不純物の咆哮
右腕が、内側から爆ぜた。
(……警告。魔力バイパス、完全崩壊。神経系への過負荷、計測不能。個体維持限界を突破――)
視界を埋め尽くす青白い数式が、真っ赤な警告色に染まり、激しく明滅する。脳を直接、熱した鉄串でかき回されているような激痛。俺は、自分自身の意志で、左手の中にある「人工心臓」を握り潰した。
ハンスが五日かけて俺の腕に施した、あの精密な縫合。命を繋ぎ止めるための繊細な魔力の糸。それを、俺は自ら逆流させた魔力で、ズタズタに引き裂いた。
「――が、あ、あああああああッ!!」
喉が焼けるほどの絶叫が漏れる。
だが、その苦痛と引き換えに、俺の右腕からは「この世の物ではない何か」が溢れ出していた。
それは、ハンスが言っていた『揺らぎ』の極致。
定義を拒絶し、構造を否定し、ただそこに在るだけで周囲の物理法則を泥のように溶かしていく――真っ黒な「構造の亀裂」だ。
「……何だと? 私の『法』を、物理的に押し戻しているというのか?」
イシドールの冷徹な声音に、初めて明らかな動揺が混じった。
彼が掲げる白金の杖から放たれる『絶対静寂』。世界を静止した標本へと変えるその光が、俺の右腕から噴き出す黒い霧に触れた瞬間、パリンと乾いた音を立てて砕け散っていく。
(……解析。……いや、解析など不要だ。今の俺は、ただの『エラー』そのものだ)
俺の視界からは、もはやイシドールの姿さえも消えかかっていた。
見えるのは、彼の周囲に張り巡らされた「完璧すぎる魔法の数式」と、それに対して俺が叩きつけている「意味不明な文字列」の衝突だけだ。
「……不浄。あまりにも不浄だ、アルド・ヴァイス! 秩序なき力、定義なき存在! 貴様のようなバグが、陛下の望む美しい庭園を汚すことは許されん!」
イシドールが激昂し、杖を地面に叩きつけた。
「『白金律・最終楽章――天地無窮の静域』!」
瞬間、廃屋の周囲数百メートルが、完全に「白」一色に染まった。
雪も、木々も、空さえもが、その色彩を奪われ、一つの巨大な「静止画」へと固定される。俺の足元の地面が、石のように硬く、冷たく、変化を拒む絶対の『法』に支配されていく。
動けない。指先一つ、瞬き一つさえも、世界の定義によって「禁止」される。
魔力が、血液が、思考が、氷の中に閉じ込められたように固まっていく。
(……だめだ。……圧倒的すぎる。これが、帝国の、至宝……)
意識が、白銀の闇に飲み込まれそうになったその時。
背後から、温かく、そしてひどく不器用な魔力の奔流が俺の背中に流れ込んできた。
「……諦めるな、アルド。……『法』が世界を縛るなら、君は『痛み』でその鎖を焼き切れ」
ハンスの声だ。
彼は俺の背中に手を当て、自らの生命力を削り取るような無茶な魔力供給を行っていた。
さらに、隣にはエレナが、震える手でアイリスを抱き寄せながら、必死に初歩的な『治癒魔法』を俺の右腕に重ねている。
「お兄ちゃん……! 行かないで、お兄ちゃん……!」
アイリスの叫びが、凍りついた俺の鼓動を、無理やり打ち鳴らした。
(……そうだ。俺は、まだ……。壊してしまったものを、繋ぎ直すことさえできていない!)
俺は、意識の奥底にある「設計図」を、自らの血で塗りつぶした。
完璧な構造などいらない。正しい数式など不要だ。
ただ、俺を、俺たちを、ここに存在させろ。
「――全解体、および再定義! 対象……『この場所のすべて』!」
俺の右腕から、黒い稲妻が奔った。
それはハンスの魔力を燃料にし、アイリスの願いを指向性とし、エレナの祈りを触媒にして、イシドールの『白の世界』を内側から食い破った。
ドォォォォォォォォン!!
廃屋の石壁が砕け散り、吹雪が爆風となって吹き荒れる。
白金の光と、俺の黒いノイズが衝突し、空間そのものが悲鳴を上げて軋んだ。
「……ぐ、おぉっ……!? バカな、私の術式が……『腐食』しているだと!?」
イシドールが、杖を構えたまま数歩後退した。
彼の美しい白い軍服の袖が、俺の放ったノイズに触れ、ボロボロの灰となって崩れ落ちていく。
完璧だった彼の定義に、俺という「不純物」が決定的な穴を開けたのだ。
「……はあ、はあ、はあ……っ」
俺は地面に手をつき、肺の中の空気をすべて吐き出すように喘いだ。
右腕は、もう感覚がない。ただ、焼けつくような熱さだけが、そこにあったはずの神経の代わりに存在を主張している。
「……ここまでだ、イシドール。……これ以上やれば、この一帯の『理』が完全に崩壊し、君の愛する帝国領さえもがバグの海に沈むぞ」
ハンスが、俺の前に立ちはだかった。
彼の顔は幽霊のように青白い。だが、その瞳に宿る意志の強さは、帝国の至宝をさえも気圧していた。
「……ハンス・フォン・ベルガー。……そして、アルド・ヴァイス」
イシドールは、砕けかけた杖を握り締め、屈辱に震える声で言った。
「……今日のところは、この汚らわしいノイズに免じて引いてやる。……だが、思い知るがいい。神の筆が一度動き出せば、貴様のような小さなシミなど、一瞬で塗りつぶされるということをな」
イシドールは、一陣の白光とともに、吹雪の向こう側へと消え去った。
同時に、彼が支配していた「静止」が解け、世界に再び音と色が戻ってくる。
「……終わった……のか?」
俺は、震える声で呟いた。
だが、返事をするはずのハンスの身体が、ゆっくりと、崩れるように膝をついた。
「ハンス先生!」
エレナが悲鳴を上げ、彼に駆け寄る。
俺も這いずるようにして彼に近づいた。
ハンスの右手は、俺を助けるために過剰な魔力を通したせいで、黒く炭化していた。
「……馬鹿な真似を……。あんた、医者のくせに、自分の腕を……」
「……ふん。繋ぐための手が動かなくなれば……今度は、口で教えるだけだ」
ハンスは、苦痛に顔を歪めながらも、自嘲気味に笑った。
「アルド……。見たか。……完璧な法も、君の『生への執念』という名の不純物には勝てなかった。……だが、あいつの言う通りだ。……これは、まだ始まりに過ぎない」
空を見上げると、夜の帷が降り始めていた。
だが、その暗闇の向こうには、かつてないほど巨大で、冷酷な「神の視線」が、俺たちを見下ろしているのを感じた。
アイリスを救うために。ハンスの犠牲に応えるために。
俺は、この焼け爛れた腕で、さらなる絶望の設計図を描き続けなければならない。
(……解析。……次の目的地、特定。……商業連合、自由都市リコルヌ)
俺は、意識を失ったハンスを担ぎ上げるエレナを手伝い、崩れ落ちた廃屋の残骸を後にした。
雪の上に残る足跡は、赤く染まっていた。
逃亡者としての俺の物語は、一人の恩人を壊し、一人の少女を歪めながら、さらなる泥沼へと突き進んでいくのであった。




