ジャスミンとロゼに狂った男
(あるのか分かりませんが)実在する店、人物とは一切関係ありません。
短編といえるのか分かりませんが、良かったら最後まで読んでみて下さい。
午後10時。
穏やかな午後10時。
久しぶりだ。
いつもの自分なら、この時間仕事をしている。
臭いおじさんとか、金だけは余る程持った醜い男を相手に。
だけど、今日は一人。
非常に穏やかだ。
ついさっきまで眠っていた。午後4時から、長すぎる昼寝だった。
レムとノンレムがごちゃごちゃになったしつこい眠りだった割に、頭はすっきりしていて気分がいい。
窓から忍び込むひんやりした隙間風が、その爽やかさをさらに促す。
「…おっと」
思い出して携帯の電源を切る。
幸い着信は無くて、また穏やかさに身をまかせる。
日曜の夜とは違った穏やかさ。
日曜の平和と、今日みたいな平日の平和は全く意味が違う。
あぁ。幸せだ。
大きく伸びをすると、縮こまった身体中が伸展して。まるで殻から脱皮したばかりの蛇の気持ち。心臓の筋肉までストレッチしている。
煙草に火をつける。
ロゼのパールピンク。ワインとは違う。
ワインの色は、もっとマット。
煙草は緩やかに煙をくゆらす。
細い煙草の灰は、丈夫でなかなか落ちようとしない。ロゼ。綺麗なパール。
シャワーを浴びる。
昼間買い物に行く前にわざわざ化粧をしたので、オイルで念入りに落とす。撫でるようにオイルを滑らせると、白いファンデーションが溶けて滲む。
シャワーを顔に浴びるとオイルは白い水に変色する。
私はこの瞬間、なんとなく満足する。
シャンプーを頭皮に馴染ませて指の腹でこする。全体的に。
滑らかな泡で髪を包みこむと、その香りが鼻腔に優しい。
風呂から上がり、バスタオル一枚のまま髪を渇かす。
さらさらと長い髪が流れたら、洗濯したばかりのフリースのパジャマを身につける。柔らかくて心地良い。
キッチンに行き、湯を沸かしてカフェオレを作る。
マグカップにシナモンベージュの熱い液体が、甘い香りの湯気を出す。それを居間のテーブルへ置く。
甘い香りの中で髪をまとめ、鏡を覗き込む。
白く透明な素肌。
顎と頬骨がすっきりと浮き上がっている。
さわると冷たい鼻筋の細い骨。
眉の下で少し窪んで、くっきりとした二重。
口紅をつけなくても淡いピンク色の薄い唇。
本当は化粧をしない顔の方が好きだ。
チューブに入ったピーリングジェルを手のひらに出して、顔全体に塗る。ローヤルゼリー配合のジェル。舐めるとほんの少し甘い。
顔がひんやりして気持ちいい。
焼かれて食べられる直前の食パンも、こんな気分を味わっているのなら案外幸せなのかもしれない。
二分間置いて優しくマッサージすると、ポロポロと汚れが落ちて快感。
一皮向けた気分。
ジェルを洗い流してカフェオレを飲む。
ちょうどこれぐらいの熱さが好きなのだ。
だけど早めに飲まないと、冷めすぎてしまう。
儚くて、束の間の飲み時。
胃にじんわりと温かさが広がる。
マグカップを流しで洗って、居間のお香に火をつける。
三角のコーンの先端に赤い丸ができて、消えた瞬間に勢いよく煙が立ちのぼる。
ジャスミンの香り。
部屋に広がる。
午後11時半。
テレビではろくでもないバラエティ番組。
この間買ったDVDでも見ようと思いついて、デッキに入れる。
怖いくらい穏やか。
DVDを見終えた頃、時計はもう2時半を指していた。
店はもう閉店の時間だ。
やけにほっとして胸を撫で下ろす。
もう一杯カフェオレを飲もうとキッチンに立った瞬間、インターホンが鳴った。
「…休み?」
ママが頷く。
「無断欠勤なの。いつもはこういうことしない子なんだけど…旭川さん。ごめんなさいね」
沈んでいく心が重い。
僕は不機嫌さを隠すのも忘れて思いきり顔を歪め、舌打ちする。
「ユウコちゃんじゃないと。僕…ちょっと」
僕は酒を作りかけたママを制す。ママは気分を悪くしたはずだが、みじんもそんな表情を見せずに丁寧な所作でボトルをテーブルに置く。
淡い色の着物に、肌の白さが映えている。髪をぴっちりと結わえて。この店のママは下手な女優より美しい。
「どうしましょう。本当にごめんなさいね。電話しても繋がらないのよ。明日家に行ってみるつもりなんだけど」
「いや、いいんですよ。今日はもう帰ります」
僕と同時にママも立ち上がる。預けていたスーツの上着を持って来て、優しく着せてくれる。
甘い香水の匂い。
熟したフェロモンの香りがする。
魅力的な女だ。
だけど僕は。
ユウコじゃないと駄目だ。
「ユウコちゃん来たら、携帯に連絡してもらえますか?待ってるんで」
背広のボタンを止めながら僕は言う。
「もちろん。そうさせてもらうわ。今日は、本当にごめんなさいね」
気の毒な程に申し訳なさそうな顔をする。
大きな店で繁盛しているのに、医者でも社長でもない僕に、こんなにも気を使ってくれる。
客を何より大切にする店なのだ。
出口でボーイが頭をさげ
「ありがとうございます」
と言う。
なかなか男前で、今風の若々しい青年。いつものボーイだ。おそらくまだ学生で、バイトとして働いているのだろう。
僕はこいつが好きじゃない。
こんな男前がユウコと親しげに話しているかと思うと、腸が煮えくり返る。思わずそいつを睨みつけそうになった自分をぐっと押さえて、微笑む。
僕はお前とは違って大人の男なのだ。それを知らしめたかった。
外に出ると、飲み屋街はさっきより賑わっていて、そこら中に華やかな女とサラリーマンが歩いている。
むなしい。ユウコに会いたい。
明日は居るのだろうか。
ママからの連絡を待つしかない。
もしかしたら、今晩のうちに出勤してくるかもしれないではないか。
そう思うことで再び胸が高鳴る。
あぁ。早くユウコに会いたい。
煙草と香水と酒の匂いが混ざったネオン街で、僕は息を白くしながら家路に着いた。
誰も居ない家の玄関を開ける。
地域指定のゴミ袋を切らしていてゴミが溜まっているためか、かすかに生ゴミくさい。
電気をつけると、散らかった部屋が現れる。
同人誌とかグラビア雑誌が床中に散乱していて、テーブルには昨日食べたコンビニ弁当の残骸がそのままになっている。
臭い。
携帯を見るが、着信はない。
試しにユウコに電話してみる。
『おかけになった電話は現在電波の届かない場所にあるか電源が入っていないため…』
耳から離す。
ユウコ。
一体どうしたんだろう。
体調でも悪いのか。
心配だ。
心配だが何もしてやれない。ふがいない自分が悔しい。
スーツを脱ぎ捨てる。
スーツはこれしか持っていない。
就職活動の時に買った一枚。
結局意味が無かった。
着ていく所と言えば『ランヴィン』ぐらい。僕はランヴィンではサラリーマンを装っている。
実際はニートだ。
24歳。
ランヴィンで働くユウコと同い年。
ふと電気代とガス代の滞納の紙を見つけて気分を悪くする。
面倒臭い。
だってガスより電気より水道より、僕がランヴィンで金を使うのは当然のことだろう?ユウコ。
…ユウコ。
あんなにしなやかで。いい匂いがして。清潔感があって。知的で心優しくて上品で。そして僕が今まで見たどんな女より美しくて。
あぁ。ユウコ。
雪花石膏のような肌。
薔薇のように淡い色の唇。
長い睫。茶色い瞳。
涼やかな鼻筋。
顎のライン。
足首の華奢な、細長い足。
滑らかな二の腕。
白い胸の谷間。
誰にも汚されていない。汚されてはならない。
あぁ。ユウコを剥製にしてこの部屋に置きたい。
玄関を開けると秀治が立って居た。
「やったな。無断欠勤」
そう言って愉快そうに笑う。
私は微笑んで、
「だるかったんだもの」
と言う。
秀治は当たり前に部屋に入る。ジャスミンの煙の中にかすかな冬の、冷ややかな匂いが忍び込む。
「ママ、怒ってた?」
秀治の脱いだダウンジャケットをハンガーにかける。
「いや。心配してた。体調でも悪いのかって」
秀治は居間のソファーに腰掛けて、煙草に火をつける。
その横顔に見惚れる。
高い鼻にすっとした顎。大人っぽい顔立ちなくせに、目がまだあどけない。それは細くて、笑うと犬みたいに可愛いのだ。アッシュブラウンの、緩いパーマがかかった髪。触り心地がいい。
宝石みたいな私の男の子。三つ下で、まだ大学生だ。
秀治がボーイとしてランヴィンで働き出したのは一年前で、その頃から私達はずっと付き合っている。
「…そう。良かった。今日のお客は?誰が来た?」私は秀治の隣に座る。
秀治の匂い。ブルガリブラック。その肩に頭をもたせ掛ける。
「…あー。なんか。なんだっけ。お前の客の。気持ち悪い男。オタクっぽいサラリーマンの」
思い出せない、と言って秀治は私の肩を抱く。
私を『お前』と呼ぶ秀治が好きだ。自然に流れ出た感じが好ましい。
「誰それ?」
肩に置かれた秀治の手に、手のひらを重ねる。
「…えーっと。なんかエスパー伊藤に激似の。…あ…旭川か」
興味無さそうな顔で秀治はテレビのリモコンを手に取る。
「…あぁ。あの人」
「お前が居ないって言ったら機嫌悪くして帰ってった。俺、あいつ嫌い。なんでか知んないけどいっつも俺のこと睨んでるし。今日も帰り気にくわなそうな顔でこっち見てた」
旭川は週に三回ぐらいランヴィンに来る。三ヶ月前ぐらいからの常連だ。
なんか暗い感じの、薄気味悪い男だ。
酒もあまり飲まず、あまり喋らず、じっと私を観察している。やりやすいが大して儲からない客だ。
「なぁ。詩織」
「何?」
「仕事やめたら?」
秀治は私の方を向いて、ゆっくりキスをする。柔らかい唇から生暖かい唾液が滲む。
「…なんで?」
秀治は私の口を塞ぐようにまたキスをする。
「なんとなく。俺、お前がああいう仕事してるのは別に嫌だと思わないよ。前も言ったけど。だから出会えたわけだし」
秀治はゆっくり私のパジャマのボタンをはずす。
「じゃぁどうして?」
「…いや。お前、もう嫌なんじゃないかなぁと思って」
ブラジャーを付けていない胸があらわになる。肌が蛍光灯に照らされて淡く発光しているように見える。
「私は別に嫌じゃないわよ。辞めたら収入源が無くなるし」
冷たい皮膚に、秀治の温かい手のひらが触れる。くすぐったくて、もどかしくて心地が良い。
「じゃぁ、俺が卒業して就職したら辞める?」
秀治はまたキスをする。
キスが好きなのだ。
本当に犬みたい。
髪を撫でる。ふわふわ。
「養ってくれるの?」
私は微笑む。鏡を見なくても自分が優しい顔をしているのが分かる。
「うん」
秀治は自分も服を脱いで
「さむっ」
と独りごちる。
薄い筋肉の張った、無駄のない細い体。
それから秀治は私の身体中にキスをして、電気を消してからいつものように私を抱いた。
可愛い秀治。
疲れてトランクス一枚でベッドに横たわる秀治に、コーヒーを入れてやる。
秀治はブラックしか飲まない。
「疲れた…」秀治が目をつむったままつぶやく。
「大丈夫?」
「…いや。セックスじゃなくてバイトがね。結構顔の筋肉疲れんだよね。愛想笑いばっかしてると」
そう言って起き上がり、マグカップを受け取る。
秀治はよくこういう事を言う。
「分かるわよ。あたしも。今日は久しぶりに笑わない平日を過ごしたわ」
私はカフェオレをすすり、秀治はブラックコーヒーをすすった。
明日からまた仕事に行かなくてはならない。唯一の救いは、店に秀治が居ることだ。
だから私は頑張れるのだ。
天使が舞い込んで来た。
瞬間、電車のドアがプシューっと音を立てて閉まる。
走って来たのか、天使は息を落ち着かせようと胸に手を当てている。
空気が違う。彼女の周りだけ。
天使が僕に気付いて、目を丸くする。
「あ。旭川さん」
僕のプライドがそうさせるのか、さして驚いた風にも嬉しい風にも見せず微笑む。
体が傾く。電車が動き出した。
「…ユウコちゃん」
ユウコは恥ずかしそうな顔をして髪の乱れを直す。
「つい走ってしまうんです。発車しそうな電車を見ると」
そう言って僕の方に歩み寄る。
帰宅ラッシュの時間帯で車内には結構な数の人間が居るのに、まるで二人しか存在しないかのように周りの音が消える。
「…うん…分かるよ。その…今から出勤?」うるさい心臓の音と手の震えを気付かれないといいが。
私服姿のユウコは初めてみた。灰色のワンピースに黒いショールをまとっている。
タクシーなんかじゃなく電車を使っているユウコがやけに庶民的で、思わず親近感を感じる。
「そうなんです。あっ。昨日来て下さったんですよね。すいませんでした」
ユウコが頭をぺこんと下げる。
「いや…いいんだよ。だけど…なんで休んでたの?」
非難っぽく聞こえた気がして
「いや、心配で」
と付け足す。
「昨日、頭痛がひどくて。…私偏頭痛持ちなんです」
電車が突然左右に大きく揺れて、ユウコが足を踏み外す。
ドサッと僕の胸に倒れ込む。ふわりとした重み。整いすぎた美しい顔が僕の顎の真下にある。柔らかい香りがする。香水とかじゃなく、なんか花みたいな。
やばい。
心臓が…。
「あ。…すいません」
ユウコは恥じらいの含まれた仕草で身を引く。白い頬がうっすらとピンクになっている。
「…いや」
僕の心臓は爆発しそうにドクドクと脈打つ。
「あ。旭川さん。お仕事帰りですか?」
「…あぁ。まぁ」
「今日はお店にはいらっしゃらないの?」
こういう上品な口調がたまらない。今時、こんな丁寧に喋る若者なんて滅多に居ない。
「いや。行くよ」
「本当に?嬉しい。じゃぁ一緒に行きましょうよ」
ユウコは手を叩いて、嬉しくて仕方がないといった笑顔を見せる。
愛らしい。
抱き締めたくなる。この笑顔が見られるなら、シャンパンでもドンペリニョンでもなんでも飲ませてやりたい。借金の限度額を超えても。
「…もちろん。…あの…良ければだけど…まだ時間あるから食事でもしない?」
僕は隠しきれない愛しさを顔に滲ませて言う。
ユウコは僕の腕を掴んで
「そうしましょ」
とはしゃいだ。
本当に金にならない男だ。
すかいらーくのチェーン店に連れて行くなんて。おまけに私の嫌いなイタリアン。パスタのもちもちした食感とチーズの匂いがまだ口に残っている。
それを消そうと、何度も水割りを飲む。
「ユウコちゃん」
「はい?」
旭川は私から30センチの距離を置いて座っている。
「他のお客さんのところに行かなくていいのかい?」
旭川はグラスを持つでも煙草を持つでもない両手を、せわしなく膝の上で動かしている。
「えぇ。大丈夫です。今はここに居ます」
今日は客が少なくて人手は足りているし、ママの言いつけもあってなるべく旭川についていなくてはならない。
「…そうか。良かった」
カウンターの方から秀治がこっちを見ている。
目を合わせないように気をつける。下手に客が感付いたら面倒臭い。
「あ。旭川さん。肩にゴミが…」
背広についたゴミを摘んでやると、旭川は面白いぐらい動揺する。
「あ。…ありがとう」
沈黙が続く。
旭川のグラスは全然減らない。
酒を作る必要がないので暇だ。
煙草が吸いたい。煙草は私のイメージに合わないらしく、ママから吸うなときつく言われている。
この男。
自分から喋ることもしないし。酒ぐらい飲めばいいのに。ボトルがちっとも空かないじゃない。
「旭川さんって。あまりお酒がお好きでないの?」
仕方なく自分のグラスを空にして、新しく作る。
アイスがグラスに落ちてカランと音を立てる。
「は…いや。そんなことはないけど」
ごにょごにょと何か言いたそうにどもる。
「ビールとかワインもありますよ?」
気付いたら入口に新しい客が三組程居る。忙しくなってきた。客が入る時はたいてい一気に入る。何故か。
「いや。僕はいいよ。…ユウコちゃんが飲みたいならどうぞ」
「…そうですか?じゃぁ…」
ふとテーブルにママがやってくる。
「ユウコちゃん。ちょっと」
「はい」
私はグラスを持って旭川に向ける。
「ごめんなさい。すぐに戻るので。とりあえず、ごちそうさまです」
旭川はあからさまにがっかりした顔でグラスを手に取る。ふたつのグラスを重ねてカチンと鳴らし、私は席を立った。
次についたテーブルは新規の客だった。なんのことない普通の中年男だ。この店には腐る程やってくる。
おしぼりを持ってきたママと新人の女の子も席につく。
「ユウコちゃん。こちら山岡さんと中島さん。お二人共大学で教授をなさってるんですって」
山岡という男はいやらしい顔をして私の方を見る。
「可愛い子だねぇ。いくつ?」にやりと笑う。
「24です」
楽な客のようだ。
黙って自慢話を聞いていれば満足するタイプだ。
私は山岡の隣に座る。
山岡はぴったりと私に擦り寄る。
「あ。もしかして、もうどこかで飲んでいらしたの?」
聞くと山岡はそれを無視して私の腰に手をやる。
「いやぁー。ランヴィンのママは有名だよ。綺麗だって」
山岡はピースを吸いながら、ウイスキーのロックを飲む。
「いやぁねぇ。山岡さんたらお上手」
ママと私と新人は水割りを持って山岡と中島のグラスに重ねる。
始まる自慢話。武勇伝。この時程幸せそうな男は居ない。
男達は私がその話に憧れを抱くと思っている。
だから私はさも尊敬したような目で男を見つめる。まるでこの汚い男に抱かれたくて仕方がないかのように。
自分は女優になれそうな気がする。
19歳の新人は、胸や腰を触る中島の手を上手く払いのけようと必死だ。
私にもあんな頃があった、と懐かしくなる。
「今日はほんとびっくりしたな」
秀治の煙草がジャスミンの煙に混ざる。
私は黙っている。
旭川。あの男。信じられない。
「あいつ、詩織のこと本気で好きなんじゃないの?」
私はキッチンに立つ。
IHのボタンを押して湯を沸かす。
「…やめてよ」
新規の山岡と中島は怒って帰るし…今日は本当に最悪だ。
「店の外に連れ出してからもさぁ、あいつしばらく落ち着かなくて。なんかごにょごにょ言ってんの。困ったよ全く」
あの男のせいで。山岡は私の客になるはずだったのに。
「…秀治。コーヒー飲む?」
「うん」
カフェオレとコーヒーを作って居間に戻る。
「あの男。ねちっこい客みたいだな。なんか前にも似たようなやつ居たよな。もう来なくなったけど。でも、そいつよりうざそう」
秀治は煙草を片手にコーヒーをすする。
「…今日は疲れちゃった。ママもあの後機嫌悪くなっちゃったし」
私はため息をついてカフェオレを口に含む。
「詩織ってさぁ。なんかねちっこいやつが付きやすいよな」
秀治は口から煙を出しながら短くなった煙草を灰皿に押しつける。
「…ん」
私もロゼに火をつける。
煙草を吸うと苛立った気持ちも少し落ち着く。
「あいつブラックリストに乗るな」
「…さぁ」
やってしまった。
「旭川さん。いくつですかぁ?」
ギャルみたいなホステスの、語尾を伸ばす独特の喋り方が気にくわない。
「24」
「えー。じゃぁユウコさんとタメなんですねぇ」
リスみたいで可愛い顔をしているが、口がだらんと開いていてなんか下品な感じで嫌悪感が沸く。
「ユウコちゃん。いつ帰ってくる?」
ひとくちしか飲んでいない僕のグラスの氷は溶けて、縁から酒があふれかけている。
この女も、作り変えるぐらいの気をきかせればいいのに。
「分かんないですよぉ」
遠くのテーブルにユウコが見える。
ユウコは汚いおやじに腰を抱かれている。
その笑顔の中に寂しさと悲しみが見える気がして切ない。
「ねぇー。旭川さぁん」
「はい?」
「そんなユウコさんの方ばっかり見てないで、こっちはこっちで楽しくやりましょうよぉ」
女は僕の腕に抱きつく。
つい数時間前にユウコにも同じことをされたのに。こうも違うのは何故か。
なんだか汚い気がして、そっと離れる。女はひるむ様子も見せず、
「ねぇ。ミキ、ビール飲みたいんだけどぉ。いい?」
と首をかしげる。
ミキ?
あぁ。この女の名前か。
「…はぁ。いいよ、なんでも」
「やった。じゃぁグレープフルーツで割ったやつにする。秀治くーん」
女は手を上げてボーイを呼ぶ。
あの男前のボーイがすぐにやってくる。ボーイは僕に向かって微笑んだ。にくらしい程恰好いい。白くてぱりっとしたカッターシャツに、タイトな黒いズボン。すらっと足が長い。
僕は負けじと愛想よく微笑む。
ユウコの方に目をやると、相変わらずおやじに触られている。見たくないのに目が離せない。
ミキという女はぷかぷかと煙草を吸いだした。
「旭川さんってぇ。無口っていうかクール?」
ミキの言葉を無視して僕はユウコの様子を凝視している。
2.0の視力が恨めしい。おやじの酒臭い息がユウコの肌にかかっているかと思うと耐えられない。
おやじは背中の開いたドレスを着ているユウコをここぞとばかりに撫でている。
ユウコの滑らかな白い肌に、毛むくじゃらの太い指が走る。
胃がむかむかしてくる。
あれは美味しそうにパスタを食べていたユウコの笑顔じゃない。
ユウコの心が泣いている。
僕の目に涙が浮かんで、薄暗いオレンジ色の照明が滲む。シャンデリアの光が、まだらな虹色に輝く。
目を擦って、グラスを持ち一気に飲み干す。
「あれぇー。いい飲みっぷりじゃないですかぁ。もっといきましょう」
おやじがユウコの頬にキスをする。
ちょっとやり過ぎじゃないか。
ユウコの美しい頬におやじの唾液が…。
おやじはそのまま汚い指を、ユウコの胸に持っていく。ドレスの胸元の隙間から親父の指が滑り込む…。
全身の血液が逆流して、脳が熱くなった。
気付いたら、ボーイに腕を掴まれて出口に向かって店の中を歩いていた。二の腕の肉が食い込んで痛い。
そのまま外に出る。
「お客様。困ります」
あのボーイだ。
鋭い目つきで僕を見下ろしている。
なんでこいつ、こんなに背が高いんだ。なんかカッターシャツからいい匂いがするし。男のくせに香水なんかつけやがって。
「お代はよろしいので、今日のところはお帰り下さい。申し訳ありませんが」
急に手を離す。その振動でよろける。
ボーイはそのまま店の中に戻っていく。
僕は寒空の下にひとり、取り残された。
「あいつ。よくもまたのこのこやって来れたよな」
太陽に照らされた秀治はそう言って眩しそうに目を細める。
ふわふわの毛先が、日の光に金色。
「私も驚いた。普通に居るんだもの」
昨晩、旭川は何事も無かったかのように店に来た。
悪びれるどころか、むしろヒーロー気取りだった。私を救ったとでも思っているのだろうか。
「なんか、ママがメールしたらしいよ」
「…知ってる。私はフォローなんてする必要ないって思ったんだけど」
私と秀治は昼間の公園を散歩している。こうやってたまにするピクニックごっこが、二人共大好きなのだ。わざわざ時間を決めて、広くてお気に入りのこの公園で待ち合わせる。
ローラーブレードを履いて滑っている親子やスケボーで飛び上がって技を競い合う若者が、日曜の公園らしい雰囲気をかもしだして趣がある。バスケットを持つ秀治。私が作ったサンドイッチにはトマトとレタスがたっぷり。
「この辺に座ろ」
秀治が子供みたいにはしゃぐ。
日光で温かくなった芝生の上に腰を下ろす。
暖かい。体全身で光の暖かみを吸収している気分。
「ま、もう仕事の話はやめよっか。こんなあったかいし。今年冬来んのかな?あ。詩織。俺お腹空いた。食っていい?」
「うん。私も食べたい」
バスケットを開けた秀治は
「うまそー」と目を輝かせる。
「昨日まで寒かったのにね。また暖かくなったわね」
サンドイッチをくわえた秀治が私にも差し出す。
「ありがと」
トマトが食パンの縁を赤く染めている。
「ちゃんとハムとツナも作ったから。食べてね」
秀治は口いっぱいに頬張って、うんうんと頷く。
微笑ましい。
「ん。あー。うめー。なぁ。詩織。靴脱いでみ。絶対気持ちいいよ」
秀治は靴下を脱いで、足の裏で芝生を撫ではじめる。
私も同じようにする。
温かくてこそばゆい。
足の裏から、緑の優しいエネルギーが入り込んでくる気がする。
「ほんとだね」
私はそのまま寝転ぶ。
やっぱりピクニックはジーンズに限る。
「あー。可愛い」
秀治がつぶやく。
いつものように私のことを言っているのかと思ったら、秀治は遠くに目を向けていた。
「あ。ほんと。可愛い」
小さな女の子。3歳ぐらいの。こっちに走ってくる。小さな靴。お腹が出っぱっていて。丸くて可愛い。
「俺も早く子供ほしーなー」
秀治が私の髪を撫でる。
「詩織に似たら、すげー可愛いだろうな」
同じようなことを考えながら目をつむる。
瞼を透かして太陽が眩しい。
「あっ!おい!詩織!」
突然、秀治の焦った声。
「え、何?」
思わず起き上がる。
「あれ。旭川じゃね?」
「…え」
見ると100メートルほど向こうに、猫背で歩く旭川の姿があった。汚いジャージを着て、コンビニかスーパーのナイロン袋を提げている。
「やだ。気付かれないかしら」
今にも旭川がこちらを向く気がする。
秀治と一緒に居るところがばれたら、ややこしくなる。
「…下手に動かずにじっとしてよう。あ。寝転んでよっか」
秀治はドサッと背中から落ちる。
私も再び寝転ぶ。
ドキドキする。
万引きをしている小学生みたいな気持ち。
十分程経っただろうか。
私達が起き上がった時、旭川の姿はもうどこにも無かった。
「…あいつ。この辺に住んでんのかな?」
秀治は気味悪げにつぶやく。
「知らない」
せっかくの気分が台無しだ。
「なんか幽霊みたいなやつだな」
血みたいに真っ赤でドロドロしたレッドアイを飲み干す男。
なかなか雰囲気のある大人の男だ。
まれに居る汚くない客。
「今日は午前から大きな手術をしてね。まだ子供だったよ。心室中隔欠損でね。チアノーゼが出て真っ黒な顔をしてるんだ。…痛々しくて。絶対治してやらなきゃと思ったよ」
医学のことは何も分からない私だが、さも全てを理解しているかのように相づちを打つ。
「それで…どうなったんですか?」
「成功したよ。だから、そのお祝いでユウコのところに飲みに来たのさ」
私はボーイのナオキに、レッドアイのおかわりを頼む。
今日は秀治は休みだ。
「本当に?嬉しいわ。でも、奥さんのところに帰らなくてもいいの?」
男は誤魔化すように笑って、ナオキから真っ赤なグラスを受け取る。
私ならレッドアイが好きな医者なんかに体を切られたくない。
ふと視線を感じた。
旭川だ。
最近毎日のように来る。ボトルが空かないからさほど金を落としてはいないのだと思うが。
旭川は二つはさんで向こうのテーブルに、ミキと座っている。最近、私が忙しい時にはミキが旭川につく。このままミキに乗り換えてくれたらいいのに。そう思ったが、旭川の粘り気のある目を見て、そう上手くはいかないと悟る。
「あ。旭川さぁん」
ミキが耳につく声のトーンで囁く。
「…何?」
あまり親しげにしないでほしい。
ユウコに勘違いされたら困る。
「知ってますぅ?」
くるくるの金髪をいじりながらミキは上目使い。
「何を?」
「今ユウコさんと一緒に居る人。お医者さんなんだってぇ。すごいですよねぇ」
ユウコの隣にいる男は、ダンディな感じでオーラがある。まだ30代後半ぐらいだろうか。
ユウコは今日は黒のシックなロングドレスを着ている。黒が白い肌をいっそう引き立てている。
大人っぽいユウコがやけにその男とマッチしている気がして、激しく嫉妬する。
まぁ。なんにしてもこの間のおやじよりはましだ。全然べたべたしてないし。そう思って心を落ち着かせる。
「それでねぇー。あの人ね、もう一年も前からユウコさんのお客なんだってぇ」
この女は。
一体なんで僕にそんな情報を与えるのだろう。
ホステスとしてどうこう以前に、本当に馬鹿なんじゃないのか。
「…へぇ」
僕は相変わらず縁から溢れそうな酒を眺める。
…一年か。
僕なんてランヴィンに来てまだ半年も経っていない。
おまけに。…近頃ユウコは忙しくて、なかなか長く一緒に居られない。胸が寂しく焦がれて、苦しい。
いや、実際の僕はユウコを遠くから眺めるだけで十分に満足している。毎晩ユウコは変わらず輝いていて僕の想いは募る。大きくなる一方の気持ちは自分でも収拾がつかない。ユウコは僕の心の宝石。
「でもぉー。一年もお客繋ぎとめとくなんてぇ。一体ユウコさんどんな手使ってるんだろぉー」
ギクリとする。
「…何それ」
「別にぃー」
ミキはグラスに入ったビールを飲み干して煙草に火を付ける。「…なんか…いかがわしいことでも…その…してるってこと?」
僕は恐る恐るミキを見つめる。バチバチにマスカラのついた睫が、ごわごわしてしつこい。
「さぁねぇー。でもそんなのホステスなんてみんなしてることですよぉー」
僕は思わず想像する。
高級なホテルでバスローブを脱がされるユウコ。
嫌だ!
やめよう。こんな想像。ユウコに限ってそんなことあるはずがない。ユウコは処女を守らなければならないのだ。
溢れそうなグラスを口に持っていく。一気に飲み干す。
相当薄くなっているはずの麦焼酎が、妙に喉を熱くする。
「旭川さんって、なんの前触れもなく一気飲みしますよねぇー。コールぐらいさせて下さいよぉー」
医者は僕と違ってかなり上等なスーツを着ている。どこかのブランドだろう。19800円のスーツと比べるのも罰当たりな気がする。
情けない。
「かっこいいですよねぇー。一条さん。ダンディだしぃー」
「…そうだね」
ミキが僕の酒を作るのを見るのが久しぶりだ。
「でもぉー。ミキは旭川さんの方がいいなぁー。親しみやすいってゆうかぁー」
別にミキに誉められても意味がない。
「…ありがと」
颯爽とした歩き方でママがこちらにやって来る。
「旭川さん。いつもありがとうございます。そろそろ閉店なの」
「あ。はい」
ママは小さな銀の器に勘定の紙をはさんで持ってくる。紙に書いてある値段にも、免疫ができてもう驚かない。
「カードで」
なんとなく気になって仕方がなかった。
店から出て人混みに紛れる。
あの医者。
閉店間際に来た。
それがなんとなく釈然としない。
二十分程経っただろうか。
店からユウコと医者が出てきた。
手を繋いでいる。
ユウコのあの細い指が医者の手のひらに収まっている。
嫌だ。やめろ。手を離せ。
僕は高まる鼓動を押さえきれないまま二人の後をつけた。
二人はどんどん人混みを離れていく。
どこに行くんだ。
そっちは…。
ユウコの後ろ姿がピンクや紫の光に照らされて美しいシルエットを作る。
こんないかがわしい場所でも、ユウコは美しい。
僕は祈った。心から。
入るな。
入ってはいけない。
ユウコ。
やめてくれ。
だけど、僕の願いはむなしく崩れ去った。
ユウコと医者は安っぽいラブホテルに入っていったのだ。
絶望で目の前が真っ暗になる。
どれぐらいつっ立ってぼんやりしていたのだろう。
目の前がピンク色に眩しく光る。
一気に感情の波が吹き出てくる。
悔しくて。切なくて。寂しくて。
涙が溢れ出て頬を伝う。
ユウコ。
嘘だろう。
嘘だと言ってくれ。
パスタを食べていたあの時の笑顔で、嘘だと言ってくれ…
ユウコはそんな女じゃない。
花の香りがして、肌がすべすべして真っ白で。
ユウコは何にも汚されないのでは無かったのか…
あんな店で働いていても心が誰より純粋で。上品で。
ユウコ。
僕は地面に手をついてうなだれた。
「旭川さん?」
はっとした。
ユウコ?
「何してるのぉー?こんなとこでぇ」
だらしない口をしたミキが立っていた。
「すごく美味しそう」
秀治が買って来たブリュレとワッフルを見て、私は甘いため息をつく。
「だろ。たまにはこういうの買ってきてみようと思って」
秀治は私の反応に満足げだ。
「今コーヒー入れるね」
「あ。詩織」
秀治は立ち上げりかけた私を呼び止める。
「知ってる?ミキさぁ。旭川とやったらしいよ」
私は目を丸くする。
「ほんとに?」
「うん。だってミキが言ったんだもん」
私はほっと胸を撫で下ろす。
私は滅多な事では客を疎ましく思ったりしない。だけど、旭川はちょっと違う。だって毎晩飽きもせずにじっと私を観察しているのだから。あの、べたついた張り付くような目で。やりにくいったらない。
でも良かった。
これで熱の対象がミキに移るだろう。
「なんかぁー。やったらお金くれるかと思ってぇー。でもくれなかったしぃー」
秀治がミキの声真似をする。
「ふふふ」
思わず吹き出す。
バカなミキ。何も分かってないのだ。
あぁ。ミキの馬鹿さに感謝しなければ。
「そんなことより。早く食べましょうよ」
私はキッチンに立つ。
「うん。あ。今日夕飯食べてっていい?」
「いいわよ。何が食べたい?」
ミネラルウォーターを焼かんに入れてIHのボタンをおす。
「キムチ鍋!」
何故やめられないんだ。
ユウコはやすやすと男に体を売るような女なんだ。
あの医者とユウコが裸で抱き合っているシーンが何度も脳裏をよぎる。
ユウコは汚い女だったんだ。平気で嘘をつく醜気に満ちた心の持ち主なんだ。
だけど…。
どうして、相も変わらずにこうやって眺めてしまうんだろう。
ユウコは今日も輝いている。
スパンコールがたくさんついたピンクのドレスに身をつつんで髪をアップにしている。
鎖骨と肩の骨が美しい。
僕の隣には当然のようにミキが座っていて、相変わらずビールを楽しんでいる。
ミキと寝た。
やけくそだった。
ユウコはもう知っているだろうか。
知ればいい。
思い知ればいいんだ。自分がどんなことをしたか。どれだけ僕を傷つけたか。どんなに僕が苦しんだか。
「なんかぁー。旭川さん、ちょっと痩せた系ー?」
ピスタチオをかじるミキは本当にリスみたいだ。
この女。
一回寝たからって勘違いするなよ。別にお前なんてどうでもいいんだよ。
「…そう」
「ははっ。それ以上痩せてどうするんですかぁー」
あっ。
…そうだ。
このさい、ストーキングしてやろうか。
それで…。
…それでどうするって言うんだ。
そんなことしたってユウコは自分の愚かさには気付かないだろう。ユウコの心の醜さが浄化されるわけじゃない。
あぁ。なんで僕の頭はユウコばかりなんだ。一日中休むことなくユウコの事ばかり考えている。
もうユウコのことなど忘れたい…。
あいつは、綺麗なのは見た目だけだ。
自分にはもっと心優しい女の方が性に合ってる。
別の女を探せばいい。…だけど。
だけど、あれほどに魅力的で輝いている女が他にいるか?
「ちょっと!何!?」
外に出てお客を見送り、再び店に入ろうとした瞬間、秀治が私の手を掴んでトイレに連れ込んだ。
「おい。お前。また一条と寝たんだろ」
秀治の顔は怒りと悲しみに満ちている。
「…誰がそんなこと」
「ナオキに聞いた。お前と一条がアフター行ったって。お前ナオキに口止めしたんだろ。口止めしなきゃならないことしたんだろ!」
秀治は、それでも気付いたのか私の腕を離す。掴まれていたところがじんじんと痛む。
「…大きな声出さないで。営業中よ」
私は焦っていた。焦りを顔に出さないように、努めて穏やかに言う。
「ただ食事に行っただけよ。…前の事があるから…秀治きっと誤解すると思って、ナオキ君に頼んだの」
剥き出しになっている腕をさする。
「信じられないね。第一、一条とアフターに行くこと自体どうかしてるよ」
秀治は眉間を押さえている。自分を落ち着かせる時の癖だ。
「…ごめんなさい」
「もういい…しばらく距離を置こう」
「そんな…」
私が止めるのを無視して秀治はトイレを出ていった。
私はひとり残され、ため息をついた。煙草が吸えないことで余計に気分が優れなかった。
こんなに近くに住んでいたなんて…。
ユウコのマンションは高級そうな感じで、入口に綺麗な植木がアーチ状に植えられている。静脈センサー式のオートロックのようだ。
僕のアパートからユウコの家は歩いて二十分ぐらいの距離にあった。
意外だった。
だからあの時、あの駅から乗って来たのか。
ユウコは少し疲れた様子でマンションに入って行った。
それを見届けた後もしばらく僕はマンションの前につっ立っていた。
マンションは全体的に擦りガラスのようになっていて、中の、恐らく廊下になっている辺りを人が歩くと、こちらからぼんやり見える。
ユウコは八階建ての六階に住んでいるようだ。
ユウコの影が擦りガラスから消える頃には、僕は不思議な満足感を感じていた。
秀治がランヴィンを休み始めてから、もう二週間が経つ。
あれ以来一度も会っていない。
かなり怒っているようだ。
『距離を置く』という言葉程に面倒なものはない。何月何日までってちゃんと決めてくれたらいいのに。終わるわけでもない中途半端な状態。いっそ終わってくれた方が楽だ。
…秀治。早く機嫌を直して。
ピクニックごっこしましょうよ。
あぁ。あのふわふわした髪に触れたい。
秀治…。
「…ユウコちゃん」
はっと我に帰る。
「あ。ごめんなさい。ぼんやりして」
旭川につくのは久しぶりだった。
今日はミキが休みなのだ。
「…なんか…元気がないみたいだね」
相変わらず膝の上の手がせわしない。
「そんなことありませんよ」
旭川はミキと関係を持ってからも変わらず私に視線を送っていた。
毎日だ。
普通毎日クラブにくるだろうか。この男、そんなに金を持っているようには見えないが…。
私は思わずつきそうになったため息を飲み込む。近頃仕事に身が入らない。
「…ユウコちゃん。…知ってるかい?」
「はい?」
旭川はいつものように聞き取りにくい声でぼそぼそと喋る。
「ロゼワインってね…赤ワインと白ワインを混ぜたものだと思われがちだけど…違うんだよ…」
「へぇー。そうなんですか?」
それぐらい知っている。
「…ぶどうの皮に含まれる色素を…どれぐらい残すかで色が変わるんだよ…」
「へぇー。知らなかった」
焼酎のロックを飲むヨウコ。
元気がない。何故か。
もしかすると、僕がミキと寝たことを知ったのかもしれない。そう思うと少し胸が高鳴る。
今日のユウコは一段と綺麗だ。色が白いので、やはり黒いドレスが一番似合う。少しやつれた感があるが。そのせいで一層肌が抜けるように白くて、ふれるとすり抜けてしまうかのような透明感がある。
ユウコがマンションに入るのを見届けるのが僕の日課になった。毎日、閉店した店からユウコがでてくるのを待って後ろからこっそり付いていくのだ。
ユウコは店では吸わないくせに、帰り道はずっと煙草を吸っている。気にくわない。煙草なんて。花の香りが薄れてしまうじゃないか。
もっとユウコに幻滅したい。
ユウコという女の存在を、もっと薄汚れた醜いものだと思いたい。
ユウコは汚い女なのだ。ユウコの子宮は他の男の精子でいっぱいなのだ。想像するとおぞましくなる。
それでもユウコが道に捨てた吸い殻を拾って家に持ち帰る自分が居た。パールピンクに輝くその細いフィルターを、ついつい舐めてしまうのだ。ユウコの口紅がついたそれは、僕をひどく興奮させる。
目を疑った。
ユウコ。何故泣いているんだ。
マンションから10メートル手前。暗闇の中、街灯にぼんやり照らされたユウコの肩が震えている。鈴の音のような泣き声が聞こえる。両手で顔を覆っているのが分かる。ユウコがひどく小さく見えた。
僕は焦った。
ユウコ、今日はひどく落ち込んでいたし。きっと何か抱え切れないぐらい悲しいことがあったのだろう。やはりミキと僕の事を…。
大人ぶっていても、ユウコはか弱い女の子なのだ。誰がそれを分かってやれる?僕だけだ。
焦燥感が胸をカッと熱くする。後ろからそっと抱き締めてやりたい。
ユウコは最初驚くかもしれない。だけどすぐに僕の胸の温かみに安心し、その有り難みに気付くだろう。
僕にきつく抱きついて泣くだろう。花の香りが僕の胸に広がって。僕は壊れないようにそっとユウコの柔らかな肌に触れるのだ。
今夜だ。今こそ。全てが変わるぞ。
僕がユウコを浄化してやれる。醜くなったユウコの心を綺麗に、透明にしてやれる。
そうだ。
ロゼワインを買ってこよう。ユウコのマンションで、ユウコの部屋で一緒に飲もう。
待っていてくれ。ユウコ。
立ち止まって泣いているユウコを置いて、後ろ髪を引かれる想いでコンビニに向かって勢いよく僕は走り出した。
インターホンがなる。
私はひどい顔をしていた。泣き腫らした目で。
玄関を開けると、同じような顔をした秀治が居た。
「…ごめんなさい」
私は泣きじゃくりながら言った。恰好悪いとかみっともないとか、もうどうでも良かった。
秀治は私を痛いぐらいにきつく抱き締めて、言葉を交わすことも忘れて私達はベッドに倒れ込んだ。
オートロックのせいでマンションに入るのに手間取った。
他の住人がロックを解除して、自動ドアが開いた瞬間なんとか滑り込むことができた。住人は僕を怪しんでいたが、さして何か問い詰めることもせずエレベーターに乗っていった。
僕は住人が乗ったエレベーターが閉まってから、別のエレベーターで六階に向かう。
マンションの中は丁寧に掃除が行き届いていて、暖房がかかっているのか暖かい。
六階に降りて、ユウコの部屋を探す。いつも外から見ていた感じでは、ユウコの部屋は廊下の突き当たりにあると思われる。
僕は期待でいっぱいの胸を落ち着かせるために、ゆっくり深呼吸した。思わず顔がほころぶ。喜ぶユウコの顔が目に浮かぶ。ユウコは一緒にイタリア料理を食べた時のあの笑顔で、きっとロゼワインを口にする。
一番突き当たりの部屋まで来た。
緊張しながらノックする。
返事がない。
もう一度ノックする。
しばらく待ったがやはり返事がない。
部屋を間違えたか?
そう思ったが、すぐに思い直した。
この部屋の中からかすかにユウコの香りがする。花の香りが。
やはり間違っていない。
ワインの入ったナイロン袋を提げて、僕は心配になった。
ユウコに何かあったのではないか。
嫌な予感がする。
胸がざわつく。
ドアノブに手をかける。
鍵がかかっていないようで、ドアはゆっくり開いた。
ドキッとした。玄関に男物の靴が置いてある。
まさか。
あの医者の顔が浮かぶ。
僕は音を立てるのも気にせず中に入った。
視界にキッチンと居間が現れる。誰も居ない。三角の小さな物が煙を出していて、部屋にはユウコの香りが充満している。
僕はゆっくり歩いて、居間に隣接した寝室であろうドアを恐る恐る開けた。瞬間。
「きゃぁああ」
ユウコの悲鳴が響く。
「なんだお前!」
男が叫ぶ。
ベッドに裸の男とユウコが寝ていた。
愕然とする。
ユウコ…。
ナイロン袋がカサカサ震える。
この男は。
…ランヴィンのボーイ。
ボーイはユウコを守るようにして抱いている。
ユウコの悲鳴が頭にこだまする。
「…あ」
僕の思考回路が断絶した。
自分の体が脳の意識を越えて勝手に意思を持ち、目に映る全てがスローモーションとなった。
我に返って気付いた時にはロゼワインの瓶が割れていて、頭を押さえて床にうずくまる男がいた。床に溢れたロゼワイン。
「…ユウコ?」
ユウコは恐怖に脅えた目で僕を見ている。
あられもない姿。
「…ユウコ…う…嘘だろ…これは…」
「出て行って!!!」
聞いたことのないユウコの荒々しい声。脳みそをつんざくような。耳がキーンと鳴る。
僕はショックで倒れそうだった。
「出て行って!!!早く!!!」
ユウコは半狂乱で叫ぶ。美しい顔が、僕を見ている。嫌悪と恐怖と怒りに歪んだ、美しい、白い人形のような顔。
僕の脳は冷凍庫みたいに冷えて、息をするのを忘れた。心臓は驚くほどゆっくり鼓動していて、半分割れた瓶を持つ手が冷たい。
今、不思議に冷静でしごく穏やかな心だった。
「ユウコ…愛してる」
ユウコの透き通る肌。
手に持った瓶をその胸に突き立てた。鈍い振動が手のひらに響く。尖った瓶は驚くほどすんなりユウコの胸に吸い込まれた。
あががっという声が聞こえる。
胸から瓶を引き抜くと、空気が抜けるような音と共に真っ赤な血があふれた。
肺に穴を開けたようだ。
「ユウコ」
ユウコが苦悶の表情で宙を見るように黒目を上に向けている。何が起こったのか分かっていないようだ。その動きは、やや慌てたようにも見える。
白い胸が綺麗な鮮血に染まる。溢れる血は気泡状で、ぶくぶくと出てくる。
「ユウコ…」
はっとした。
思わず一歩後退る。
空気を欲するユウコの顔は、別人のように醜かった。
眼球が飛び出るぐらいに目を見開いて、口を大きく開け、鼻の穴が開いている。
肌の色がどんどんどす黒くなる。
ユウコ?
これはユウコか?
自分が愛した女は、こんなに醜かったのか?
「…詩織」
這うように男がベッドに手をかける。
詩織?
詩織って誰だ?
「詩織。詩織。」
意識も朦朧とした男は泣きながら、絞りだすような声で言う。
詩織?
これはユウコじゃないのか?
白いシーツが真っ赤に染まっている。
裸の女は、徐々に動かなくなった。
泣き叫ぶ男の声を背に、僕はゆっくり部屋を出て行った。
マンションの外に出ると空は僅かに白んでいて、風はひんやり肌を撫でた。
遠くにネオン街の明かりが見える。夜の闇が消えるのを惜しんでいるかのような光。華やかな色。ユウコはもう家に帰っただろうか。
明日もランヴィンに行かなければ。
夜が来るのが待ちどおしい。
ユウコが僕を待っている。
最後まで読んで頂いてありがとうございました。感想を頂けたら嬉しいです。