開戦
トラジストは蜂の巣をつついたような騒ぎだった。
市民は大慌てで地下避難所に向かい、兵士たちはその誘導や戦争の準備に大忙しだ。
南門近くに設置された緊急司令部には、すでに主な将兵が集まり、トラジスト周辺の地図を広げた机を囲んでいた。
その中でもっとも上座に座る将校――ゲルマニクス国境軍総司令ロベルト・ブルダリッチ少将が重い口を開く。
「情報部長、現状を」
「はっ、敵の総勢は推定で十万。トラジストから二キロ離れた丘陵に本陣を敷いています。南門を囲むように、左翼二万、右翼二万、右翼後方二万、前衛二万、本陣二万。こちらは事前察知に失敗したため、完全に出鼻を挫かれた形です。トラジスト駐留軍は一万五千、周辺都市には応援を要請中です」
「敵は十万の大軍勢ですよ?どうして事前に察知できなかったのですか?」
卓を囲んでいた銀髪の女将校が尋ねる。情報部の長を責めているというより、確認と情報共有を目的としているような発言の仕方だった。
「国境付近に配置していた監視兵は全滅しました。最後の通信の内容から、使徒に襲われた可能性が高いです。そのため、大部隊の接近に気付くのに遅れた次第です」
彼女の意を汲んだ情報部長も、淡々と事実のみを口にする。
汚名返上のための言い訳や自分の推測を口にすることはない。下手な物言いをすれば、先入観を与えてしまい、それぞれの将校の考えを邪魔してしまうからだ。このような機械的な考えができるからこそ、ロベルトに情報部の長として重用されている男だ。
「……代理神がいる可能性は低いな。いるならトラジストはとっくに落とされてるし、わざわざ十万の兵で囲む必要もない」
「いや、建物を破壊せずにトラジストを奪いたいだけかもしれない。それに、代理神がいなかったとしても、使徒がいるのはほぼ確実でしょう。たかが十万の兵と侮るのは危険かと」
一万五千対十万という兵力差に、怯むような人間はここにはいなかった。
ここにいる将兵は二十年前のトラジスト防衛戦を経験したことのある者ばかりだ。あの時の絶望に比べれば、このていどの兵数差などそよ風のようなものだ。
「……指揮官を知る必要があるな。代理神襲撃により、フランク帝国の上層部は軒並み死亡したと聞いている。軍をまともに操れる者がいるとは思えん」
ロベルトの言葉に、すべての将兵がうなずく。
敵の指揮官が誰かというのは非常に大きな問題だ。戦略・戦術はもちろん、部下の信頼が厚いかどうか戦後処理をどのように行うかなど、得られる情報は多い。
特に、指揮官が代理神かどうかで、トラジストの命運は決まると言っていいだろう。
「情報部長、敵指揮官が誰かの情報を優先的に集めろ。各大隊を率いる隊長と兵の質の情報もだ。兵士が足りないなら、予備兵から持って行ってもいい」
「わかりました」
「剣兵師団長・弓兵師団長は兵士の配備を急がせろ。兵士は南門に集中させるが、奇襲がないとも限らん。他の箇所にもあるていど兵士は配置しておけ。監視に回す兵士には、暗殺に長けた使徒がいるという情報を共有させろ」
「了解!」
「お任せを」
三名の将校が頷き、与えられた任を果たすために司令部から出ていく。
ロベルトはさらに他の部署の責任者にも指示を出す。その度に地図を囲む人間の数は減っていき、最後にロベルトと一人の男だけが残った。
「……ブラスキ少佐、憲兵隊は市民の避難誘導および警護を行なえ。それと、クレイグ追跡も続行しろ」
「は?避難誘導はともかく、警護とは?」
時間が経てば援軍が来るとはいえ、今は猫の手も借りたいほど忙しい状況だ。
こういう場合、憲兵隊は、市民の避難誘導が終わったあと、どこか他の部署に組み込まれて仕事をこなしていくことになる。市民の警護など、兵を遊ばせるだけで、軍の総司令官としてふさわしくない指示と言えた。発言内容だけから判断すると、市民思いの領主のようにもとれるが、それこそロベルトらしくない。
疑問を挟むブラスキに、ロベルトはぎろりと絶対零度の目を向ける。
「少佐、上官の命令には黙って従え」
「……了解しました」
納得はいかないが、ブラスキは軍人だ。上官の命令に異論を挟めるような権限はない。
命令を受諾したからには、すぐに部屋から出ていかなければいけないが、ブラスキは少し迷ったあと、思い切ってロベルトに尋ねる。
「少将、一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「クレイグは、少将のお屋敷の脱出経路をどうやって知り得たのでしょうか?クレイグに仲間がいる場合、その線から当たってみたいのですが」
話しながら、ブラスキは冷や汗が止まらなかった。
部下を屋敷に突入させたことに関しては、ロベルトは咎めなかった。かなり際どいところではあるが、規律に違反するようなことではないからだ。
だが、この質問は、ある意味最大の規律違反。捉えようによっては、軍の最高司令官を疑うような発言だ。この場で物理的に首を飛ばされてもおかしくない。
ブラスキの緊張をよそに、ロベルトはなんということもない様子で、顎鬚に手を当てて少し考え込む。
「……悪いが、心当たりはないな。屋敷に関する情報隠蔽は完璧だったはずだが、どこかで漏れていたのかもしれん。もっと強化するべきだな」
「そ、そうですか。貴重なお時間をお取りして、申し訳ありません」
あれ以上、あの屋敷の警備に強化する余地があるのか?と疑問に思いながらも、ブラスキは引き下がる。それ以上ロベルトを追求するような胆力はブラスキにはなかった。
ブラスキはロベルトに一礼し、退室する。
情報士官の手によって目まぐるしく変わる戦力図を眺めていると、一人の兵士が慌てた様子で入ってきた。
「ほ、報告します!門前に、敵兵が!」
「……む?敵軍が動いたという報告はないぞ?敵兵の規模は?」
「ひ、一人です。軍使のようなのですが、それが……」
続いて、兵士がもたらした情報を聞き、ロベルトは珍しく苦虫を噛み潰した表情になった。
◆◆◆
「よお!おせえじゃねえか、ロベルト!二十年ぶりくらいか!」
「久しぶりだな、シルヴァン。生きていてなによりだ。死ね」
ロベルトが南門の上から見下ろすと、そこには巨大な狼にまたがった男が、軍使の証である赤い旗を片手に、実に楽しそうに手を振っていた。城壁の上には大勢の敵兵がいるというのに、まったく気負った様子がない。
その男はとてつもなく巨大だった。二メートルを優に超える身長に、長柄の戦斧を二本、十字になるように背負っている。しかし、筋骨隆々というイメージはなく、長い手足と縦長の胴体からノッポという方がぴったりくるかもしれない。
ルーズに着込んだ軍服の上から、なにかの獣の毛皮を羽織った姿は、軍人というよりどこかの野盗と言ったほうが合っている。だが、そんなふざけた男を前にして、ゲルマニクスの兵士たちはみな一様に警戒を崩さない。
なぜなら、彼は、フランク帝国にその人ありと言われた猛将シルヴァンだったからだ。
戦狂いで政治経済に関する知能は皆無だが、一応貴族であり、こと戦争に関しては鬼神のごとき強さを誇る。そして、二十年前の戦争で、ゲルマニクスを滅亡の危機まで追い込んだ張本人でもあった。
「おまえ、なんで生きてるんだ?フランク帝国上層部の人間は全員死んだと聞いたぞ?」
「あ?そりゃ、帝都にいた連中だけだ。俺は西の戦線で遊んでたから、無事だったんだよ。まあ、俺は戦争できるなら、頭が誰でも構わないからよ。今じゃあ、新生フランク神国の将軍よ」
どうだ、と言わんばかりに、軍服に縫い付けられている月と弓の紋章を見せつけてくる。そこは本来、フランク帝国の国旗が縫い付けられている場所だったが、その紋章はまったくの別物だった。
それを見て、ロベルトは代理神を本気で呪いたくなった。どうせフランク帝国を滅ぼすのだったら、どうしてこの男を殺しておいてくれなかったのかと。それだけ戦いたくない男だった。
「……それで、おまえがあの軍の指揮官なのか?そんなに戦争がしたいなら、今すぐ取って返して、代理神相手に戦争でも起こしたらどうだ?」
「ああ、それも考えたんだがよ。でも、物事には順序ってもんがあるだろ。二十年前のトラジスト戦は、俺にとっちゃあ、最大の汚点だ。神を殺す前に、悪魔を殺さなくちゃなあ」
悪魔とは、【トラジストの悪魔】の異名を持つロベルトのことを指すのだろう。
実にあっさりと、代理神に対して叛意ありという意志を示すシルヴァンに、壁上の兵士たちがざわめく。だが、彼のことを知るロベルトからすれば、シルヴァンらしい考え方だと納得がいった。
二十年前、トラジストを防衛したのはロベルトの手柄だが、それはシルヴァンを破ったというわけではない。シルヴァンはトラジストを攻めている最中、激化した西の戦線を支えるため、すぐにゲルマニクス戦線から外されたのだ。
後任の将軍はシルヴァンほど優秀ではなかったが、弱体化したゲルマニクスが相手ならそれで十分だと判断されたのだろう。結果、ロベルトの指揮によるトラジスト防衛に成功したものの、シルヴァンが指揮を執っていればどうなっていたかわからない。
シルヴァンにとって、それは非常に心残りだったのだが、ついに彼がゲルマニクス戦線に戻ることはなかった。ゲルマニクス王国とフランク帝国の間で、停戦協定が結ばれてしまったからだ。
「質問に答えてなかったな。そうだ、俺がこの新生フランク神国軍の総大将だ。使徒が一人ついてきてるが、手出しはさせねえ。人間同士、楽しい殺し合いをしようぜ」
獰猛な笑みを浮かべるシルヴァンに、ロベルトは呆れる。
この男は、わざわざそれを言うためだけに、敵陣の目の前にたった一人で現れたのだ。代理神の名前を使って降伏を勧告することもせず、むしろロベルトに全力で抵抗させるために。
彼の目ははっきりと告げていた。二十年前の決着をつけよう、と。
そんな漢気溢れる発言を受け、ロベルトは――
「知るか。帰れ」
冷めた目をシルヴァンに向け、手で傍の神鋼弓士に合図を送る。
神鋼弓の矢じりは神鋼製だ。射っては回収して、を繰り返すことで、矢じりに使われる神鋼を育てることができる。当然、相手が神鋼の加護を持っていても、傷を負わせることができる。
矢は狙い違わず、シルヴァンへと飛び、大男は慌ててそれを避けた。
「っぶねーな、こらあ!こんなつまんねえことで死んだらどうすんだよ!」
「笑ってやる」
「相変わらず、いい性格してんなあ、てめえ!そんなんだから、てめえは【やまあらし】・ロベルトなんて陰険そうなあだ名がつくんだよ!」
「バカだから、【巨象】のシルヴァンというあだ名がつけられているおまえよりはマシだ。……おい、次は百本ほど叩き込んでやれ」
「うおぉいっ!?とにかく、宣戦布告は済ませたからなっ!決着は戦争でつけようぜ!」
高笑いを上げながら、巨狼が大急ぎで敵陣へと引き返していく。
それを追って矢が何本が飛んだが、一本も刺さらずに地に落ちた。それを見たロベルトは、本気で口惜しそうに舌打ちした。
――時刻は十一時。後にトラジスト神撃戦と呼ばれる戦いが始まった瞬間だった。