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数式の欠落

夜明け前の寒気は、肺の最深部まで凍てつかせるほど鋭かった。

廃屋の外は、昨晩までの猛吹雪が嘘のように凪いでいる。だが、その静寂はかえって不気味だった。世界から音が消え、ただ「白」という色彩だけが暴力的に空間を支配している。


俺の左手の中では、昨夜組み上げた銀色の人工心臓が、いまだにトクン、トクンと規則的な鼓動を刻み続けていた。


(……解析。魔力供給、安定。拍動周期、〇・八秒。……だが、維持コストが跳ね上がっている)


この心臓を動かすために、俺の魔力は常に一定の「揺らぎ」を生成し続けなければならない。少しでも意識を逸らせば、完璧すぎる設計図が「静止」を選択し、鼓動は止まる。そして鼓動が止まれば、ハンスの手によって繋ぎ止められた俺の右腕の神経は、罰として焼き切られる。


「……準備はいいか。今日から、君の『解析』を実戦の速度まで引き上げる」


防寒具を纏ったハンスが、雪を踏みしめて歩み寄ってきた。彼の背後には、同じく厚着をしたエレナが、どこか心配そうな、それでいて覚悟を決めたような瞳で俺を見つめている。


「……この心臓を動かしながら戦えと言うのか。冗談だろう」


俺は、鈍く拍動する金属塊を掲げて見せた。

これに魔力を割いている間、俺の演算能力の三割は常に占有されている。その状態で、イシドールのような化け物と立ち回るなど、自殺行為に等しい。


「冗談に見えるか? 帝国魔導師団の魔法は、君の『静止した解析』を最も得意な獲物とする。……エレナ、始めろ」


ハンスの合図とともに、エレナが俺から十歩ほど距離を取った。

彼女が右手をかざすと、その周囲の大気が不自然に渦を巻き始める。


「いくよ、アルドさん。手加減は……ハンス先生に止められてるから、できないよ!」


(……解析! 術式展開、風属性。……速い!?)


エレナの放ったのは、初歩的な『風刃』だ。

だが、その速度と精度は、俺がこれまで見てきたどの魔法使いよりも研ぎ澄まされていた。魔法とは、本来、長い詠唱と複雑な魔法陣を必要とする儀式だ。だが、彼女の放つそれは、極限まで無駄を削ぎ落とした「弾丸」だった。


「――っ!」


俺は咄嗟に身を翻した。

頬のすぐ横を、不可視の刃が通り過ぎ、背後の大樹の幹を深く切り裂く。

回避に意識を割いた瞬間、左手の心臓の鼓動が乱れた。


――ドク、ドク、ドクドクッ!


不規則なリズムが腕の神経を逆流し、右腕に火を押し付けられたような激痛が走る。


「……が、あ……ッ!」


「鼓動を乱すな! 解析を止めるな! 敵の術式を『文字』として読むな、その『理』を食らえ!」


ハンスの怒号が飛ぶ。

エレナが次々と風の刃を放ってくる。三発、四発、五発。

俺は『解析』を回し続ける。視界を埋め尽くす青白い数式。


(……読み取れる。彼女の魔法には、明確な『起点』と『終点』がある。数式の構造……六層構成。……ここだ!)


俺は、飛来する風刃の「構造の結び目」を見抜き、指先から最小限の魔力を放った。

『解体』。

物質をバラバラにするのではない。魔法という現象を維持している「定義」を、数式の一文字を書き換えるようにして崩壊させる。


パリン、とガラスが割れるような音がして、風の刃が俺の鼻先でただの微風に還った。


「……できた。魔法の、解体……」


「甘い。それは『対応』しただけに過ぎん」


ハンスの声とともに、今度は彼自身が動いた。

ハンスは腰のポーチから、一握りの「灰」を雪の上に撒いた。

その瞬間、俺の足元の雪が、意志を持った蛇のように鎌首をもたげ、俺の四肢に絡みついた。


(……!? 解析……解析不能! 魔法じゃない……物理干渉か!?)


「これは魔法ではない。ただの『薬学的反応』だ。君が魔法という数式に目を奪われている間に、現実は別の理で動いている」


雪の鎖が、俺の首を締め上げる。

心臓の鼓動が激しく乱れ、右腕の包帯から血が滲み出した。視界が点滅する。

死の恐怖が脳を支配しそうになる。


「……解析しろ、アルド。……世界は、君が思っているよりもずっと『不完全』だ。完璧な魔法に頼るな。目の前のドロドロとした、醜い法則を掴み取れ」


ハンスの瞳が、俺の意識の底にある「ボタン」を押し込んだ。

俺は、左手の人工心臓と、自分自身の心臓の鼓動を、無理やり同期させた。

機械と生身。構造と生命。

その境界線を、あえて『解析』で曖昧にする。


(……ああ、そうか。……全部、同じなんだ)


俺は、自分を縛り上げる雪の鎖の、その奥にある「水分と土の結合」を視た。

そこには魔法陣も数式もない。ただ、ハンスが撒いた薬によって強引に方向づけられた、物質の「叫び」があるだけだ。


「――『定義上書き』。……お前たちは、ただの雪に戻れ」


俺は言葉ではなく、意志の奔流奔流(ノイズ)を鎖に叩き込んだ。

ドォォン、という重い音とともに、雪の蛇は形を失い、ただの冷たい粉となって散った。

同時に、左手の人工心臓が、これまでで最も深く、重厚な鼓動を刻んだ。


「……はあ、はあ、はあ……っ」


俺は膝をつき、激しく喘いだ。

右腕の痛みは引かない。だが、その痛みさえも、今は自分の「存在」を定義するための確かなデータとして受け入れられている。


「……今の、魔法じゃない……。何をしたの、お兄さん」


エレナが、驚愕の表情で駆け寄ってくる。

ハンスは無言で、俺の拍動する左手を見つめていた。


「……構造の『隙間』に、自分の意志を流し込んだな。……合格だ。君は今、初めてこの世界の設計図を『汚した』」


ハンスの言葉には、微かな称賛と、それ以上の深い悲哀が混じっていた。


「……ハンス。あんたは、俺に何をさせたいんだ。……こんな、神の理を汚すような戦い方を覚えさせて」


「……君を『完成』させるためだ。……帝国が、そして世界が、君という『リセットボタン』を押しに来る前に。……君自身が、その筆を握れるようになるために」


ハンスは空を見上げた。

そこには、雲の切れ間から、帝国の「監視衛星」を思わせる、不気味に輝く星が一つ、こちらを見下ろしていた。


「……イシドールが戻ってくるまで、あと三日というところか。……アルド。……君は、アイリスを守るために、人間であることを捨てる覚悟はあるか?」


ハンスの問いに、俺は答えなかった。

ただ、左手の中で爆発しそうなほど強く脈打つ人工心臓を、さらに強く握りしめた。



視界からは少しずつ「色」が消えていく。

代わりに世界を構成する「線」が、より鮮明に、より残酷に、その牙を剥き出しにしていた。

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