初めての拒絶
椅子の陰から忍び寄ってきていた赤い液体が、弾丸となって飛び掛かってくる。それを、ジニアは先刻と同じように、刃の腹で弾き飛ばした。
これ以上の言い訳は無駄。そう判断したクレイグは、浅くため息を吐いた。
「ああ、最悪だ。こういう事態にならないように必死に繕ってきたのに、あいつはそういうことを全部無視しやがる」
「司教、さま?」
聖職者とは思えない乱暴な言葉づかいに、エリザが呆然となる。
エリザはこの期に及んでも、なにかの間違いだと思いたかったが、クレイグが懐から短剣を取り出したことでその思いは否定される。
剣質は【鋼】、クレイグが剣に感応を込めると、短剣が伸びてやや短い細剣になる。暗殺者を生業とする剣士が愛用することが多い神鋼剣だ。
『いひゃひゃひゃひゃ!いいねえ、使徒をぶった斬るなんて久しぶりだ!半端者なのが残念だが、オードブルとしては悪くねえ!』
「エリザ、下がって」
使徒との戦いを前にしてテンションを上げる曼珠と違い、ジニアは、ショックで棒立ちになっていたエリザの安全を優先させる。
しかし、冷静に行動しているように見えて、ジニアも内に殺意を秘めていた。彼女の目的である代理神、その眷属である使徒を目の前にしているのだ。無表情を装っても、その感情は抑えきれるものではない。
「曼珠、あれは使徒?」
『さっきも言ったが、クレイグは使徒じゃない。何度か襲ってきてる赤い液体からは、僅かに使徒の気配がする。ありゃ、血液だな。おそらく、この街の使徒は、血液を操ることができるんじゃないか?だから、力を蓄えるために、吸血鬼の真似事をしてたんだろう』
興奮しつつも、曼珠沙華はジニアの問いに的確に答える。
代理神の眷属である使徒は、総じて人間離れした能力や容姿をしていることが多い。血液を操る使徒がいてもおかしくないと、ジニアは納得する。
「……大人しく捕まってもらえないか?私は無意味な殺しをするつもりはない。言うことを聞いてくれるなら、君とエリザの命は保証しよう。使徒に逆らって、代理神の怒りに触れるようなマネは君も避けたいだろう?」
司教として振る舞っていた時と同じように、クレイグは穏やかに少女を説得する。だが、それは逆に彼女の逆鱗に触れてしまった。
――思い出すは、彼の死に様。なにもできず、あの頃の自分は、ただ亡骸に泣きつくことしかできなかった。
みしり、と砕かんばかりに握りしめた柄が悲鳴を上げ、それに応えるように神鋼刀の光り輝かんばかりの美しい輝きが、彼女の感情に反応したかのように、錆のような黒ずんだ光へと変わっていく。
自身の姿がおぞましいものへと変わっていくことは曼珠も感じていたが、それに抵抗することなく、むしろ恍惚とした声を上げた。
『ああ、いいぜ。ジニアが俺の中に入ってきてる!さあ、もっと、もっと、注ぎ込め、マイエンジェル!おまえのすべてを俺にくれ!おまえの色でおれを染め上げてくれ!』
「っ!?」
ジニアから発せられる鬼気迫る剣気と曼珠沙華から垣間見える狂気に気圧され、クレイグは一歩後ずさった。その手に握られた細剣が、怯えたように震える。
「っ!!無駄だ。どんなに斬れ味が良かろうが液体は斬れん!」
自分を叱咤するように叫びながら、剣を構えて踏み出してくる。それに合わせるように、液体の弾丸が飛んでくる。
小さく素早い弾丸は厄介だ。ただの弾丸なら、神鋼の加護を受けるジニアには無意味だが、使徒に関連した攻撃ならそうとは限らない。確実に払い除けなければ、少女の命を奪う凶弾と化すことは間違いない。
同時に踏み込んできたクレイグの剣を振るうタイミングも完璧。長年一般人を装っていたとはいえ、その剣技は訓練された者のそれ。クレイグの行動は一部の隙もない。凶刃と凶弾の織りなす連撃は、正しく最適解であった。
キン。
「なっ!?」
澄んだ音とともにクレイグが驚愕の声を上げる。
神鋼剣であるはずの彼の剣は、バターのように切断され、高らかな金属音とともに剣先が明後日のほうへと飛んでいった。
同時、クレイグの剣を斬った勢いをそのままに、空気を焦がすほどの速さで振るわれた刀身を受けた液体は、音衝撃波を受けて四散した。掌の上に乗る程度の量でしかなかった血液は、血霧となって消える。再生不可能なまでに細かな粒子と化した血液は、二度と戻らなかった。
クレイグのとった行動は確かに最適解。しかし、あまりにも普通すぎた。
彼の剣技は、一流の剣士であるロベルトとのそれと比べれば、あくびが出るほど退屈なのに対し、最高潮まで高められた感応により、ジニアの感覚は極限まで研ぎ澄まされていた。そんな状態の彼女にとって、液体の凶弾とクレイグの凶刃、その両方をまとめて斬り伏せることはあまりに容易なことだった。
「ひっ!?」
頼みの綱である血液が消滅し、自らの剣も折られたクレイグは、自らに勝機がないのを察して慌てて逃げようとする。
しかし、ジニアたちが出入り口となる扉近くにいたため、そこからは逃げられない。
「くそっ!」
意を決したクレイグは、窓を突き破って逃走を図る。居間は一階だったため、問題なく外に出ることができた。折れた剣を手放さなかったため、神鋼の加護により、ガラスによる怪我もなかった。
直後、横腹を蹴られ、クレイグの体が数メートル宙を舞う。
「ぐっ!?」
地面に叩き付けられ、呻き声を上げる。神鋼の加護があるため、蹴りによるダメージはほとんどなかったので、反射的なものだ。
そんな彼の前に、刀が突きつけられる。
「使徒は、どこ?」
黒錆びた刀を突きだし、冷めた瞳で見下ろす彼女の姿は、ぞっとするほど美しかった。これぞまさに死神。この者になら、命を奪われても惜しくない。クレイグに一瞬でもそんな思いを抱かせるほどに、彼女は神秘的で、浮世離れていた。
「……知らん。知っていても言わん」
我に返ったクレイグは、質問に答えることを拒否する。代理神や使徒が恐ろしい彼にとって、それを裏切るような行動がとれるはずもない。
ジニアはクレイグの手から神鋼剣を蹴り飛ばすと、同じ足をしなる鞭のように動かし、司教の顔面を蹴りあげた。歯が何本か折れて、血と一緒に宙を舞う。
『ジニアに蹴られるとかうらやましいな、おい。言っとくが、ジニアの蹴りは普通に人が殺せるぜ?早く吐いたほうが身のためだ』
血の滴る口を押さえるクレイグに対し、曼珠は楽しそうに、それでいて冷たい言葉を投げかける。
曼珠の言うとおり、華奢な少女に見えるジニアの膂力は、成人男性のそれを大きく上回っている。蹴りどころか、殴っただけでも人が殺せるだろうということを、実際に蹴られたクレイグは察した。
「こ、答えは変わらない」
それを理解していても、クレイグは回答を拒否する。代理神を恐れているというより、少女の拷問で口を割ることを、工作員のプライドが拒否したのだ。
ジニアは、クレイグの手を踵で踏みつけ、えぐるように動かす。ごりごりと手の骨がゆっくり砕かれる音が響き、男の口から盛大な悲鳴が上がった。
「やめて!」
いつの間にか外へと出てきていたエリザが、背後からジニアにしがみついてきた。まるで自分が拷問にあっているかのように、瞳に大粒の涙を浮かべて懇願してくる。
「お願いします。やめてください、ジニアちゃん!偽物かもしれないけど、私のお父さんなんです!お願いだから、これ以上――」
「どいて」
少し力を込めて押すだけで、エリザの軽い体は引き剥がされた。突き飛ばされたエリザは、近くの花壇の煉瓦に頭を打ち付け、額から血が流れた。
「お願い、やめて……」
しかし、それに気づいていないのか、必死であるためか、血が流れていることも気にせず、エリザは這いずりながらもすがってきた。
その、あまりに必死な姿に、ジニアの瞳が僅かに揺れる。
だが、それも一瞬のこと。再び冷徹な瞳に変わったジニアは、揺らめく光を放つ刀身を振り上げた。
「ゲルマニクス国境軍だ!これはいったい何の騒ぎだ!」
その刃を振るおうとした直前、ジニアたちの元へ何名かの軍人が走ってやってきた。
ここは貴族の屋敷なのに、どうして軍人が?呼び止められたジニアが、少し驚く。
彼らは、ジニアたちの監視と護衛のためにブラスキがつけた兵士であることを、ジニアは知らなかった。クレイグが窓を突き破った音を聞いて、なにかあったと思い、屋敷の敷地内へと突入してきたのだ。
「くそっ!」
最後の悪あがきか、クレイグが背を向けて走り出す。
軍隊に捕まれば、彼は間違いなく拷問を受ける。ジニアにやられたことがおままごとに思えるほどの拷問を。そして、それに耐えらなくなった彼は、この街に潜む使徒の居場所を軍の人間に漏らすだろう。
「それは、だめ」
口に出して、ジニアは自分の思いを再確認する。
代理神を殺すことが自分の役目。使徒を殺すことも自分の役目。それが自分の役割であり、他の誰かに譲るなどできない。
かと言って、現状で自分がクレイグから情報を聞き出すというのも難しい。
それならば、いっそ――
視線を逃げるクレイグの背に移すと、殺気のこもった視線に気づいたのか、逃亡者は背後を振り返る。一目でジニアの次の行動を察した彼の顔色が、青を通り越して白く染まった。
先に走り出した時間の利など、ほとんどない。豹のようなしなやかなスタートダッシュを決めたジニアは、一瞬でクレイグに追いついた。
「ダメーーーーー!!」
すがるエリザが、悲痛な叫びを上げる。
だが、黒い感情に塗りつぶされたジニアは、迷いのない動きで刀を振り下ろす。
【鋼】の刃すら、あっさり切断する剣閃。それは何者の邪魔を受けることもなく、クレイグの身体に吸い込まれ――
「がっ!?」
強烈な一撃をその身に受けたクレイグが、車に跳ね飛ばされたような勢いで弾き飛ばされる。
『…………え?』
「なん、で?」
その場にいた誰もが、クレイグの死を幻視していた。それほどの一撃。まさに必殺の一閃。それは、振り下ろされる前から結果が見えてしまうほどの素晴らしい一刀だった。
しかし、それを放った者の口から出たのは疑問の言葉。クレイグの死を予感していた者たちにとって、それはある意味彼ら全員の心の代弁でもあった。
「なんで、斬れない、の?」
クレイグは満身創痍だった。骨は折れ、内臓を損傷し、内出血によって体中が腫れ上がっている。だが、その身に刀傷はなかった。
その事実に、周囲の人間以上にジニア自身が呆然としていた。
曼珠沙華は、もともと代理神・此花銀花の神鋼刀であり、彼が死ぬ直前にジニアに託された物だ。
代理神の存在を嫌っていた銀花のことだから、彼の神鋼刀である曼珠沙華には、代理神や使徒を殺せる力がある。ジニアも周囲の人間もずっとそう思っていたし、だからこそ銀花はこの刀を自分に託したのだと信じていた。
だが、斬れなかった。それはつまり、銀花は代理神を殺すことを望んでいなかったということになる。
銀花を殺した代理神たちへの復讐のため、そして、銀花がやりたかったことを代わりにやるために、代理神を殺す旅に出たジニア。しかし、銀花に託された刀では、代理神はおろか、ただの人間であるクレイグすら斬ることができなかった。
この事実は、これまでのジニアの前提を大きく崩してした。
それを受け入れられなかったジニアは、不意に足元の地面が無くなったような感覚に陥り、ふらふらとその場にへたりこんだ。
――そして、それは一人の男にとって、最大のチャンスとなった。
「!?待て、クレイグ司教!!」
いつ気を失ってもおかしくないほど痛めつけられた体を引きずりながら逃げるクレイグを、警備隊の面々が声を張り上げて呼び止める。
もちろん、クレイグは止まらない。
飛びそうになる意識を心の中で叱咤しながら、庭に設置してある戦士の像へと到達する。
彼がその像をなにやらいじると、石像が動き出して、その下にぽっかりと暗い通路ができた。兵士たちが慌てて追いかけるも、彼らが石像に辿り着く前に、クレイグは通路に身を投じていた。石像はすぐさま元の位置に戻って、警備隊の追跡を阻む。
そんなやり取りが交わされる中、ジニアは周囲の様子など目に入らない様子で、その手に握られた神鋼刀を見つめていた。
『ジ、ジニア……』
曼珠がおどおどした声で、ジニアに声をかける。彼自身、なぜクレイグを斬ることができなかったのかわかっていない様子だ。
曼珠に声を掛けられたジニアは、びくりと身体を震わせて刀を取り落した。
「あ……」
すぐに拾いなおそうとして――できなかった。
神鋼刀へと伸ばされた手は、見えない壁があるかのように宙をさまよい、ついにその指先が触れることはなかった。
『ジニア……』
それは、ジニアの曼珠沙華に対する初めての拒絶。自ら体を動かすことのできない曼珠は、ただ悲しそうな声でジニアの名を呼ぶことしかできなかった。