淡々と言葉を紡ぐ。
「俺もかつて、同じ考えに至ったことがある」
「……誰?」
誰のための復讐なのか、誰に対する復讐なのか、どちらの意味ともとれる質問に、ロベルトは双方に対するものを返す。
「妻だ。食事に毒が混じっていた。やったのはフランク帝国の工作員だ。トラジストの住人に溶け込み、料理人として屋敷に潜り込んできた」
『もう十五年以上前のことになるか。屋敷の食事に毒が混ざっていたことがあった』
まだ昨日のことだ。ロベルトとの会話に出てきた言葉を思い出す。同時に、ロベルトが十五年以上続けてきた行動を思い出し、ジニアは戦慄を覚えた。
あの時は、ただ貴族が自ら料理をしたがる理由を聞いたに過ぎない。ロベルトの答えも、自分が毒殺されないように、自らで料理をするようになったと捉えた。
だが、それは違う、ということが、同じように親しい人間を殺されたジニアにはわかった。
それは、後悔。
あの時、自分で料理していれば、屋敷の使用人をすべて自動人形でまかなっていれば、そういう後悔が、ずっと彼の胸の内に留まり続けていたのだ。意味のあるなしが問題ではない。それはある種の脅迫概念に近いものなのだ。
それゆえ、ロベルトは妻の死を過去のものとすることなく、自らの手で調理をするたびに妻の死と後悔を思い出し、十五年以上のもの期間、広大な屋敷に一人で住まう孤独に耐えてきた。
「領内の処刑方法を、串刺し刑による公開処刑にしたのもそのためだ。妻を殺した連中を、この世で最も残酷な方法で、長く苦しめながら殺してやりたかった。それを連中の仲間に見せつけ、次はおまえの番だと言ってやりたかった。……恐怖の【串刺し伯】が聞いて呆れるだろう?なんのことはない。あれは私怨でやっているだけの、意味のない復讐だ」
自嘲するように、ロベルトは乾いた笑みを浮かべる。
ジニアにとって、ロベルトは合理的で冷たい人間というのが第一印象だった。だが、それは印象に過ぎないということが今でははっきりわかる。
彼は感情の男だ。まず初めに感情ありき、続いて合理的な思考で自らの行動を決定する。ある意味において、ロベルトは、ジニアがであった人間の中でもっとも感情豊かな男だった。
そして、その境遇は、ジニアと重なる部分が多かった。
「復讐は、無意味?」
「……最高の復讐とは、復讐する相手より幸せになることだということわざがある」
その言葉はジニアも聞いたことがある。
彼女が復讐の旅をしているということを誰かに話すと、決まって似たような言葉をかけられた。――大抵が男で、多少の下心ありきの言葉だったが、そのことに関してはジニアは気づいていなかった。
ジニアはそう言った類の文言は嫌いだった。聞く耳を持たなかったと言ってもいい。しかし、ロベルトから聞くと、不思議と耳を傾けてしまう。同じ復讐者として、共感を持ってしまったからかもしれない。
そして、ロベルトの考えは、今までジニアに同じような言葉をかけてきた男たちとはまったく違うものだった。
「このことわざの深い部分は、【復讐相手を殺すこと】を否定していないことだ。相手を殺すならば、後悔するな。復讐を果たした上で幸せになれ、とな」
「復讐を果たした上で、幸せに?」
ロベルトの言葉を反復するジニアは混乱していた。その二つを簡単に結びつけるには、彼女の感情は未熟すぎる上に優しすぎた。
この場合、復讐を果たすとは殺すことだ。憎い相手とはいえ、殺人を起こしてそれに歓喜せよという考えは、ジニアの――というより、人間の本能が拒否を示す。
そんなジニアの頭に、ロベルトが手を置いた。幼子に対するような所作に対し、ジニアはこれといった忌避感を抱かず、それを受け止めた。
「教育者の教えがよかったのだろう。おまえにとって、幸せとは白であり、不幸とは黒であるとはっきりしているようだ。だがな、人間というのは、誰しも黒き幸せという業を抱いて生きている。決して褒められたものではないかもしれないが、時として、それはもっとも人間らしい一面を引き出すものでもあるのだ」
ジニアには、ロベルトの言っていることがすぐには理解できなかった。いまだに混乱している。それでも、彼の言葉を一言一句聞き逃すまいといった強い視線をロベルトに向けながら、ただ黙って聞いていた。
「おまえは神でも聖人でもないのだ。他人に押し付けられた正義ではなく、自分が正しいと思う正義を見つけ出せ。おまえに後悔が生まれないかぎり、おまえを大切に思う人間はおまえの生き方を否定するようなことはないだろう」
今は理解できなくていい。これから知っていけばいいことだ。そういう思いを込めて、ロベルトは【見つけ出せ】という言葉を使った。彼の意思を正しく捉えたジニアは、ただ頷きだけを返す。
胸の内にぽっかり穴が空いたような感覚は未だに残っている。だが、歪な形とはいえ、ロベルトの言葉によって、その空間の一部が埋まったのは確かだった。
「さて、私もいつまでもおまえとおしゃべりしているような余裕はない。さっさと避難所に行かないようなら、首根っこ掴まえて引きずって行ってやるが?」
あとはジニア自身が解決すべき問題。ジニアの頭から手を離し、親身な態度から一転、心底邪魔そうな目を向ける。
今までのはあくまで気まぐれ。白昼夢のようなものだ。夢から覚めたのなら、現実と向き合わなくてはならない。ジニアは過酷な現実の迷路に迷う少女だったが、甘えてばかりの夢見る乙女ではなかった。
「……自分で行く」
ろくに知りもしない相手に弱みを見せてしまったことを、今さらながらに恥ずかしく思い始めたジニアは、頬を僅かに赤く染めて立ち上がる。
別れの挨拶も礼もしない。ロベルトもそれを望んでいないだろう。水泡と同じで、ここでの出会いと会話は、はじけて消えてしまったほうが互いのためなのだ。
そのままの足取りで庁舎から出ようとしたジニアだったが、廊下に出て数歩もしないうちに立ち止まった。あとから部屋を出たロベルトも、同じように動きを止める。
二人とも、庁舎に入ってきた新たな来訪者の気配を察したのだ。ロベルトの時とは違い、距離があってもそれとわかるほどに、荒々しい足音を立てている。
「ロベルト少将、緊急報告です!」
やがて廊下の先から現れた兵士は、ロベルトの姿を認めて駆け寄ってくる。どうやら連絡兵のようだ。ロベルトは庁舎に足を向ける前に、自分の行き先を司令部の人間に告げているので、ここに兵士が現れることはおかしいことではない。
ロベルトの目の前まで来た兵士は、すぐに口を開こうとして、ジニアに気づいて慌てて口を噤む。一般人の前での不用意な発言は、極力避けるのが軍の常識だ。
しかし、それでも口を開こうとしたところを見ると、よほど慌てているようだ。
それに、年齢差があるとはいえ、年頃の男女が人気のない建物に二人きりでいたのだから下衆な勘ぐりをされてもおかしくはないのだが、兵士にはそんな気配は見られない。一刻も早く報告を済ませなければならないという焦りが、思考の柔軟性を大幅に下げているようだ。
「構わん、話せ」
兵士の様子から緊急性を察したロベルトが、ジニアがその場にいるにもかかわらず、発言を許可する。
許可を得た兵士は、それでもジニアの方に目を向けたが、それも一瞬。一度口を開くと、焦りもあって早口に喋り出す。
「クレイグ司教追跡部隊が標的と接触するも壊滅!ブラスキ少佐以下二十八名の隊士が殉職いたしました!住民にも多数の被害が出ています!」