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白金の法

吹き荒れる雪の絶叫が、吹き飛んだ扉の隙間から廃屋の中へと雪崩れ込んできた。

琥珀色の静寂は一瞬でかき消され、剥き出しの殺意が室内の温度を氷点下へと叩き落とす。


「……アイリス、動くな。エレナ、彼女を頼む」


俺はアイリスを背に庇い、一歩前へ出た。右腕の接合部は、激しい動悸とともに熱を帯びている。ハンスの手によって繋ぎ止められた神経が、過剰に流れ込む魔力に悲鳴を上げていた。


(……解析。深度五。対象:イシドール。……くそ、やはり読み取れない)


視界に走る青白い幾何学模様が、激しく火花を散らす。

目の前に立つ白い軍服の男――帝国の至宝イシドール。彼の周囲を漂う魔力は、俺がこれまで視てきたどの魔法使いとも違っていた。荒々しさや奔流のような勢いがない。代わりに、そこにあるのは冷徹なまでの「整列」だ。


「……不浄だな。その瞳、その力。世界の理を汚す、忌まわしきバグよ」


イシドールが白金の杖を静かに掲げた。

その動作一つで、室内の空気が「固定」される。物理的な凍結ではない。原子の振動そのものが、彼の意志という名の『法』によって禁じられているのだ。


(空間の凍結……いや、運動定数の書き換えか! 解析……解析しろ!)


脳が焼けるような熱を発する。

俺は左手を突き出し、魔力を瞬時に物質へと変換しようとした。だが、創り出そうとした「盾」の構造データが、具現化する直前で次々と霧散していく。


「無駄だ。私を前にして、勝手な『定義』など許されん。この空間における唯一の正解は、帝国の魔導法典が定めた美しき静止のみだ」


イシドールが杖を振るう。

瞬間、無数の白金の針が虚空に発生し、光の速度で俺の四肢を狙って放たれた。


「……あああああッ!」


俺は右腕を強引に振り上げた。

ハンスに言われた言葉を反芻する。――命とは揺らぎだ。固定された構造を創るな。常に壊れ、常に再生し続ける「未完成の状態」を維持しろ。


(構造定義、流動化! 確定させるな、揺らし続けろ!)


俺の指先から溢れ出した魔力が、形を持たない「濁流」となって空間を歪めた。

具現化しかけては崩れ、崩れては再構成される、物質とエネルギーの境界線。

イシドールの放った白金の針がその濁流に触れた瞬間、パキパキと音を立てて軌道が逸れ、あるいは中途半端な鉄屑へと姿を変えて床に転がった。


「……ほう。構造を確定させずに干渉を相殺したか。だが、それはただの崩壊だ。美しくない」


イシドールの冷徹な瞳に、わずかな不快感が宿る。

彼は杖を地面に突いた。

「『白金律・第三楽章――絶対静寂』」


視界から音が消えた。

いや、空気の振動そのものが「消去」されたのだ。

俺の『解析』回路が真っ白に塗りつぶされる。構造を読み取るための媒体である魔力の波が、完全に沈黙させられた。


(……見えない。定義が……奪われる……!)


身体が、内側から固まっていく感覚。

血流が止まり、心臓の鼓動が、誰かの手によって強引に押さえつけられたように鈍くなる。

絶望が、冷たい泥のように喉元までせり上がってきたその時。


「――そこまでにしておけ、イシドール。その術式は、私の家の床を汚しすぎる」


背後から、低く、しかし驚くほど響く声がした。

ハンスだ。

彼はいつの間にか部屋の隅に立っていた。手には武器ではなく、ただの使い古された「メス」と、琥珀色の液体が入った小さな薬瓶を一つ持っているだけだ。


「……その声、その不遜な立ち振る舞い。……やはり貴様か、ハンス・フォン・ベルガー」


イシドールの視線が、俺からハンスへと移った。

白金の杖から放たれていた圧倒的な圧力が、わずかに揺らぐ。


「帝国軍医総監の地位を捨て、あのような『実験』を拒んで逃げ出した裏切り者が、このような掃き溜めで何を育てているかと思えば……。まさか、その『バグの子供』を匿っているとはな」


(帝国軍医総監……? ハンス、あんた、そんな奴だったのか)


アルドは息を切らしながら、ハンスの背中を凝視した。

『解析』が、ようやくハンスの周囲のデータを拾い始める。

ハンスは無言のまま、手に持っていた薬瓶の蓋を開け、床にその液体を数滴垂らした。


ジ、と短い音がして、床から薄緑色の煙が立ち上がる。

その瞬間、俺の身体を縛り付けていた「絶対静寂」の縛鎖が、嘘のように解け、肺に冷たい空気が流れ込んできた。


「……中和剤か。私の構成術式を一瞬で解体するとは、相変わらず鼻につく男だ」


「君の魔法は理論が完璧すぎるんだよ、イシドール。完璧なものほど、一箇所の不純物に弱い。……この廃屋は、私が五年かけて『定義』をずらしてきた場所だ。君の白金律白金律(ルール)が、ここでは一割も機能しないことに気づかなかったか?」


ハンスの声には、怒りも恐怖もなかった。ただ、手術台に向かう外科医のような、淡々とした事実の指摘があるだけだった。


「……よかろう。今日のところは、この不浄な空気のせいで杖の精度が狂う。……だが、アルド・ヴァイス。そしてハンス」


イシドールは杖を引き、背を向けた。

その背後で、消えていた雪の咆哮が再び室内に戻ってくる。


「皇帝陛下は、その『筆』を求めておいでだ。たとえ世界の半分を削り取ってでもな。……逃げられると思うなよ。貴様たちの構造は、既に私の記憶に刻印された」


イシドールの姿が、吹雪の向こうへと消えていく。

その気配が完全に消失したことを確認した瞬間、俺は糸が切れたように膝をついた。


「……は、あ……はあ……っ」


右腕が、千切れそうなほどに疼く。

過剰な魔力使用による代償。解析回路の過熱。視界が、血のような赤色に染まっていく。


「……アルド、よく耐えた。エレナ、アイリスの耳を離してやれ。もう終わった」


ハンスが近づき、俺の肩を叩いた。その手は、驚くほど冷たく、そして安定していた。


「……ハンス。あんた……何者なんだ。帝国軍医総監って……」


「……済んだ話だ。それよりも、アルド。……今の戦いで分かっただろう。君の『創造』は、完璧な法の前では無力だ」


ハンスは、イシドールが去っていった白い闇を見つめ、言葉を続けた。

「今の君が創るものは、ただの『置物』に過ぎない。君がこれから識らなければならないのは、物質の構造ではない。……世界の『隙間』にある、目に見えない理屈だ」


俺は、自分の震える右腕を凝視した。

帝国最強の一角。その端くれにすら、俺の異能は届かなかった。

ハンスの言う「隙間」とは何か。イシドールが言った「バグ」とは何か。


「……ハンス、頼む。俺に、あんたの知っている全てを叩き込んでくれ。……このままじゃ、俺はまたアイリスを……アイリスを失う」


俺は地面に拳を叩きつけ、絞り出すように言った。

ハンスはしばらく沈黙した後、自嘲気味に笑い、俺の右腕に新しい包帯を巻き始めた。


「……いいだろう。ただし、地獄だぞ。……君のその『目』が、構造の美しさに絶望するほどのな」


琥珀色の静寂は戻らなかった。

だが、廃屋の焚き火は、より激しく、より冷徹な光を放って燃え始めた。


逃亡者としての安寧は終わり、俺は自らを「再定義」するための、苛烈な修練の日々へと身を投じることになった。

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