神の尖兵
「くそ!くそ!なんでこんなことに……」
悪態を吐くことで痛みをごまかしつつ、クレイグが下水道を走る。
ブルダリッチ伯の屋敷は、内乱時に立て籠もるための要塞としての役割も持つ。そのため、このような緊急脱出用の通路もいくつか用意されていた。本来、ロベルトや工事に直接関わった者しか知らない情報だが、クレイグはとある筋からいくつかの脱出経路を調べ上げていた。
今のところ、追っ手はいない。仮に彼を追う者がいたとしても、あらかじめ逃走経路を確保していたクレイグにとって、一時的とはいえ追跡を巻くことは容易だったろう。
不意にその足が止まる。
行く手を阻むように立つ存在にはっとなりながらも、それが誰かを知ってクレイグは胸をなでおろす。同時に腹も立った。
「なんてことをしてくれたんだ!神経を削って作り上げた司教という地位がぱあだ。この地で怪しまれない立場でいることがどれだけ難しいことかわかっているのか!?」
どなるクレイグに向かって、赤黒い液体が鞭のようにしなりながら飛びかかる。液体はクレイグの首に絡みつくと、顔色が変わるほどに締め付ける。
「う、が、あぁ……」
「命令の一つも実行できないような男が吠えるな。もはや役立たず以外の何者でもないおまえを殺すことにためらう理由はないのだぞ」
「ば、化物、め」
「化物ではない。使徒だ。偉大なる月と狩猟の代理神アスミ・ヨイマチ様の力を分け与えられた崇高なる種族だ。もっと敬意を払え」
液体は大きく動くと、クレイグを壁に叩きつけるようにして開放した。クレイグは幾度も咳き込みながら、涙目で使徒を睨みつける。
「なら、あんな子どもを利用しようとせずに、おまえが直接行動に出ればいいだろう!」
「その子どもに敗れた男がよく言う。我々使徒は人を超える力があるが、代理神様方ほどの不死性は持ち合わせていない。千の敵を殺すことができても、万の敵を殺すことはできんのだ。使徒のほとんどはそのことを理解していないが、私はそれを理解している。私は、月と狩猟の使徒の中でも慎重な考え方をするからこそ、この作戦を任された。代理神様の命に、失敗は許されないのだ」
「……だが、時間がないのだろう?」
昨晩、使徒ナディアが国境入りしたという情報が入ってきた。ということは、国境からトラジストまでの距離を考えて、そろそろのはずだ。不確実でもなんでも、行動に出るなら今しかない。
「確かに。あのジニアという少女を使えなかったのは惜しいが、次善策で決行する以外にあるまい」
「次善策?」
それを尋ねようとしたクレイグの動きが止まる。
言葉を発しようとした口を含めて、全身に再び液体が絡みつく。今度はそれだけに留まらず、耳や口や鼻、全身の穴という穴に液体が潜り込んできた。
「あっ、が、な、やめ……」
口に突き刺さる液体のせいで、叫び声を上げることすらままならない。声にならない悲鳴を上げながら、クレイグは全身に異物が混じり合う様子を知覚する。
もがき苦しみ抵抗していたクレイグの体から、徐々に力が抜けていく。白目を剥く頃にはすっかり抵抗はなくなった。
「一般人を使うよりはましだろう。本当なら、他に腕の立つ剣士を探し出したいところだが、時間がないし、【資源】は有効活用しなければいけない。……光栄に思うがいい。死ぬことになるだろうが、おまえは直接代理神様のお役に立つことができるのだ」
「あ、あっ、あっ」
まるで生きたまま幽霊になったよう。
液体の拘束から解放されたクレイグは、しばらく意味のない言葉を何度か発したあと、ゆっくりと動き出す。その足取りはしっかりしていながら、どこか意識が別にあるような動作で下水道を歩いていく。
「やれやれ、【乗っ取り】は一人しかできないことが欠点だな。だが、当初の予定とは違うが、これで任務は達成できるだろう」
その背を見送りながら、使徒は陶酔したような声でつぶやいた。
「今宵は記念すべき月夜となるだろう。今日、この日、トラジストはアスミ・ヨイマチ様のものとなる!弱き者どもよ、存分に騒ぎ、謳い、命を散らすがいい!月と狩猟の神の名のもとに、血塗れの降誕祭の祝いのもとに、その儚き命を天上の神々に捧げるのだ!」
◆◆◆
「お疲れさん、交代の時間だぜ」
監視塔の上で、歩哨が交代を知らせる。
トラジストの城壁は対剣士より対砲撃仕様になっており、低く分厚い構造になっている。しかし、それでは視界が悪いので、城壁の途中途中でこのような監視塔が設けられていた。
現在、国境付近で不審な動きがあったという情報が入ったため、非番の者も城壁の上に上げられ、歩哨の数は普段の倍以上になっていた。交代を告げられた兵士も、本来なら休日であったところを返上して出勤したところだった。
「ああ、ようやくか。これで家に帰って飯が食えると思うと……欝になるぜ」
「……嫌味か、それは?嫁どころか彼女すらいない俺に対する嫌味なのか?抜き打ち訓練と評して、おまえの家に手榴弾放り込んでやろうか?」
「いや、違うんだ。妻や子どもに会えるのは嬉しいんだが……あいつの飯はとにかくまずくてな」
「……ああ、そういえば、そうだったな。また病院送りにならないように気をつけろ。軍は体が資本なんだからな。帰る前に飯屋で最後の晩餐済ませとけ。……ああ、でも、一番区は止めておけよ、今朝からゴタゴタしてるから」
他の同僚に挨拶をして帰ろうとしていた兵士の足が、その言葉で止まる。彼は朝から歩哨の任につけられたので、一番区で起こったゴタゴタというのを知らなかった。
一番区といえば、ブルダリッチ伯邸のある地区だ。軍で一番恐ろしい男の居住区がある場所で面倒を起こすバカはめったいにいない。それゆえ、一番区はトラジストでもっとも安全な場所とも言えるはずなのだが、何かあったと聞いて、兵士は興味を覚える。
「ゴタゴタ?なにがあったんだよ」
「俺の担当区じゃないから詳しくは知らないが、なんでもクレイグ司教が吸血鬼になって、ロベルト少将の屋敷に現れたらしい」
吸血鬼という非現実的な言葉を聞いて、兵士は同僚が冗談を言っているのだと勘違いした。
聖ハノーファー教会は、主神であり剣神である善と英雄の神を祭っている場所で、剣士である彼は何度も行ったことがあり、そこを管理する立場のクレイグ司教とも親しかった。
彼の知るクレイグは人当たりのいい性格で、吸血鬼などという言葉と結びつけることができなかったのだ。
ゆえに、兵士は仲間のつまらない冗句に合わせて笑ってやる。
「ははは、そいつはいい。で、吸血鬼に十字架は通用したのか?」
「十字架はどうか知らんが、居合わせた流れの剣士が応戦したらしい。吸血鬼は屋敷の敷地内の秘密脱出路から逃走。修道士の少女が軽い怪我を負ったそうだ」
「……冗談、だよな?」
「間接的にとはいえ、ロベルト少将が関わってるんだぞ?おまえ、少将のことで冗談なんて言えるか?」
言えるわけがない。
ロベルトの敷く軍規は非常に厳しく、懲罰もひどい。ロベルトをネタに冗談を言うような奴は、命知らずを通り越して自殺願望者か真性のマゾヒストだ。
「しかし、屋敷の脱出路なんて、どうやって知ったんだ?そういうものがあるという話は聞いたことがあったが、どこにあるかなんて、軍隊だって知らないぞ」
「具体的にどうやって情報を手に入れたかは知らないが、クレイグ司教はフランク帝国の工作員だった可能性が高いらしい。現在、指名手配犯として、憲兵部の連中が血眼になって探してるらしいぜ?」
「憲兵部といえば、ブラスキ少佐か。……それにしても、クレイグ司教がなあ」
兵士は複雑な顔になる。
なにせ、彼が結婚式を挙げたのは聖ハノーファー教会――クレイグが務める教会だったのだ。自分と関わりがあり、自分が新米だった頃から教会に勤めていた男が裏切り者だったなどとは俄かには信じがたい。
だが、だからといって兵士は司教を恨んだりはしなかった。むしろ顔見知りとして同情すらしていた。
「また串刺し刑だろうなあ。かわいそうに」
「うちの大将はスパイには厳しいからな。あれ、トラウマになるから止めてほしいんだけどなあ。代理神様を刺激することにならなきゃいいんだが」
「なんで代理神様が出てくるんだよ」
「ば~か。吸血鬼と勘違いされるような超常的な力を使える存在といえば、代理神様とその使徒だろうが。で、フランク帝国からの工作員で使徒とくれば、フランク帝国を滅ぼした代理神様が関わってるに決まってるだろう」
言われた兵士はその可能性に思い当たり、身震いをする。
ゲルマニクスの仇敵であったフランク帝国が、代理神の手によりたったの一日で滅ぼされた事件は記憶に新しい。フランク帝国は憎い相手ではあったが、その精強さに関しては身をもって知っている。それが一日で滅ぼされるなど、悪い冗談としか思えない。
「どうなるのかね、この街は。代理神なんかが攻めてきたら、いくらブルダリッチ卿でも守りきれないぞ」
もはや天災も同然。代理神と戦って勝つことなど想像もできなかった。
「血塗れの降誕祭は国盗りを競ってるわけじゃない。好戦的な代理神様だとしても、国を次々に落としていくわけじゃ……」
「?どうした?」
「おい、あれ……」
指差す先はフランク帝国との国境方面だった。
いくつかの丘が並ぶ湿地帯。そんな監視塔から見えるいつもの風景の中に、小さな異物が目に映る。異物は徐々に大きくなり、まだ遠いが、風に翻る旗が確かに見えた。
顔色を変えた兵士が壁に備え付けられている警報器を叩くと、城壁全体に染み渡るように大音量の警笛がなる。それを確認するより早く無線機を手に取る。
『こちら、司令部。南西監視塔、警報を鳴らした理由を――』
「フランク帝国方面から敵襲!数は正確には不明だが、遠目でも五万は超えてやがる!神の尖兵どもが喧嘩売ってきやがったぞ、ちくしょう!」
緊張を孕んだ声で無線機に向かって叫びながら、監視兵は、結婚して初めて妻の作る不味い食事が恋しいと思った。